第1話

文字数 5,411文字

 朝、駅の前の赤信号で立ち止まり、なにげなく隣を見上げると、そこには馴染みの人の姿があった。
 すぐに、そっちもわたしに気がつく。
 そして、顔を見合わせ――まさに相手の顔をじっと見て。
 互いの鼻から口にかけて、今まで見たことがない、白く四角いものの存在に目を丸くする。
「「花粉症?」」

 


 <コートは玄関で脱ぎ、部屋には持ち込むな。>
 <<それ、やってる、やってる! 帰ってきたら、直ぐにシャワーも浴びてるよ。>>
 <わかった、今日からやる。会社の人からよく効くサプリを聞いた。試してみろ。>
 <<ありがとう。その種類は知らなかったなぁ。帰りに薬屋さんで捜すわ。あと、飲むとすっとするお茶があるんで、おばさんに渡しとくね。>>
 <サンキュ。>

 ご近所だけど社会人のわたしたちは、専らメールで花粉症に効く情報を交換し始めた。

 <保湿性のあるティッシュなんてもんがあるのか……。>
 <<鼻をかんでも痛くならないのよ。でも、あれ高いんだよね。駅向こうのK薬局なら、若干安く買えるよ。>>
 <K薬局? あそこ何時までだ? 今日は遅くなるから母親に頼むかなぁ。>
 <<だったら、今日はわたしも自分の分を買いに行くから、ついでに買っておばさんに渡しとくね。>>
 <すまん。助かる>

 そして、随分と久しぶりに、わたしはあいつの家に行った。
 もちろん、あいつはいないんだけれど、おばさんにお茶なんか勧められて、飲んで帰ったり。
 それでもって、おばさんから「これはね、並ばないと買えない大福なのよ」を貰った。

 

「どうしてうちの娘は、南野さんのお宅に寄ったのかしら?」
 大福を食べた母が、口の周りについた白い粉を手で拭う。
「まぁ、成り行きというか、花粉というか」
 隠す理由もないので、わたしは南野家の次男の秀春とのやりとりを、暗い庭で咲く沈丁花を見ながら話した。
 そういえば、マスクのせいで沈丁花の香りを嗅いでいなかった、なんて思いつつ。
 わたしの説明に母は頷きながら熱い茶をすすると、「まぁ、これもひとつの」と、コホンと咳をした。

 さてさて。
 相も変わらず、メールでの情報交換は続く。
 すると、いつの間にか、花粉情報以外のやりとりも増えてきたのだ。

 たとえば。
 <今日昼、そっちの会社のそばに行くから、 この間の鼻紙代とお茶代を払う。>
 なんてメールが来て。
 だから、なんというか。
 うちの会社の最寄り駅で待ち合わせをして、そのままお昼を一緒に食べたり。

 たとえば。
 そのお昼を食べたときにあいつが
「仕事先で貰ったけど見たい映画でもある?」
 なんて、シネコンのチケットを見せてきたから、そこで上映されている映画を一緒に観に行ったり。

 たとえば。
 突如として母が、以前一時期凝っていた趣味のケーキ作りを復活させ
「悪いけれど南野さんの家に持って行ってちょうだい」
  なんて言ってくるもんだから、仕方なくそれを秀春の家に持って行ったり。
 すると、秀春がいるいないに関わらず、おばさんに家に誘われ、一緒にお茶をして帰ったり。

 たとえば。
 たとえば。
 ……つまり。

 花粉症のせいで、あいつの存在が急にわたしの生活に入り込んできたってわけ。

 
 まぁ、つまり。
 わたしも暇なわけで、彼もいないし。
 彼はいないが、秀春がいる。

 そんな日々。

 
 会社帰り、高校時代の友達、男女数名で集まって飲んだ。
 中には、ちゃっかり付き合っている人たちもいて。
 しかも、目の前でいちゃつくもんだから、キャラ変わってるぞと、わたしは苦笑いをしてしまった。

 ふと、誰かの視線を感じてそっちに目を向けると、秀春がいた。
 あれれ、と思って手を振ると秀春も振ってきた。
 秀春の隣には、女の子がいた。
 おデートですかぁ、と思いじっくり相手の女の子を観察した。
 小柄で髪の長い、可愛い子だった。

 目の前には、いちゃつくカップル。
 お店の向こうの席には、おデート中の秀春。

 そういえば、秀春はマスクをしていなかった。
 そういえば、わたしだって今日はマスクなしで過ごしていた。
 そういえば、最近秀春との花粉メールも途切れがちで。
 つまりが、いつのまにか花粉のピークは過ぎていたってこと。

 もう秀春との情報交換は終了ってこと。

 


 会社が休みの土曜の朝、家の縁側に座って青空を見上げる。
 そして、マスクのない鼻と口で、あるかないかの沈丁花の香りを体の中に取り入れるように、大きく息を吸った。
 おかげさまで、こんなに空気を吸っても、もう涙目にもならなければ、鼻水もくしゃみもでない。

