諺症候群
文字数 1,894文字
「喉の痛みに、鼻水がよく出ると。伊藤さんは一週間前にも同じ症状で来院してますね」
先生の声が診察室に響き渡る。患者である伊藤さんはしばしば咳込みながらも先生の話を真剣に聞いていた。もうじき百歳を迎える長寿の彼はここ数ヶ月、たびたび風邪を引き起こしていた。
人差し指を机の上につきながら先生は伊藤さんが患っている病を考える。部屋には指の音と時計の音だけがカチカチと響いていた。
「おそらく『諺症候群』でしょう。伊藤さんの症状は『病気上手に死に下手』ですね。長寿の証ですので、心配はいりません。喉の痛みと鼻水がよく出るとのことなので、薬を出しておきます。お大事にしてください」
先生の話を聞くと、伊藤さんは「よかったです」と安堵する。辛そうな表情は消え、笑顔を浮かべて診察室を後にした。
諺症候群。この街にのみ蔓延している、いわゆる風土病だ。
諺という名前がついている通り、罹れば諺に準えた症状が現れる。先の伊藤さんに現れた『病気上手に死に下手』はその一種だ。
「羊肉の美味しさに気づいて、毎日のように食べてしまうと。諺症候群の『知ったが病』という症状ですね。栄養価はあるので、ほどほどの量を食べればいいと思います」
「最近のニュースの動向が気になって、SNSから手が離せないと。諺症候群の『人の疝気を頭痛に病む』という症状ですね。スマホやパソコンにロックをかけて一定時間使えないようにする方法を試してください」
「風邪をよく引く子だけど、ここ最近は全く風邪をひかなくて逆に困っている。最近は早寝早起きをするようになったと。諺症候群の『早寝早起き、病知らず』という症状ですね。健康であるのならば問題ありません。別の症状が出ましたらまた来院してください」
今日も来院するほとんどの人が諺症候群に罹っていた。この病の特徴としては諺のどこかに必ず『病』という言葉が入っていることだ。先生はすぐ調べられるよう机の上に『諺辞典』を置いて診察を行っている。辞典にはすぐに開けるように『病』が入っている諺のページに付箋がつけられている。
「今日も諺症候群の患者がたくさんですね」
患者と患者の入れ替わりで少し時間が空いたため私は先生と軽い雑談を交わす。
「全くだ。近頃は薬などで対応できるものが少ないから僕にはどうもできないよ。まさに『病は治るが癖は治らぬ』ってね」
諺症候群の患者を診察しすぎたからか、先生は話す最中に諺を交えて話すようになった。たまに分からない諺が出てくるので、私も今は小型サイズの『諺辞典』を胸ポケットに入れて、すぐ調べられるようにしている。
一言二言交わすと次の患者が診察室へと入ってきた。見る限りは元気そうな老婆だ。
「どうされましたか?」
「最近、家にいると体調が優れないんです」
「見た限りでは、あまり体調が悪そうには見えませんが。声もハキハキしていますし」
「そこが問題なんです。決まって体調が悪いのは家にいる時だけなの。他の場所に行くとすっかり元気になってしまう。今日も朝体調が悪かったから、ここに来てみたんだけど、待っている間に元気になってしまったんです。何が起こっているのか全く分かりません。先生、私は大丈夫なのでしょうか?」
老婆の話に、先生は人差し指で机の上をついて考える素振りを見せる。おそらく諺症候群であろうが、具体的な症状が分からない。
「最近、何か始めたこととかありますか?」
先生も私と同じようで、さらに詳細な情報を老婆へと聴き始めた。
「最近ですか。そうですねえー。先月におじいさんが亡くなって、彼の趣味であったガーデニングを引き継いだことくらいですかね」
老婆の話を聞いても、私は一向に症状は思い浮かばなかった。しかし、先生は分かった
ようでついていた指を止めた。
「おそらく諺症候群でしょう。症状は『きの病』かと思います。ガーデニングは息子や娘さんにお願いするか、止めるかした方がいいでしょう。でないと家にいる限りは体調の悪化は防げません」
先生の答えに老婆は「そうですか。では、娘に頼んでみます」と言って診察室を後にした。私は一連のやり取りを見ていて、疑問に思ったことを先生に尋ねることにした。
「今の患者さんの話のどこが『気の病』だったんですか。それでは、家以外の場所に行くと元気になることに説明がつきません」
「多分、認識が違うね。『気の病』ではなく、『木の病』だ。ガーデニングをしている時だけ発症するなら説明がつく。まさか諺症候群に変異株が発生するとはね」
