第1話

文字数 6,153文字

「さよなら」

 そう、たった一言を言い残して、彼女は去って行った。
 あれは中学三年生の、最後の春の一日だった。

「いいかげんに諦めたらどうだ」

 中学時代からの親友、浩二は言う。

「あれから何年経ってんだ。割りきっちまえよ雄太。親の都合で転校したんだろうが、仕方ないって」

 正確には、父親の転勤先に合わせて高校を受験したのだ。
 彼女は、その事を誰にも言わず、卒業のその日になって「さよなら」の言葉一つで、みんなの前から消えてしまった。
 あれから三年が過ぎようとしている。
 あまりにも突然の出来事だった。
 僕はその日、彼女に告白しようとしていた。「好きです」と。
 情けない男だと、自分でも思う。卒業の日でなければ、恋の告白も出来ない情けない男だと。
 しかも、その告白すら出来なかったのだ。彼女が言った「さよなら」の、そのたった一言のために。
 だから、今でも僕の心の中には「好きです」という言葉が、フワフワと行くあてもなく、ただただ無駄にさまよっている。
 あの日、あの時、もしも、この言葉が、僕の口から外に飛び出し、彼女の耳に入っていたら、どうなっていただろうか。
 彼女が応えてくれたかも知れない。
 たとえ失恋に終わっていても、今よりは心がすっきりしていたかも知れないし、新しい恋に巡り逢えていたかも知れない。
 そう、その日の僕は、失恋を本当に覚悟して告白する気だったんだ。
 僕は情けない男だから、失恋した相手と毎日顔を合わせる勇気がなくて、別々の高校へ行く僕と彼女が、最後にちゃんと顔を合わせる卒業の日を告白の日に選んだのに、それなのに……。

「ほんとに情けねぇなァ」

 そのことを初めて打ち明けたとき、浩二が言った最初の言葉がそれだった。

「そこまで決心してたんだったら、どうして言わなかったんだよ」

「だって……」

「だってじゃねぇだろ。同じことじゃねぇか。失恋した後、彼女に会い
たくないと思って卒業式の日を選んだんだったら、市内だろうと別の遠い街だろうと関係ないだろうが」

 それは、そうなんだけど……。

「ようするにアレだろ。お前は、『もしかして』の、そのほんのちょっとの、あるかないかの確率に望みを持っていたってワケだ」

 その通りだった。
 僕は、そのあるかないかのほんのちょっとの確率の『OK』に少なからず期待していたんだ。それがなきゃ僕は到底告白する勇気も出ない人間なんだ。

「さよなら」

 先生の横に立って言った、彼女のその一言が、僕のなけなしの勇気を一瞬のうちにしぼませた。

「いいかげんに諦めたらどうだ」

 中学時代からの親友、浩二は言う。
 僕は何も言ってないのに、付き合いの長いせいだろうか、僕の性格的なパターンを知っているからなんだろうか。浩二は、僕がまだ彼女のことを想っている事に気づいたらしい。いや、もしかしたら、ずっと好きだったのを知っていたのかもしれない。

「あれから何年経ってんだ。割りきっちまえよ雄太。親の都合で転校したんだろうが、仕方ないって」

 僕は、何も言えずにモジモジしていた。
 割り切れない、諦め切れない理由は、浩二が言った、

「まァ、うちの高校は、確かにかわいい女に不足してたけどよ……」

 では、決してない。
 告白出来ず、彼女の気持ちも判らないままになっている恋を、僕が未練がましく引きずっているせいだ。あの「さよなら」が、僕の心の時間をあの時のままに、止めてしまっているからなんだ。
 あれから。あの日から、三年が経とうとしている。
 僕はまた、再び受験生になった。
 もう、二つの大学から、不合格の通知が届いている。
 浩二は四つ。彼はもう、浪人が確定しているのだけれども、そんな事を気にしている様子は、まったくない。
 僕は、とても気になります。

「受かってるかなぁ」

 僕は、もう一つの悩みを漏らしてみた。
 理由は二つ。
 一つ目は、話題を変えたかったこと。
 僕の心は、もうすでに彼女への想いで飽和状態で、とてもじゃないけれど、これ以上彼女のことで悩める余裕がないため。
 本当は、それを少しでも解消したくて、彼女のことを知っている浩二に、それまで誰にも打ち明けたことのなかった話をしたのに。浩二は、このノーテン気な親友は、あっさりと人の傷口をえぐってくれた。しかも、あまつさえその傷口に、粗塩でもなすり付けるようなことを言ってのける。
 僕の心は、飽和状態を通り越して、破裂してしまったような感じがしている。
 それでも浩二はきっと慰めているつもりなのだろうけれど、僕には、ボディブローにしか感じられない。
 二つ目の理由は、悩み本体にある。
 実は、今日が三つ目の大学の合格発表の日なのだ。

「受かってなきゃ、俺と一緒に予備校生になるってだけだろ」

 簡単に言ってくれる。
 僕は、浪人したくないんだ。……その…出来ればの話だけど……。
 僕がモジモジしていると、浩二はすっくりと立ち上がり、モコモコの襟のついたジャンパーをはおる。