「おっ。こんなところにカバがいる」
 秀春だ。人の家の庭に勝手に入ってきた上に、わたしの顔を見て笑う。
「乙女にカバとは、なんてことを」
 けれど、鼻から口から息を吸っている姿は、カバに見えるのかもしれない。
 それに、あんだけ可愛い子と比べたら、わたしの顔なんて通常営業でもカバに見えるのでしょうよ。

「カバでもなんでも言うがいいわ。花粉がないおかげで、ようやく春を喜べるだもん」
 わたしはそう言うと、秀春の前でもう一度、同じように息を吸った。
「確かにな。花粉症だと、春が来たのが喜べなかったからなぁ」
 秀春が、わたしから少し離れたところに座り、こっちを見た。
「でもさ。俺、楽しかったよ」
 秀春の声は朗らかだ。
「まさか、花粉症になったことで久仁子とメールのやりとりをするようになるとは、思わなかったし」
「うん。それはそうよね」

 あの日、あの信号で、お互いマスクをして立っていなかったら、こんなことにはならなかった。 
 そう思うと不思議だ。

「昨日のあの店のあの中に、おまえの彼とかいたりするわけ」
 秀春が訊いてくる。
「あの中? いないよ、みんな高校時代の友だちだよ」
 高校からは秀春とは学校が別になったもんね、なんて思いながら、わたしは両手を後ろについて、足を交互にぶらんぶらんとさせた。
 そのたびに、足先で脱げそうで脱げない小さなサンダルが、ゆらゆらと揺れた。

「あの子さ。ほら、昨日秀春が一緒にいた子。秀春の彼女なんでしょ」
 ついでのような気楽さを装い、尋ねる。
「可愛い子で、秀春、幸せ者だねぇ」
 それはそうだ。
 うん。
 文句なしに可愛い子だった。
 すると、秀春は
「彼女ではないけれど」
 と、そのまま黙ってしまった。

 ――彼女ではないけれど、好きな子。
 そう解釈する。

「ふぅん。いいねぇ。春だねぇ」
「なんだかなぁ。そうくるかなぁ」

 見ると秀春もわたしと同じように両手を後ろについて、足を交互にぶらぶらとし始めた
 秀春の足には、大きなスニーカーがある。
 ぶらぶらとしても、脱げそうにないスニーカーが。

 秀春が話し出す。
「だいたいさぁ」
 ―――― 右足ぶらん。
「そんなにさぁ」
 ―――― 左足ぶらん。
「話がさぁ」
 ―――― 右足ぶらん。
「上手くさぁ」
 ―――― 左足ぶらん。
「いくわけなんてさぁ」
 ―――― 右足ぶらん。
「ないとさぁ」
 ―――― 左足ぶらん。
「思ったけどさぁ」
 ―――― 右足ぶらん。

 秀春の足ぶらぶらに驚き、わたしは足をぶらぶらするのを止めた。

「どうしたの、秀春。何かうまくいかないことでもあるの?」
「上手くいったためしなんて、ありゃしないって」
 心なしか、秀春の声が情けない。

 あらま。
 それは。
「かわいそうに」

 秀春、いいやつなのに。
 優しいし、奢ってくれるし(あ、違うか)。
 でも、あの子と上手くいかないのかしらねぇ。

 あらら。
 人の不幸なのに。
 あらら。
 ちょっとまずいんじゃない。

 すみません。
 ちょっと、わたし、嬉しいような。
 ううん。
 かなり嬉しいような。
 わたしって。
 アクマだわ。

「なんか嬉しそうじゃない」
「え・え・えぇ?」
「いえいえ。そんなことは決して」
 まずいと思って、後ろについていた手でほっぺを両方から挟み、真面目な表情モードに戻す。
 秀春がちらりとわたしを見ると、大きな溜息を吐いた。
「なんだよなぁ。かわいいよなぁ。ずるいよなぁ」
 秀春はそう言うと足を延ばし、わたしの左足のサンダルをコツンと蹴り飛ばした。
「あ、酷い。サンダル、飛んでったじゃないのさ。ちょっと、取って来てよぉ」
 わたしのサンダルは、沈丁花の低い木の下へと、びゅんと飛んでいった。
「やだ」
 そう言うと秀春はぶぅたれた顔のままで、わたしのもう一つのサンダルもぽんと蹴り飛ばした。

「ちょっと、秀春。そーいうのを、八つ当たりって言うの。関係ないわたしに、こんな仕打ちを」
「関係なくない」
「どうして、わたしが――」
 と言いながら、瞬間。
 さっきの秀春の言葉が巻き戻されて再生される。