私は空いた口が塞がらなかった。まさか諺症候群が変化するとは思ってもみなかったからだ。本当にこの病は『心腹の病』だ。
先生の声が診察室に響き渡る。患者である伊藤さんはしばしば咳込みながらも先生の話を真剣に聞いていた。もうじき百歳を迎える長寿の彼はここ数ヶ月、たびたび風邪を引き起こしていた。
人差し指を机の上につきながら先生は伊藤さんが患っている病を考える。部屋には指の音と時計の音だけがカチカチと響いていた。
「おそらく『諺症候群』でしょう。伊藤さんの症状は『病気上手に死に下手』ですね。長寿の証ですので、心配はいりません。喉の痛みと鼻水がよく出るとのことなので、薬を出しておきます。お大事にしてください」
先生の話を聞くと、伊藤さんは「よかったです」と安堵する。辛そうな表情は消え、笑顔を浮かべて診察室を後にした。
諺症候群。この街にのみ蔓延している、いわゆる風土病だ。
諺という名前がついている通り、罹れば諺に準えた症状が現れる。先の伊藤さんに現れた『病気上手に死に下手』はその一種だ。
「羊肉の美味しさに気づいて、毎日のように食べてしまうと。諺症候群の『知ったが病』という症状ですね。栄養価はあるので、ほどほどの量を食べればいいと思います」
「最近のニュースの動向が気になって、SNSから手が離せないと。諺症候群の『人の疝気を頭痛に病む』という症状ですね。スマホやパソコンにロックをかけて一定時間使えないようにする方法を試してください」
「風邪をよく引く子だけど、ここ最近は全く風邪をひかなくて逆に困っている。最近は早寝早起きをするようになったと。諺症候群の『早寝早起き、病知らず』という症状ですね。健康であるのならば問題ありません。別の症状が出ましたらまた来院してください」
今日も来院するほとんどの人が諺症候群に罹っていた。この病の特徴としては諺のどこかに必ず『病』という言葉が入っていることだ。先生はすぐ調べられるよう机の上に『諺辞典』を置いて診察を行っている。辞典にはすぐに開けるように『病』が入っている諺のページに付箋がつけられている。
「今日も諺症候群の患者がたくさんですね」
患者と患者の入れ替わりで少し時間が空いたため私は先生と軽い雑談を交わす。
「全くだ。近頃は薬などで対応できるものが少ないから僕にはどうもできないよ。まさに『病は治るが癖は治らぬ』ってね」
諺症候群の患者を診察しすぎたからか、先生は話す最中に諺を交えて話すようになった。たまに分からない諺が出てくるので、私も今は小型サイズの『諺辞典』を胸ポケットに入れて、すぐ調べられるようにしている。
一言二言交わすと次の患者が診察室へと入ってきた。見る限りは元気そうな老婆だ。
「どうされましたか?」
「最近、家にいると体調が優れないんです」
「見た限りでは、あまり体調が悪そうには見えませんが。声もハキハキしていますし」
「そこが問題なんです。決まって体調が悪いのは家にいる時だけなの。他の場所に行くとすっかり元気になってしまう。今日も朝体調が悪かったから、ここに来てみたんだけど、待っている間に元気になってしまったんです。何が起こっているのか全く分かりません。先生、私は大丈夫なのでしょうか?」
老婆の話に、先生は人差し指で机の上をついて考える素振りを見せる。おそらく諺症候群であろうが、具体的な症状が分からない。
「最近、何か始めたこととかありますか?」
先生も私と同じようで、さらに詳細な情報を老婆へと聴き始めた。
「最近ですか。そうですねえー。先月におじいさんが亡くなって、彼の趣味であったガーデニングを引き継いだことくらいですかね」
老婆の話を聞いても、私は一向に症状は思い浮かばなかった。しかし、先生は分かった
ようでついていた指を止めた。
「おそらく諺症候群でしょう。症状は『きの病』かと思います。ガーデニングは息子や娘さんにお願いするか、止めるかした方がいいでしょう。でないと家にいる限りは体調の悪化は防げません」
先生の答えに老婆は「そうですか。では、娘に頼んでみます」と言って診察室を後にした。私は一連のやり取りを見ていて、疑問に思ったことを先生に尋ねることにした。
「今の患者さんの話のどこが『気の病』だったんですか。それでは、家以外の場所に行くと元気になることに説明がつきません」
「多分、認識が違うね。『気の病』ではなく、『木の病』だ。ガーデニングをしている時だけ発症するなら説明がつく。まさか諺症候群に変異株が発生するとはね」
私は空いた口が塞がらなかった。まさか諺症候群が変化するとは思ってもみなかったからだ。本当にこの病は『心腹の病』だ。