第1話

文字数 1,759文字

大学のチャペルではハンドベル卒業演奏会が行われている。みどりはこの4年間、ハンドベルに出会い、自分がどんなに変わることができたか思い返していた。
念願の大学に入学し、新入生歓迎会で初めてハンドベルの演奏を聴いた。一つ一つの音が合わさり、美しい音色を奏で、心が洗われるようだった。みどりはその場で入部を希望し、ハンドベル部に入った。
ハンドベルは見た目よりも演奏するのが難しかった。まずは、ベルの持ち方、音の出し方を習得しなければならない。それから、1人で2,3個のベルを担当し、みんなで合わせる。決して1人では演奏できない。1人1人に価値があると言われているように感じ、みどりは自分の存在価値を感じられるようになっていった。
高校までみどりは自己肯定感が低かった。引っ込み思案で友達といても、家族といても自分はいてもいなくてもいいような存在だと感じていた。クラブの先輩に高校時代に感じていたことを伝えると、先輩は
「みどりちゃんって観葉植物みたいだよね。何もしていなくても、そこにいるだけでいい。見る人の心を和ませてくれる。癒しを与えてくれる存在なんだよ。」と言われ、自然と涙がこぼれた。
もう、今日でこの仲間と一緒にハンドベルを演奏することが終わってしまう。演奏しながら、みどりは涙を流していた。


庭を掃除しているときに、チャペルからハンドベルの演奏が聴こえてきた。拓郎は今年秋から庭掃除の職についた。今、67歳。退職したいが、まだ老後が不安なので、働かなければならない。ハンドベルの演奏は初めて聴いた。心が軽くなる思いがして、チャペルの窓から中を覗いてみた。背筋をピンと伸ばし、手袋をはめてベルを鳴らしている学生の姿は美しかった。拓郎はポケットから煙草を取り出し、火をつけようとしたが、仕事中だということを思い出し、再び、ポケットに押し込んだ。
演奏を聴きながら、過去の自分を思い返していた。高校を卒業した後、土木の仕事に就き、暇さえあれば、飲み歩き、付き合っていた子が妊娠してしまったから、結婚した。妻と子供を養うために仕事を転々としつつも、泥まみれになりながら、一生懸命生きてきた。ここの学生は目的を持って、生きているのだろうか。少なくともこの演奏をしている学生は拓郎には生き生きと輝いて見えた。それに比べ、自分には輝いた時期があっただろうか。
妻や子供にはいつも煙たがれている。妻は数か月前に離婚をしたいと言い出し、必要以上のことを話しかけてこなくなった。子供も大学を卒業してからは特に連絡もよこさない。必要がなくなれば、ポイっと捨てられる。自分はまるで煙草みたいだなとポケットに入っている煙草の箱をクシャっと潰した。


演奏を終えた学生がチャペルから出てきた。拓郎は何か学生たちに言いたいと思い、どんな言葉をかけたらいいのかとっさに考え、最後の学生の背中に呼びかけた。
「あの、すみません!演奏とてもよかったです。あの楽器は何ですか。」
みどりは振り返り、庭掃除のおじさんが話しかけてきたことに驚きつつも、
「ありがとうございます。『ハンドベル』といいます。きれいな音色ですよね。次の演奏は4月の新入生歓迎会なので、ぜひ、また聴いてみてください。次の演奏にはもうわたしはいないんですけどね。それじゃ!」と涙目の笑顔を見せて、仲間の元に走って行った。
シンプルで優しいハンドベルの音色が耳に残っている。拓郎は次回の演奏日は仕事を休んで、チャペルに入り、席に着いて、全曲聴いてみたいと思った。
家に帰ったら、ハンドベルについて調べてみようと思った。あの最後の曲はなんだろう。印象的だった。音楽好きの妻なら知っているかもしれない。次の演奏会には妻も誘ってみよう。そういえば、今まで妻と二人だけで出かけたことがあっただろうか。息子がいた時は家族みんなで出かけていた。息子の手が離れてからは、拓郎は飲み友達と出かけ、妻は近所の友達とお茶を飲みに行ったり、何か習い事をしたりしていた。二人の時間を持とうとしていなかったことに初めて気づいた。この演奏会が二人の隙間を埋めてくれるかもしれない。天井の窓から光が差し込み、妻と一緒に演奏を聴いている風景を拓郎は思い浮かべていた。今からでも、遅くない。小さい光でもいいので、自分の人生を輝かせたいと思った。
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