 ――なんだよなぁ。かわいいよなぁ。ずるいよなぁ。

「あのさ、秀春。『ずるい』って、誰のこと」
「久仁子」
「……この、正義の塊のようなわたしが、いつずるいことをっ」
「おまえは、もう、ずっとずるい」
 ぐっと、堪えつつ、わたしは秀春を見た。
「で、『かわいい』のは誰よ」
「久仁子」
「……このわたしが、いつかわいいことをっ。って、……あれ?」
 あらら、あれれ。え?
「わたし、かわいいの?」
「うん」
 秀春が即答してくる。
 衝撃的。
 かなり、衝撃的。
「わ、わたしが?」
 自分の顔を指で差すと、秀春がガクリと肩を落とした。

「気がつかないよなぁ、久仁子はさぁ。親にもバレバレだったっていうのにさ」
 バレバレって。
 ええと。
 あぁ、秀春がわたしをかわいいって思っていてくれたってことだよね。
 ええと、つまり。
 ええと?
「まぁ俺も何のリアクションも久仁子にしてないし、言ってもいないし。そもそも、こんなに近所だったらさ、 そんな気があってもそうそう行動に移せないというか。だから、まぁ久仁子のことは好きだけれど、でも、しょうがないよなぁって思っていたわけ」

 『かわいい』どころの騒ぎじゃない衝撃的告白その2を、秀春は何の心の準備もないわたしにさらりと言ってきた。

 ほんと。
 何よぉ。
 好きって、さぁ。 

「でも、花粉症で久仁子と付き合いが出来て。そうなると、あぁ、これもひとつの縁なのかなぁなんて、チャンスなのかなぁなんて思いだしてさ。 だから花粉の季節は終ったけれど、でもこれからもこうして付き合っていけたら、 そうしたらもしかしたら久仁子だって俺のことに何かしらこう気持ちがくるかなぁなんて思ってさ。 でも、それも甘かったなぁって。俺が女の子といても、その子のこと可愛いなんて久仁子は言い出すし」

 そう言うと秀春はまたため息をついた。
 そして、それにつられるようにわたしも溜め息をついた。

「この間一緒にいた子はさぁ、花粉症になる前に友だちから紹介された子でさ。 まぁ、一、二回ご飯を食べたりしているんだけれど。 確かに可愛いいし、いい子だけれど。昨日で会うのはおしまいってことになったんだ」

 ようするに、あの可愛い子は秀春の好きな子じゃないってこと?
 ふぅん。って、あれれ。ちょっと、ワタシ、いい気分かも。

「俺さ、つまりやっぱりどの子よりも久仁子が可愛いって思うんだよね。 久仁子が笑うと腰砕けになるし。もう、ずっとそうだから、たぶん、一生そうなんだと諦めた。 腹をくくったというかさ」

 秀春のやけになったようなその言葉に、わたしは赤くなってしまった。
 あの子よりもわたしが可愛いなんて。
 秀春って、なんというか。
 ねぇ。

 それにしても、わたしのこれまでの人生で、男の人にこんな風に「可愛い」と何度も言われたことがあっただろうか。
 いや、ない。

 ないぞ。

 だって、どうみてもわたしは可愛いほうじゃないと思うし。
 なのに、秀春はわたしを可愛いと言う。

 これって、つまり。 
 秀春って、わたしのことをとても好きだと思ってくれているんだってことだよね。

 それって、嬉しい、って思った。
 嬉しいって。

「わたしはね、さっき秀春があの子と上手くいかなくて悩んでいると思ったんだ」
「わかっているよ」

 ううん。
 秀春は、わかっていない。

「でね。それをね。ちょっぴり嬉しいって思ったの」

 そう言って、舌を出す。

「わたしはね、秀春とあの可愛い子が上手くいっていなくて、ちょっぴり嬉しいって思ったのよ」

 わたしがそう言うと、秀春の表情が一瞬固まった。
 そして、0・3秒くらいどんな表情をしたらいいか秀春の顔は悩んだ後、ちょっぴり怒ったような表情を選択したのだった。
 そんな表情を選ぶほどに、秀春は照れているんだと思った。

「じゃ、俺も言うけどさ。さっきのあの顔は、あれはどう見ても『ちょっぴり嬉しい』って感じじゃなかったよな」
 そう言うと、秀春はすっと立ってわたしのサンダルを取りに行った。

 わたしに背を向けて歩く秀春の背中を見て、くすりと笑う。

 ――秀春ってば。
 ――背中全部でわたしを意識している。

 そんな秀春の背中を、わたしはくすぐったい思いをしながら見て考えていた。

 ドラマにたとえるのなら、ここが物語最大のクライマックスだ。
 わたしが秀春にどう答えるかで、わたしの人生が決まる。

 秀春がサンダルを手にして、くるりと振り向いた。
 照れながらもわたしをまっすぐに見る秀春に、どうしようもないほどにときめいてしまう。

 さて。
 どうしよう。

 サンダルを手にわたしに向かい歩いて来る秀春に
「そうなの。実はすっごく嬉しいって思ったの!」って


 秀春が腰砕けになるっていう笑顔で、言ってみようか。
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