第1話
文字数 3,325文字
「なつみ先生」
と、小二の井上拓は下校途中に立ち寄った子ども食堂で、大好きなボランティアに話しかけた。
「どうしたの、拓くん?」
都内の大学に通う木村なつみは、背を屈めてその子と目を合わせた。看護学校生で幼友達の河中麻友に初めてそこに連れてこられ、週に一度通うようになり、もう直ぐ三か月になる。
「ぼく、定規をなくしちゃって」
「あらら、どこで?」
「分からないんだよ」
「見つからないの?」
「うん、あれ、彼女からもらったやつなんだ」
「彼女?」
「うん、年長組から付き合ってるんだ」
「そうなんだ……。じゃー一緒に探そうか?」
「うん」
二人は手を繋いで探し始めた。
木造二階建てのその食堂は、小学校元調理員の中瀬幸子が数年前に自宅を週に一度解放する形で始まった。今では、町内会の婦人部が協力してくれ、ほぼ毎日夕方開いている。
子どもたちから「さっちゃん」と呼ばれ慕われている中瀬のことを、なつみはとてもおおらかで、やさしくて、みんなを包みこんでくれる人だと感じている。
『こういう人が、本当に苦労した人なんだろうな』
となつみは自然と尊敬するようにもなった。
「子どもから、教えられることの方が多いのよ、ここをやっていると……」
小太りのさっちゃんは、なつみと初対面のときに笑顔で話してくれた。
「気軽に来てもらえれば、ありがたいから……」
他のボランティアも楽しいそうで、なつみに断る理由はなかった。
カレー一杯が十円、日替わり定食が二十円。遊んだり勉強したりすれば、払わなくていい。毎日、二十人前後の小学生から高校生までが出入りしている。
『こんなに、いるんだ――』
となつみは、そこに行き始めたとき驚いた。毎回、母子の姿を二三組は見掛ける。
『わたしが子どものときにも、困っている子はいたはずなのに、みんな、どうしていたんだろう』
と不思議になり、自分がそういう境遇でなく育ったことに感謝の気持ちが素直に湧いてくる。
『恩送りをできれば……』
なつみがその手伝いを続けるモチベーションの一つになった。
中瀬がいう通り、なつみにはそこで毎回新しい発見と出会う。
この前は、
「どうしてカメラが好きなの?」
と小三で本好きの浜中結衣に聞かれたとき、はっとした。
「うーん、流れ星を撮りたいからかな……」
と咄嗟に応えた自分にも驚いた。今でもどうして好きなのか本当のところは分からない。シャッターを切るときの心地よさ。もう二度と同じ瞬間はないんだとの一抹の寂しさ――。セピア色の写真をずっと見てしまう不思議さ――。きっと心のどこかになにか理由はあるのだろうけれど、それを敢えて探そうとは思っていなかった。それも含めて気付かせてくれた。
こんなこともあった。
「ねー、今日、プールに入ったんだよ」
と小五の諸田翔はカレーを食べながら、横のなつみに嬉しそうに話しかけた。
「いいなー。気持ちよかったでしょ?」
「うん、それでねー、水泳って、すごいんだよ」
その少年は目を丸くした。
「どうすごいの?」
「息してることを教えてくれるんだよ」
「そうか……。いつも、気にしてないもんね」
「すごく大事なことなのにね」
と翔はニコリとした。
「ほんとだね」
なつみは、そんな気付きが重なると、町や家で独りになったとき、一体自分はどれだけアンテナを張って生きているのだろうと思うことがある。きっと小さい頃は、いろいろなことを感じ取っていたはずなのに――。
『わたしって、なにを大切に生きてきたのだろう。そして、なにを大事にしていくのだろう――』
そんなことを考えさせられることが多くなった。
空の雲が高くなり、街で紅葉が目によく留まるようになった頃。
「ねーねー、なつみお姉ちゃん、この本、読んで」
と小一の佐藤ミミちゃんが一冊の本を持って来た。
「ラヴ・ユー・フォーエバーって、いうんだ……」
