それぞれのレモネード

文字数 1,070文字

「クラシックは性に合わないんだよね」
 振り向いた先にはパジャマ姿の少年がいた。

 私がこの豪邸にピアノの家庭教師として雇われたのは1ヶ月前。住み込みだったのは実家を追い出された落ちこぼれ音大生には有難い。

 真夜中、水を飲もうとライト一つのキッチンにいた私の背中に突然そんなことを言ったのは、生徒であるこの家の一人息子。
「嫌いなわけじゃないけど」
 変声期も迎えていない少年の呟き。
 少年はカウンターチェアに飛び乗るように腰かけた。くせの一つもない髪がキッチンライトの光を反射した。

 私は冷蔵庫を開け、中にあったソーダをグラスに注いだ。
「でも教えることないぐらいいつも完璧に弾きこなすじゃない?」
 ハチミツを垂らし、同じく冷蔵庫にあったスライスレモンを一切れピックでつまみ、ソーダの上に浮かべた。
「羨ましいぐらいよ。私にもその才能があれば、こんな広すぎる世界に放り出されることもなかったかもね」
 かりそめのレモネードとともに少年の隣に腰かける。

 肌の白い端正な顔は半分が影になっていて異様に大人びて見える。それでもカウンターチェアに腰かければ浮いてしまう足が幼さを感じさせ、どうにも不均衡だった。
「先生は、広い世界で一人ぼっちなんだね」
 レモネードを見つめるブラウンの瞳には、まるで世界のすべてを見たかのような、ほんの少し疲れた光が宿っていた。

「ボクも同じだよ。一人ぼっち」
 彼の言葉はキッチンの薄暗さと静けさのせいか、何とも言えぬ虚無感をまとう。

「でも、先生とボクは違う世界にいるみたい」

 大抵のことはそつなくこなす彼の才能を伸ばそうと、両親はこれまで何人もの家庭教師を雇ったという。
「まるでアタッチメントだよ。くっつければくっつけるほど進化すると思ってる」
 少年の意思など関係ない。大人たちは彼を子供扱いする。
「学校だって同じだよ」
 同級生とも話が合わない。

 私にとって広すぎるこの世界は、彼にとっては狭すぎるようだ。

 私は別のグラスにレモネードをちょうど半分に分けた。
「じゃあ、私がいる世界を少しだけあなたに分けてあげる」
 均等になった二つのグラスのうちの一つを少年の前に置いた。一口飲んだ彼は、レモンの味なんかしないと言って舌を出して笑った。

 いつあの教育熱心な親が起きてくるかもわからないのに、二人で夜更かしだなんてバレたら大変だね。レモンとかソーダとか勝手に使ったこと、怒られるかも。

 広すぎる世界と狭すぎる世界。別々の世界でそれぞれ孤独な二人。
 でも午前一時までのこの時間、二人は均等に分け合った同じ世界で、レモネードを飲んでいる。
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