「んじゃ、そろそろ行こうぜ」

「え?」

 なんて言ってみる。
 本当は、どこに行こうと言っているのか判っているんだけど、反射半分、気が進まないの半分で、つい出た言葉が「え?」なのだ。

「『え?』じゃねぇだろバカ」

 確かに。

「合格発表に付き合ってもらいたくて、俺を呼んだんじゃねぇのか?」

 そのつもりなんだけど……。

「落ちてんのが怖くて行きたくねぇんだろ」

 僕は、後ろにブラックホールでも背負っているような暗い気持ちになった。

「心配すんな雄太。今時二浪三浪当たり前だ」

 こいつ、もう来年も浪人する気でいるんじゃないだろうな。
 などと思っている僕の手を強引に引っ張って、外へ出ようとする。

「ちょっ、ちょっと待って、服、服」

「服は着てるだろ」

 そでなくて。

「上着のことだよ」

 浩二の手を振り払い、一応、学生服に高校指定のハーフコートをはおると、浩二がいやそうな顔をする。

「なんだよ」

「耽ずかしい」

 どういう意味だ。

「ま、いいか。ホラ、さっさと行くぞ」

「あ、うん」

 田舎モンが都会の大学に行くのは大変です。
 一時間に何本とない電車に乗って、比較的大きな乗り継ぎ駅で乗り換えて、山の手線をぐるりと半周、新宿駅で私鉄に乗り換え最寄りの駅へ、それからまたしばらく歩かなきゃいけないときてる。
 どうせ田舎なら、北海道とか四国とか、思いっきり遠いはうが良かったのに……そうしたら、大学の近くに部屋を借りれば済むもの……受かってからの話だけど。
 道を進むと、あっちこっちの高校のいろいろな制服を着た人々が、喜びや落胆、不安なんかを顔に浮かべて歩いている。
 僕もその一人。
 こともあろうに頭に血が昇ってきたのか、こめかみの辺りの血管がピクピクと脈打つのが感じられて、クラクラする。
 極度に緊張している証拠だ。
 僕の心の心配事に対する許容量は、もう臨界点を辛うじて表面張力で保っているという状態で、これでもし、不合格だなんて事になったら、どうなるのか予想も出来ない。
 我ながらデリケートな精神だと思う。
 原因は、僕自身にあるのは、とっくに判っているのだけれど…体質だからなかなか解消出来ない。
 心配事を雪だるまにして、独りで苦しんでいる。
 情けない。

「情けない」

 浩二の声で我に返ると、そこは目的の大学の正門の前だった。
 どうも、ここで立ち止まったまま、動こうとしていなかったらしい。
 浩二に促されるままに、校門をくぐり、広いキャンパスを縦断して、冬用の制服で黒山の人だかりとなっている合格発表の掲示板の、遥かに、番号なんか確認出来ないところまでは来れた。
 ついにここまで来てしまった。
 と、言う感じ。
 僕のキャパは、もう、針が触れるだけでも溢れ出してしまいそうだ。
 今、すぐにでもこの場所から逃げ出したい。
 限界だ!
 もう駄目だ!
 溢れる!!
 そう思った瞬間だった。
 アスファルトの上の砂を引きずるように、逃げ出す準備で一歩、あとずさったそのときに、僕は、その聞き覚えのある声で呼び止められた。
 それは、今の僕を金縛りにすることの出来た唯一の声。
 そして、僕の許容量を一まわりも二まわりも大きくする声だった。
 そう、

「あれ? 雄太くんじゃない」

 と言った、その声の主こそ、僕のキャパを臨界点にしていた張本人、典子ちゃんだったのだ。

「あれ!?

 と、声を裏返して言ったのは浩二だった。
 僕はと言えば、声どころか、指一本、瞬き一つ出来ずに立ち尽くしていた。

「浩二くんたちもココ受けたの?」

 涙が出るほど懐かしく、優しく耳に入ってくる声だった。

「いやいや、俺は付き合い。受けたのはこいつだけ」

 そう言って浩二が突き飛ばしくれたおかげで、僕は、やっと金縛りから解放され、身体機能と一緒に、頭の中も目まぐるしく回転し始めた。
 あれ?
 今、雄大くんじゃないって言ったぞ。
 え?
 瞬き一つする間に、なんでもないような一言について何十通りもの解釈が、頭の中に浮かんでは消えて行く。
 そんな急な頭の中とは全く関係なく、外の世界は動いていた。

「へえ、そうなんだ」

 と言う、典子ちゃんの声が、頭に響く。
 僕は、彼女の瞳の少し横の辺りに視線を上げる。
 まともに見ることが、出来ないんだ。
 彼女は、そんな僕には、あまり関心がないのだろうか、普通の、あの頃とほとんど変わらない調子で僕に、この僕に話しかける。

