第1話

文字数 1,998文字

 数学Ⅱの教科書をめくっていくと、違和感を覚えた。あれ?ここの方程式に蛍光ペン引いたっけ。
「ねぇ、これ渡貫の教科書じゃない?」
「え、これ虎沢の教科書か。ごめんラインひいちゃった」
 渡貫と教科書を交換する。すると、今度は渡貫が「それ俺のペンじゃない?」と言った。
「本当だ。おい、ちょっと確認しようぜ、混じっちゃってるよ」
 1つの机に2人分の文房具や教科書が散らばっていて、もう誰のかわからなくなっていた。定規や下敷きなどを一個ずつ確認して振り分ける。その間、左手を握っては開いたりした。なんだかしっくりこない。
「よし、だいたい整理できたかな」
「ねぇ、これ俺のじゃないんだけど」
「え、まだあんのかよ。どれ?」
「左手」
「は?」
 渡貫はじっと俺の左手を見た。それから、同じように自分の左手を握っては開き「いや、さすがにこれは俺のだよ」と言った。
「本当にお前の左手じゃないの?」
「うん、ほら手首のところから肌色が若干違う」
「ほんとだ。なんでくっつけた時に気づかないんだよ」
「だって、返却されたとき教卓にこれしか残ってなかったし」
 誰のかわからない左手をかぽっと外し、机の上に放す。俺から自由になった左手は、細長い指を器用に動かし机の上を縦横無尽に動き回った。きっと持ち主を探しているのだろう。
「あーさっき先生が手を貸せる奴募集してたもんな。その時混じっちゃったんだな」
 黒板に『自習中』と書かれた教室は、もはや休み時間のようだった。耳を外し勉強に集中している人もいれば、鼻や目玉を取り外し何度も洗浄液でゆすぐ人もいた。今年の花粉はひどいらしい。
「てことは、この教室の誰かの左手ということか…」
「なぁ、これ女子の手じゃない?」
「えっ」
 突然注目された左手は、驚いたように人差し指をぴくりと上げて固まった。それをいいことに2人でじろじろと眺める。
「肌白いし爪とか整ってるし…、…おい、しかもすべすべだぞ…!」
「やめとけって、そんな風に触るな」
 指で左手をつつく渡貫の手を払う。左手は渡貫のところから急いで距離を開け、中3本の指で渡貫を威嚇した。
「ほら、この感じ女子確定じゃん。今なら女子と手握り放題、うわいって!」
 左手が渡貫の手にでこぴんをする。どうやら相当ご立腹のようだ。
「てか、こいつに持ち主聞けばいいじゃん。ほら左手いくぞ」
 痛がっている渡貫を無視し、左手を右手に乗せ、人差し指が指す方向に進んだ。

 着いた先は屋上だった。確かに柔らかくすべすべの左手の持ち主が屋上にいると思うと、嫌でも青春イベントを期待してしまう。
 速くなる脈を抑え、屋上のドアを開けた。春一番の風が勢いよく通り過ぎる。その風の向こうに、肩ぐらいある髪をたなびかせるその人は-
 同じ学ランを着ていた。他の生徒を探すが誰もいない。そして、左手の人差し指は、真っ直ぐその男子生徒を指さしていた。
「まじかよ…」
 がっくりと外れそうになる肩を抑え、男子生徒に近づいた。
「狐坂じゃん」
 同じクラスだけど初めて喋る。
「…そっか、この左手は虎沢くんのなんだね」
 屋上の手すりに寄りかかる狐坂の左手に見覚えがあった。本能的に自分の左手とわかる。
「あぁ、なんか混じっちゃったらしいな。ほら」
 右手に乗った狐坂の左手を差し出す。しかし、左手は緩く指を折り曲げ動こうとしなかった。
「あれ?ちがう?」
「いや、僕の左手であってるよ。昨日ひどいこと言っちゃったから…。ごめんよ左手。ほら、おいで」
 狐坂の左手はおずおずと持ち主のところに戻っていった。それから、狐坂は左手をとって渡してくれた。おかえり、俺の左手。
「俺、正直女子の手だと思ったわ」
「僕もそう思う。母さんが、毎日僕の体を分解してクリームを塗り込むからさ。…母さんは僕をジャニーズにいれたいみたい」
 狐坂が手すりを強く握った。白い手に青白い血管が浮かぶ。
「虎沢くんの手はいいよね。かっこよくて。本当はすぐ僕の手じゃないって気づいたけど、ちょっと眺めてみたくて連れ出しちゃった。ごめんね」
「いや、別にいいけど…」
 狐坂の左手は『女子の手』という言葉に怒ったのだと気づく。
「あーあ。お腹減ったな。僕もハンバーガーとか食べてみたいな」
「食べたことないの?」
「カロリー的にダメらしいよ。やんなっちゃうよね」
 困ったように笑う狐坂の口から、歯の矯正器具がきらりと光った。
「俺の胃を貸すよ」
 口が勝手にそう動いていた。狐坂が目を丸くする。
「え?」
「胃の辺りの胴体をこうぼこっと取ってさ、交換しようよ。そしたらいっぱい食べても平気だろ?」
 正直やったことないけど、でも手の取り替えができたのだから不可能ではないはずだ。
「いいの?…でも、なんかそれって」
 今にも消えてしまいそうな狐坂を、繋ぎ止められるなら何でもいい。
「虎の胃を借る狐っていうやつ?」
 あまりにもくだらない事を言う狐坂に、つい「うるせぇ馬鹿」と言った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み