なつみはその表紙を手にし、読んだことがなかったので楽しみになった。
「そうだよ」
ミミは床に座るなつみの膝の上にすんなりと腰掛けた。
「はーい、じゃー読みますよー」
なつみは、二人の前で頁を見開いた。
そこには、親が子どもを抱っこする姿と成人した息子が親を抱くことを通して、愛情は受け継がれることが描かれていた。
その読み手は先に進むにつれ目頭が熱くなり、涙声になった。
「なつみお姉ちゃん、大丈夫?」
その子は心配そうに見上げた。
「大丈夫だよ、ミミちゃん、いい本知ってるね」
「抱っこして」
なつみは少女をしっかりと抱き締めた。
『わたしにできることの一つかも――。わたしも、こうされたかった――』
なつみは、両親に抱っこされたとはっきり覚えている場面も感覚もなかった。
『これからはできるだけ、子どもたちを抱っこしよう』
と決めた。
帰宅後、なつみはお風呂に入りながら、
『子どもとの関わりをちゃんと勉強するのもいいかも――』
大学で社会学を専攻する予定だったものの、児童心理学か、子どもと社会の関係を学べるなにかを専門にするのもいいかと思った。
「学校の先生は?」
と心で誰かが聞いてきた。
『ちょっと、教えることは、苦手かも――』
なつみは湯気が漂う回りをぼんやりと眺めていた。
クリスマス前のこと。
寒い夜に車椅子に乗った子が母親に押されて、子ども食堂に恐る恐る入ってきた。
中瀬と挨拶を交わしているその親子を見るのは、なつみにとって初めてだった。
「足、どうしたの?」
とその子に早速話しかけている子どもがいる。
「あそぼ」
と寄ってくる子も。
久し振りに来た麻衣は、食事の準備を手伝っている最中でいなかった。
なつみは、なにもできずに立っていた。
「なつみ先生も、一緒にあそぼ」
と小二の広田心が誘ってくれ、その車椅子に近づけた。
その日、なつみと麻衣は帰り仕度をしていると、中瀬に話しかけられた。
「子どもって、直ぐに打ち解けるからすごいよね」
「本当ですね」
となつみは素直に応えた。
麻衣は頷いていた。
「大人がいろいろな壁を作ってるのよ。どっぷり大人になっちゃったけどね」
とそのリーダーはいいながら笑った。
なつみも麻衣も微笑んだ。
その帰り、
「どうして、わたしって、車椅子を見たとき、なにもできなかった
んだろう?」
と、なつみは歩きながら横の麻衣に聞いた。
「初めてだったら、仕方ないよ。わたしも最初は、なんにもできなかったし……」
「正直、どう声をかけたらいいか分からないんだよねー」
なつみは少し情けなくなる。
「子どもの真似すれば、いいのよ。いい先生だよ、彼らは」
麻衣は教えてくれた。
「そうかー」
なつみは素直に納得した。
「子どもって、わがままで、無理をしないでしょ。そういう意味で自分を持っていると思うんだよね。すごいよ、やつらは」
と麻衣は気持ちよさそうにいった。
「すごいよね」
となつみは本当にそう感じた。
「後は、慣れだろうね」
「そうか」
『自分で責任を持って、自分の感性を信じてイエス・ノーをいえるようになりたい』
なつみは、そのことがどこかカメラが好きな理由とも関係しているような気がした。
ジングルベルの音楽が遠くに聞こえた。
そのボランティアを始めて一年が経ち、大学に八重桜が咲き始めていた。
なつみは、子ども食堂に向かうため、そのキャンパスを出た。
『わたし、こんなに夢中になっていること、今までなかったんじゃないかな――。生きがいを感じているかも――』
子どもたちの笑顔が目に浮かぶ。
「今から、さっちゃんのところに行くね」
と麻友にラインを送った。
「わたしも」
「後でね」
子どもたちに出会えて、相手を、自分を、少しは広く見ること
ができるようになった。
『子どもたち、もっと勉強させてもらいますよ』
なつみは、元気よく歩き始めた。
そのとき、なつみの側を、きれいな風が通り過ぎて行った。