「二人とも合格するといいね」

 って、僕に話しかけてくれたんだよ。
 そして、その一言が、またもや僕の頑の中を8ビットから一気に32ビットの高速処理回線に切り替えさせた。
 そうだよ、同じ大学なんだ!
 二人とも合格したら、同じキャンパスで生活するって事になるんだ。
 この時点で、僕の心配事はキャパの半分以下になった。
 今の僕の心を支配しているのは、心配事や不安の気持ちなんかじゃなく、未来の、楽しい大学生活の想像と、今、この場で、彼女と再会出来た喜びだった。

「ね?」

 そう、それは、僕の返事を求める彼女の声。

「そうだね」

 これが僕の、再会した彼女と最初に交わした言葉。

「ようし、んじゃ雄太、気合入れて掲示板まで出発だ」

 あ、そうか、浩二がいたんだっけ。

「雄太くん、何番?」

「え? 五九五五」

「なんだ、五か九しかねぇのか?」

「う、うん」

「でもいいじゃない『五か九しかない』って、いい語呂合わせだと思わない?」

「思う」

 と、最後に言ったのは、僕じゃなく浩二。
 ったく、調子いいんだから。

「典子ちゃんは?」

「私? 私はね、二八五九番」

「何かいい語呂合わせになんないかな」

 今頃になって語呂合わせもないっての。
 それに、いい語呂なら合格するって訳でもないだろ。
 とか思いながらも必死になって語呂を合わせていたりする僕。

「うーん、私もいろいろ考えてたんだけどね」

 受験生ってのは、みんな一緒なんだなぁ、なんて思っていたその時、なんかこうピーンと来たんだ。

「ね、こんなのどう? 2っこり8らって5か9っての」

「うまい! 座布団一枚!」

 なんだそりゃ?

「本当にそうなったらいいね」

「なるよ、きっと」

 精一杯の僕の言葉。

「うまい! この女泣かせ」

 絶妙の浩二のチャチャ。

「アハハ」

 トドメの笑い。
 ため息をついて、僕は、二千番台から番号を調べ始めた。

「にっこり笑って……」

 ……32・57・58…………

「あった!」

 と、叫んだのは典子ちゃんだった。
 そう、語呂合わせ通り、にっこり笑って彼女は合格した。

「よかったね」

「ありがとう、雄太くんのおかげね」

 語呂合わせの?

「次は、雄太の番だな」

 う……
 僕のほうは、『合格しかない』と言う語呂合わせの通りに、本当になるのだろうか。
五千九百番台に移動した僕は、恐る恐る番号を見ていった。
 03・22・27・42……
 その瞬間、僕の肩からすべての力が抜けた。 まわりの音がすべて消え、視界の中からある一点を残してまわりすべてが、一色に溶け込んでしまった。
 5955
 その番号は、確かにそこに存在していた。

「…………受かった……」

 一言、そう漏らした瞬間に、真っ白だった空間に色が、音が、すべての感覚が戻って来た。

「やったぁ!!

 二人の声が聞こえた。
 受かった。
 僕は、本当に受かったんだ。





 合格発表の帰り道、僕の心は、再びキャパが狭くなった。
 忙しい奴だと、自分でも思う。
 合格して『また典子ちゃんと同じ学校になった』それがキャパの狭くなった原因だ。
 そう、心が三年前に戻ってしまったのだ、あの日あの時の状態に。

「興奮してたら喉渇いたな」

 何を言ってんだ?

「私も」

「じゃ、喫茶店にでも寄ろうか」

 僕も調子がいい。
 喫茶店に入ると、それぞれに飲み物を注文して、まずは僕と典子ちゃんの合格の興奮から一息ついた。
 もちろん僕は、そんな興奮からはとっくに醒めていて、今は、この想いをどうしようかと思い悩んでいるところ。
 ところが、だ。浩二の奴、自分のジュースが来たとたん、鬼のような形相で一気に飲み干したかと思うと、

「俺、急に用事思い出したんで帰るわ。雄太、合格祝いだ、おごってくれ」

 とか言ってとっとと帰りやがった。
 なんだよ『合格祝いだ、おごってくれ』ってのは。
 二人きりになんかなったら僕は……ああ、無言の間が怖い……何か、何か言わなきゃ……。

「な、何だろうね、急に……変な奴だね……」

 それに対して、彼女は右手で頬づえをつき、浩二の出て行ったドアを見つめたままで、独り言のように僕に言った。

「気を使っているのよ。私が雄太くんのこと好きだったの知っているから」

 え? 聞いてないぞ、その話。

「昔の話なのにね」

「僕は、今でも君のことが好きだよ」

 彼女は、短い驚きの声をあげる。
 それ以上に僕も驚いている。
 ちょうど壁にぶつけたボールが跳ね返ってくるように、こんなに自然に告白出来たなんて、とてもじゃないが信じられない。

「雄太……くん!?

 その声は、再び僕を不自然なまでに自然の状態に戻した。

「あの……えっと……その…………さ」

 僕は、観念した。

「…………好きだったんだよ。ずっと……君のことが……」

「今もそう想ってる?」

 彼女は、意地悪く聞いてくる。
 僕はもう、言葉を失ってしまっていて、ただただ領くだけだった。

 領くしか、出来なかった。

「……よかった……」

 それが、彼女の……返事だったらしい。
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