第1話

文字数 2,500文字

 ぼくが入院した病院は藍川のすぐそばにあった。深夜、ひっそりかんとした病室に瀬音がとどいた。
 隣接して、鮎などの川魚を食べさせる料亭風の居酒屋があった。鮎はもっと上流でとれるが、数が少なく需要をみたせない。ほとんどを養殖ものでまかなう。あらいや揚げ物、鯉こくなどの鯉料理も出すが、いまいち人気はない。それでも、毎日夕方から夜おそくまで店内はこうこうと明るく、電球の橙色の光が窓からあふれ川面にこぼれている。眼をこらして見ると、店内の客はみんな亀の顔をしている。石亀にミシシッピィ赤耳亀、ゾウガメにすっぽんなど、いろんな亀が鮎の塩焼きにかぶりつき、ビールのジョッキをあおっている。
 ぼくが向きあっている壁には、幅十センチ高さ二メートルくらいのスリット状の窓が、何本か並んでいる。ぼくはその細いすき間から外をのぞき、そんな川魚の店の様子を、こんなところにこんな店があったんだ、ちっとも知らなかったなあ、とのんきに感心しながら眺めているのだった。
 ぼくがいたのは、正面入口階からすると地階の、病院裏手のどんづまりの空間だった。川岸ぎりぎりに接していたので、威勢のいい店員の声がときおり飛びこんでくる。そこは「休憩所」のようで、何人かの入院患者がどこを見るともなくぼんやりと、長椅子や車椅子にすわって休んでいる。彼らは色付きの影のように見えた。細長い窓から我先にと押し入ってくる夕焼けの光と居酒屋の灯りをうけて、抜け殻の患者たちは黄赤に照りはえていた。
 後ろにエレベーターの扉があり、右横に階段への通路口が空いているほかは、無機質な灰色のコンクリート壁に囲まれている。天井は高い。ぼくは車椅子に乗っている。奥さんが後ろで、車椅子のハンドルをにぎっている。ハンドルを持つ手からじわじわと伝わってくるその優しさに、ぼくは感謝していた。なのに、どうしてもその思いを言葉にできないのだった。いや、忘れていた。
 ちなみにぼくの奥さんは、二十九歳である。ぼくとの年の差は十ある。彼女が大学生のとき、ぼくの勤める高校に教育実習に来たときに知り合った。彼女の家は父子家庭だった。父親は隣の市の地方公務員で、真面目で優しい人だった。父一人、娘一人だから、当然甘やかされた。父親っ子で、ファザコンなのは仕方ないだろう。父親は順調に昇進し給料も上がり、家は経済的には恵まれていた。だが、片親家庭につきものの苦労もあったようだ。
 小学校は楽しかったらしいが、中学校に上がると、いじめられるようになったと聞いた。付き合っているときのことだが、彼女は生活の問題をどう処理しどの道を行くべきか迷ったとき、「お父さんならこうする」「お父さんならそんなことはしない」と父親の行動をその指針とした。何でも父親が基準だった。もっとやっかいなのは、自分だけでなく、ぼくやほかの人の行動もそれで制御しようとしたことだった。おそらく中学校でも周りの人たちと何かするとき、そういう態度というか姿勢が目についたのではなかろうか。それにカチンときた子が父親との近親相関的な噂を流し、それがちょっときついいじめに発展したらしい。死ぬことも考えたというが、いい先生にめぐまれ適切な指導と保護とによって何とか立ち直ったそうだ。でも、彼女は人が信じられなくなった。いや、たぶん人は信じたいのだけれど、信じることが怖くなったのだろう。安心して信じられるのは父親だけだったようだ。
 人を信じることが怖いから、人との付き合いの密度を薄くするようになった。そして、人から拒絶されることを極度に恐れるようになった。例えば、何かをして遊ぼうと誘ったり、一緒に勉強しないと切り出したりしたとき、相手がそれを拒否することに(死ぬほど)堪えられないのだ。だから、誰にも話しかけなくなっていった。僕にもそういうところが無きにしも非ずだったので、その気持ちはよく分かる。とにかく付き合うようになり、お互い相手を気遣いながらゆっくりと恋するうちに、ぼくからプロポーズし結婚まで漕ぎつけた。だが、彼女は夫婦として暮らすようになっても、心の一番奥では僕のことを信じていないと思う。拒まれることを怖がって、普段の生活でも大方のことは自分の意見を言わなかった。ただ「信じられない」というのが口癖だった。しかしその抑圧された思いは心に(おり)のように溜まり、それがぎゅうぎゅういっぱいになると、時々、破裂するのだった。といっても熱くはなく、抑えられたその言葉は、ツララのように冷たく尖っていた。ぜったいに許さない、と彼女はよく言った。
 人が信じられなくても、自分を信じることができたら、まだ生き易かったのだろうと思う。前にも言ったように典型的な父親っ子であったから、自分を信じるより父親を信じて頼りきる生き方を選んだ。だから、いつも一歩下がって、誰かの陰に隠れようとしている、大人しいお嬢さんに見えた。
 といっても、厳密にいえばそれは結婚前の話である。血と肉をわけたわが子を産んで母親になってからは、しだいしだいに安定した雰囲気を漂わせるようになった。見た目も実際、徐々に腰まわりから臀部、太股にかけて肉がつき、下半身がはちきれそうな果実のように膨らんでいった。洋梨のような体形で立ち、その胸に赤ん坊を抱いている姿は、「わたしは子どもを産んだ女なんだぞ、どうだ、えらいだろう、えへん」とのんきに威張っているようにも見えた。しかし、やはりその皮一枚の裏がわには不信と恐れが潜んでいて、時おりちらりとその気配が見え隠れするのだ。子育てに慣れて行ってもそれはけっして消えなかった。壊れものの奥さんであった。
 エレベーターに乗ろうとして、首をひねって後ろに立つ奥さんを見た。見覚えのある顔がそこにはあった。新婚当時、毎朝、出勤しようとする夫に、気恥ずかし気に恐る恐るキスをねだった、初々しい奥さんの顔があった。やさしい奥さんであった。
 ぼくは逃げるように車椅子でエレベーターに入った。奥さんは一緒には乗らなかった。奥さんは二階のボタンを押すまでは、後ろにいた。見るまでもなく、もう顔はなった。こわい奥さんであった。
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