第1話

文字数 1,792文字

 なぜ高校野球の決勝戦はだいたい炎天下の中行われるのだろうか。車を降りた瞬間、暑さでぶわっと汗が吹き出るのを感じた。
 野球の試合を観にくるのなんていつ以来だろう。私の母校が甲子園初出場を決めたのも今は昔。すっかり古豪と呼ばれるようになってしまった。
 そんな母校、永泉学院はなんと今年は4年ぶりに決勝まで勝ち進んでいた。
 若手が育った今しかないと思い、私はすぐさま休暇を申請した。順延に対応できるよう、念のため翌日も休暇をとっているという徹底ぶりである。
 母校側の観客席に向かっていると、見覚えのある歩き方をする人が近づいてきた。上司だ。そういえば休暇の取得日被ってるなあとは思っていた。なんとなく会釈をする。
「こんにちは。こんなところで会うとは思いませんでした。」
「下の息子がね、最後の大会かもしれないからと言っていたものでね。里中さんは?」
「永泉の卒業生なんですよ」
「ああそうか!じゃあ初出場のときは現役生だ。」
時が経つのは早いねえ、そうぽつりと言うと上司は汗だくの広い額を拭きあげた。
 ではまた、などと言いながら足早に先を急ぐ。思わぬところで時間を食ってしまった。一塁側スタンドが昔来た時よりもずっと遠くに感じられた。
再び灼熱の太陽の下に出ると、チームカラーの青で染まった客席が広がっていた。
「サト!」
「よ、本間。ちゃんと先生してるじゃん。」
同級生だった本間は念願叶い、母校で吹部の顧問をしていた。
「差し入れ。みんなで飲んで」
ケースで持ってきた飲み物を渡す。大手メーカーほどではないが、うちのスポーツ飲料も悪くはないはずだ。
「飲料メーカー様様だわ〜ありがとね!」
「今日も暑いから!体に気をつけて!」
そう言ってポツポツとしか人がいない遠くの席へ移動する。高校生のラッパの音など間近で聞いたら体が吹き飛んでしまうだろう。
ローカル局のラジオをつけているとサイレンが鳴り、夏の高校野球選手権大会A県代表を決める試合が始まった。永泉は後攻だった。
 4回表、永泉のピッチャーは球が荒れ、相手校のランナーは着々と増えていった。塁に溜まると甲子園初出場の時のことを思い出す。
 あの試合はどう考えても選手の誰もが死力を尽くしていた。だが甲子園での時間はあっという間に終わってしまった。
 がんばったのになんで勝てなかったの、と子供っぽいことを思ったものである。
 それから2-2でこう着状態が続き、この暑いのに延長戦かもな。と思いかけた矢先、8回裏でガラスの膜をぶち破るような快音が響いた。
 わあっと響く歓声。ソロホームランである。
永泉に点が入り、どうかこのまま固く固く守り続けてくれと切に願った。
 そしてそのまま迎えた最終回。ツーアウト1、2塁。フルカウント。ひょっとすると勝ち越されてしまうような状況でピッチャーはずっとキャッチャーとにらみ合っていた。
すぐ進塁できるように、ジリジリと動くランナーたち。すぐアウトにできるよう微妙なポジションで構える守備陣。ベンチを含め、グラウンドにいる誰もが諦めてなんていなかった。
言わずもがな客席私たちも懸命に応援を続けた。それとは裏腹にマウンドの上はとても静かで見ているこっちが緊張してきた。
大丈夫、大丈夫!
 そう心の中で叫びながらただひたすら試合が無事に終わることを祈った。
 ピッチャーの投げたボールは、ど真ん中に構えられたキャッチャーミットに吸い込まれた。その瞬間、栄泉学院の甲子園出場が決まった。
 球場に喜びと悲しみが入り混じる最中、永泉キャプテンによるあいさつが始まった。上司の息子らしい。広い富士額とたれ目がそっくりだった。
「永泉が初出場の時、僕は小学生で甲子園に見に行ってました。」
「サヨナラ負けが本当に悔しかったのを今でも覚えています。」
「今度こそ、少しでも長く試合ができるよう部員一同頑張ってきます。」
「応援よろしくお願いします。」
あの時受験そっちのけで甲子園に行き、友だちと肩を落とした球場に、上司たち親子もいた。その試合を見ていた少年が今度は大舞台に立つ。人生って思いがけないものだと思った。
それから数日もすると、母校から寄附を募るDMが届いた。アルプススタンドに通っている高校の校歌が響く興奮を、熱気とともに一喜一憂する楽しさを他の誰かに味わってほしいと思った。
「高校生に課金してやるか〜」
そう呟きながら私は振り込み用紙にペンを走らせた。
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