(了)
と、小二の井上拓は下校途中に立ち寄った子ども食堂で、大好きなボランティアに話しかけた。
「どうしたの、拓くん?」
都内の大学に通う木村なつみは、背を屈めてその子と目を合わせた。看護学校生で幼友達の河中麻友に初めてそこに連れてこられ、週に一度通うようになり、もう直ぐ三か月になる。
「ぼく、定規をなくしちゃって」
「あらら、どこで?」
「分からないんだよ」
「見つからないの?」
「うん、あれ、彼女からもらったやつなんだ」
「彼女?」
「うん、年長組から付き合ってるんだ」
「そうなんだ……。じゃー一緒に探そうか?」
「うん」
二人は手を繋いで探し始めた。
木造二階建てのその食堂は、小学校元調理員の中瀬幸子が数年前に自宅を週に一度解放する形で始まった。今では、町内会の婦人部が協力してくれ、ほぼ毎日夕方開いている。
子どもたちから「さっちゃん」と呼ばれ慕われている中瀬のことを、なつみはとてもおおらかで、やさしくて、みんなを包みこんでくれる人だと感じている。
『こういう人が、本当に苦労した人なんだろうな』
となつみは自然と尊敬するようにもなった。
「子どもから、教えられることの方が多いのよ、ここをやっていると……」
小太りのさっちゃんは、なつみと初対面のときに笑顔で話してくれた。
「気軽に来てもらえれば、ありがたいから……」
他のボランティアも楽しいそうで、なつみに断る理由はなかった。
カレー一杯が十円、日替わり定食が二十円。遊んだり勉強したりすれば、払わなくていい。毎日、二十人前後の小学生から高校生までが出入りしている。
『こんなに、いるんだ――』
となつみは、そこに行き始めたとき驚いた。毎回、母子の姿を二三組は見掛ける。
『わたしが子どものときにも、困っている子はいたはずなのに、みんな、どうしていたんだろう』
と不思議になり、自分がそういう境遇でなく育ったことに感謝の気持ちが素直に湧いてくる。
『恩送りをできれば……』
なつみがその手伝いを続けるモチベーションの一つになった。
中瀬がいう通り、なつみにはそこで毎回新しい発見と出会う。
この前は、
「どうしてカメラが好きなの?」
と小三で本好きの浜中結衣に聞かれたとき、はっとした。
「うーん、流れ星を撮りたいからかな……」
と咄嗟に応えた自分にも驚いた。今でもどうして好きなのか本当のところは分からない。シャッターを切るときの心地よさ。もう二度と同じ瞬間はないんだとの一抹の寂しさ――。セピア色の写真をずっと見てしまう不思議さ――。きっと心のどこかになにか理由はあるのだろうけれど、それを敢えて探そうとは思っていなかった。それも含めて気付かせてくれた。
こんなこともあった。
「ねー、今日、プールに入ったんだよ」
と小五の諸田翔はカレーを食べながら、横のなつみに嬉しそうに話しかけた。
「いいなー。気持ちよかったでしょ?」
「うん、それでねー、水泳って、すごいんだよ」
その少年は目を丸くした。
「どうすごいの?」
「息してることを教えてくれるんだよ」
「そうか……。いつも、気にしてないもんね」
「すごく大事なことなのにね」
と翔はニコリとした。
「ほんとだね」
なつみは、そんな気付きが重なると、町や家で独りになったとき、一体自分はどれだけアンテナを張って生きているのだろうと思うことがある。きっと小さい頃は、いろいろなことを感じ取っていたはずなのに――。
『わたしって、なにを大切に生きてきたのだろう。そして、なにを大事にしていくのだろう――』
そんなことを考えさせられることが多くなった。
空の雲が高くなり、街で紅葉が目によく留まるようになった頃。
「ねーねー、なつみお姉ちゃん、この本、読んで」
と小一の佐藤ミミちゃんが一冊の本を持って来た。
「ラヴ・ユー・フォーエバーって、いうんだ……」
なつみはその表紙を手にし、読んだことがなかったので楽しみになった。
