第5話

文字数 2,799文字


有無相生
おまけ①「天使と悪魔」



 おまけ①【天使と悪魔】

























 それは、またヴィルズが天使に成り立て立った頃のことだ。

 真っ白で穢れの知らない、無垢なその美しい翼は、とても軽やかだった。

 大きく広げれば自らの身長を遥かに超える翼は、何百何千もの羽根によって形作られている。

 天使の翼は軽く、悪魔の翼は重い。

 それは、吸いこんできた穢れの分だけ重くなる。

 それは、心の清らかな証でもある。

 天使は、人間の世界、つまりは下界へ下りて行き、警告したり誘導するという仕事もある。

 「ヴィルズ、今日は何処へ?」

 「なに、ちょっとその辺を散歩に行くだけさ」

 ヴィルズは、天使の中でも特にキレ者と言われており、他の天使たちから頼られる存在でもあった。

 仲の悪い悪魔とは、度々対立することがあったが、その時もヴィルズを筆頭として、悪魔を大人しくしていた。

 そんなヴィルズは、ある日散歩にと下界へ下りて行った。

 翼を広げて自由に飛び回りながら、適当な人間を探している。

 「最近は翼に埃がつくな。まったく、なんでこんなに汚れてるんだろう。早くこの埃を取り除かないと、人間たちはみな黒い闇に包まれてしまう」

 以前よりも汚れている空気に、ヴィルズは咳をしながらも飛んでいた。

 そこに、丁度良さそうな人間がやってきた。

 学生だろうか、それとも社会人なのかわからないが、私服姿の青年が歩いていた。

 この青年に、助言でもしようと、ヴィルズは青年に近づいて行く。

 どうせ自分たちの姿は見えないのだと、油断したのがいけなかった。

 「え」

 ヴィルズが近づいた途端、青年はバッと勢いよく振り返ってきて、ヴィルズの腕を引っ張った。

 そしてそのまま力付くでヴィルズを人気の無い場所へと連れて行くと、その美しい白い翼に手を伸ばした。

 何が起こったのか、最初は分からなかった。

 ただ、痛みもなく、目の前に飛び散るものが雪のように感じていた。

 しだいに痛みを感じて、気付けば目の前を舞っているソレは、紛れもなく自分の身体から生えているソレで。

 「うあああああああああああ!!!!」

 喉から血が出るほどに叫び続けた。

 それはあまりにも激痛で、いや、叫んだのは痛かったからではないように思う。

 無残にも次々に堕ちて行く自分の羽根が、まるで綿埃のように見えた。

 どうしてこんなことになったのか、分からない。

 なぜ自分がこんな目に遭っているのかも分からない。

 ただ分かっているのは、自分の翼が毟られていくことだけ。

 どのくらいの時間叫び、どのくらいの時間呆然と立ちつくしていたのかは、覚えていないし記憶にもないが、今思えば忘れようと必死になっていたのかもしれない。

 その人間は全ての羽根を毟り終えると、至極満足そうにこう言ったのだ。

 「いっぺん、天使を地獄に叩き落としてやりたかったんだ」

 ニヤリとしたその男の顔は、今でも思い出せないでいる。

 ヴィルズは天使であることを忘れ、その男のことを恨んだのだ。

 去って行こうとする男に、ヴィルズはゆっくりと立ち上がり、そして・・・。

 男の心臓を抉りとり、寿命を奪った。

 ヴィルズの心の中には、これまでの綺麗で澄んだ想いとは異なる、真っ黒な感情が芽生えていた。

 気付けば、ヴィルズの背中からは新しい翼が生えていた。

 しかしそれは真っ白で綺麗な翼ではなく、真っ黒で汚れた翼だった。

 それでも良かった。

 その黒い翼は、白い翼だったときよりも大きくなっていて、初めて感じる少しの重みさえ、愛おしいと思ってしまったから。

 その重みは、慣れてしまえば軽いもので、どんどん重くなっても、感じる重さはさほど変わらなかった。

 一方で、ヴィルズが翼を黒くして帰ってきたものだから、天使たちはひどく驚いていた。

 何かの間違いではないかと、ヴィルズをなんとか天使に戻そうともしていたようなのだが、どうにも戻らなかった。

 というよりも、もはやヴィルズ自身が戻る気が無かった。

 それからというもの、ヴィルズは悪魔として生活を送ることになるのだが、ヴィルズが来たことを良いことに、魔王はしたためていた計画を実行することにした。

 それは、天使と悪魔の生活場の境界にある、高い壁と扉についてだ。

 天使側は綺麗で傷ひとつないのに対し、悪魔側は壊れかけたままで、扉だって鍵がかからないような古いものだ。

 魔王はその力のほとんどが”破壊“であるため、修復する力などはなかった。

 天使たちの親分とも言える神とやらは、魔王とは会う気などないらしく、一切壁を越えさせようとはしない。

 そこで、ヴィルズに相談してみると、ヴィルズは天使でいるときには見せなかったような無表情で、こう言った。

 「簡単なことです」

 どうするのかと思えば、腕の良い職人たちを地獄に連れてくる、というものだった。

 生きているからには何かしら罪を持っている、ということで、数人の職人たちを地獄に連れてくることに成功した魔王は、早速壁と扉を修復させた。

 見事になったそれらに、神から魔王に珍しく声がかかった。

 「しばらく職人を貸してほしい。こちらも幾つか修繕したい箇所があるのだ」

 しかし、魔王は口角をあげながら言った。

 「それは出来ない。彼らは地獄にいるのだから」

 神は怒り、それならば裁判を起こそうと言い始めた。

 魔王はヴィルズに相談すれば、ヴィルズはまたしてもこう言った。

 「魔王様、その裁判はもう勝ちが見えています」

 「何だと?」

 何を言っているのだろうと思った魔王だが、その答えはすぐに分かった。

 なぜなら、裁判に出席するはずの弁護士たちも、みな地獄にいたのだから。

 弁護士だけではなく、検事も警察も、裁判官も裁判長も、職人から聖職者、政治家など、ありとあらゆる権力者や地位のある者は、みな地獄に連れてきていたのだ。

 神は裁判を諦めるほかなかった。

 結局、神は魔王に頭を下げ、しばらくの間だけ職人を借りることになった。

 もしもそのまま職人を天国に連れて行くなどということがあれば、すぐにでもテロリストたちに天国を攻撃させる、などと脅しをかけて。

 「それにしても、昔の自分の仲間たちをこうも簡単に裏切るとはなヴィルズ」

 「昔の話です。それに、悪魔の方が気分が良いです」

 「根っこはこっち向きだったってことだな」

 そう言いながら、魔王は楽しげに笑っていた。

 今でも、堕ちた天使としてやってきたヴィルズを快く思っていない悪魔たちもいる。

 だが、ヴィルズはそんなこと気にしていない。

 なぜなら、すでに悪魔となってしまったヴィルズは、ここより下には堕ちることなど、決してないのだから。

 悪魔の翼を毟られても、その黒い羽根は何度でも蘇ってきてしまうのだ、それはまるで、雑草のように。

 根強く生えてくる黒い翼は、あのうわべだけの白い翼よりも、心地良いのかもしれない。

 「さて、今日も人間を騙しに行くか」



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