プロローグ

文字数 1,009文字

目隠しをするように、夜の帳が落ちる。
つま先を濡らす冬の海は、針のように鋭く冷たい。
昼間の地形を脳裏に描くと、イメージとぴたりと合った波飛沫が、岩礁に砕けて頬に触れた。そのたびに、嗅ぎ慣れた潮の香りが鼻先を掠める。
時東海成は「人生のピークはあのときだ」と呟いた。

「狂気こそ、色鮮やかにーー」
物悲しい夕暮れの図書室で、密やかな甘美を告げるように月瀬明里は唇に人差し指を立てて微笑んだ。
海成は、今日こそ気持ちを告げると決めていた。
緊張のあまり、十二月ということも忘れて手汗が滲む。
冬休みを二日後に控えた最後の図書当番。ここが二人きりになれる唯一のタイミングだと、海成は最後の生徒が退出するのを待っていた。
そしてそのときが訪れた瞬間、月瀬が言ったのだ。
『狂気こそ、色鮮やかにーー』
「急になに。それも小説か何かで読んだ話?」
海成は苦笑しながら記憶を辿ってみた。だが、緊張のせいか、曖昧なことに気づいてひどく焦る。
(しまった。彼女となんの話をしていたんだろうか)
もしも機嫌を損ねたら……いや、人の話も聞かない奴だと思われたら……。そう思うと、ブレザーの中で冷や汗が背中を伝った。月瀬と言えば、特別気にした様子もない。海成はそっと胸を撫で下ろしたが、ふと疑問が湧いた。
だとしたら、さっきの言葉はどういう意味だろう。
月瀬は最後の生徒が置いていった一冊を手に取ると、書棚へ戻しにカウンターを後にした。
腰まで垂れた黒髪が、冬の頼りない斜光に赤く染まる。
彼女は、時折こうした冗談を口にする。
端整な容姿と相まって近寄りがたい雰囲気を放っていたが、それすら彼女の魅力となって人目を引いた。
彼女の傍らは、よく目立つ。
そばにいれば、特別な「何か」になったみたいに気持ちが昂った。
図書委員をきっかけに「友人」となり、他愛もない話をして笑い合う。だが、高校入学当初は海成もまた彼女に尻込みする男子生徒の一人に過ぎなかった。

終止符を打った今となっては、全てがまやかしなのだとよく分かる。
友達でもなければ、海成は彼女のことなどなに一つ知ってはいなかった。
「月瀬ーー」
懐かしい図書室の静寂は、ひどく遠い。
呼んでみたが、記憶の中の彼女は意地悪く微笑んだだけだった。
瞼を閉じれば、夜の闇は一層深まった。海岸に吹きすさぶ暴風雨が、荒波の立てる潮騒とともに鼓膜を押す。
過ちに気づいたところで、もう遅い。
狂気の蜜を教えてくれた彼女は、どこを探してもいないのだからーー。
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