「そうだよ」
ミミは床に座るなつみの膝の上にすんなりと腰掛けた。
「はーい、じゃー読みますよー」
なつみは、二人の前で頁を見開いた。
そこには、親が子どもを抱っこする姿と成人した息子が親を抱くことを通して、愛情は受け継がれることが描かれていた。
その読み手は先に進むにつれ目頭が熱くなり、涙声になった。
「なつみお姉ちゃん、大丈夫?」
その子は心配そうに見上げた。
「大丈夫だよ、ミミちゃん、いい本知ってるね」
「抱っこして」
なつみは少女をしっかりと抱き締めた。
『わたしにできることの一つかも――。わたしも、こうされたかった――』
なつみは、両親に抱っこされたとはっきり覚えている場面も感覚もなかった。
『これからはできるだけ、子どもたちを抱っこしよう』
と決めた。
帰宅後、なつみはお風呂に入りながら、
『子どもとの関わりをちゃんと勉強するのもいいかも――』
大学で社会学を専攻する予定だったものの、児童心理学か、子どもと社会の関係を学べるなにかを専門にするのもいいかと思った。
「学校の先生は?」
と心で誰かが聞いてきた。
『ちょっと、教えることは、苦手かも――』
なつみは湯気が漂う回りをぼんやりと眺めていた。
クリスマス前のこと。
寒い夜に車椅子に乗った子が母親に押されて、子ども食堂に恐る恐る入ってきた。
中瀬と挨拶を交わしているその親子を見るのは、なつみにとって初めてだった。
「足、どうしたの?」
とその子に早速話しかけている子どもがいる。
「あそぼ」
と寄ってくる子も。
久し振りに来た麻衣は、食事の準備を手伝っている最中でいなかった。
なつみは、なにもできずに立っていた。
「なつみ先生も、一緒にあそぼ」
と小二の広田心が誘ってくれ、その車椅子に近づけた。
その日、なつみと麻衣は帰り仕度をしていると、中瀬に話しかけられた。
「子どもって、直ぐに打ち解けるからすごいよね」
「本当ですね」
となつみは素直に応えた。
麻衣は頷いていた。
「大人がいろいろな壁を作ってるのよ。どっぷり大人になっちゃったけどね」
とそのリーダーはいいながら笑った。
なつみも麻衣も微笑んだ。
その帰り、
「どうして、わたしって、車椅子を見たとき、なにもできなかった
んだろう?」
と、なつみは歩きながら横の麻衣に聞いた。
「初めてだったら、仕方ないよ。わたしも最初は、なんにもできなかったし……」
「正直、どう声をかけたらいいか分からないんだよねー」
なつみは少し情けなくなる。
「子どもの真似すれば、いいのよ。いい先生だよ、彼らは」
麻衣は教えてくれた。
「そうかー」
なつみは素直に納得した。
「子どもって、わがままで、無理をしないでしょ。そういう意味で自分を持っていると思うんだよね。すごいよ、やつらは」
と麻衣は気持ちよさそうにいった。
「すごいよね」
となつみは本当にそう感じた。
「後は、慣れだろうね」
「そうか」
『自分で責任を持って、自分の感性を信じてイエス・ノーをいえるようになりたい』
なつみは、そのことがどこかカメラが好きな理由とも関係しているような気がした。
ジングルベルの音楽が遠くに聞こえた。
そのボランティアを始めて一年が経ち、大学に八重桜が咲き始めていた。
なつみは、子ども食堂に向かうため、そのキャンパスを出た。
『わたし、こんなに夢中になっていること、今までなかったんじゃないかな――。生きがいを感じているかも――』
子どもたちの笑顔が目に浮かぶ。
「今から、さっちゃんのところに行くね」
と麻友にラインを送った。
「わたしも」
「後でね」
子どもたちに出会えて、相手を、自分を、少しは広く見ること
ができるようになった。
『子どもたち、もっと勉強させてもらいますよ』
なつみは、元気よく歩き始めた。
そのとき、なつみの側を、きれいな風が通り過ぎて行った。
(了)