第七章

文字数 7,709文字

第七章

翌日。富士山の寄生火口の一つである東臼塚に、和美とマーク、そして千恵子がやってきた。本当は男性の利用者が同行するのが一番良いのだが、生憎欠番することができないので、千恵子が選ばれたのであった。

はじめのうちは、刺青師のおじいさんといっしょに行くなんて、ちょっと怖いなと思ってしまった千恵子であったが、弟子のマークさんがとても優しい人なので、その心配はなさそうだな、と考え直した。何よりも、さほど体力があるわけではなさそうで、山道を歩きながら、結構休むことはあった。

それにしても、山登りというのは結構大変な作業だった。千恵子は、和美から山登りをするときは、足の裏全部をつかって登ること、急がないでゆっくり登ることなどがこつである、と教えられた。その通りに歩いてみると、足から土の感触が伝わってきて意外に気持ちいいものであった。実はこの、足の裏全部という感覚は、今の時代ならなかなかつかめない者である。特に女性はそうなりやすい。というのは、ほとんどがハイヒールばかりはいて過ごしているので、かかとを付けて歩くことがないからである。マークが、ハイヒールそのものが歩くためのものではなく、単に部屋の中でしか使わないよ、なんて言っていた。それをおしゃれ用とか通学に使うのは、大幅に間違っている、普通に歩くなら、使わないほうがいいというが、山登りをしてみるとなるほどなと思う。

和美は、山登りだけではなく、高山植物などにも詳しかった。勿論図鑑で見れば学問的な名前はあるんだろうが、例えばある戦国武将が好んだためにこの名前が付けられたとか、薬草として戦前は用いられていたとか。そういう逸話を聞かされる方がずっと面白い。いまは便利な薬品もたくさんあるけど、こういうものを使ったほうが、なんだか効果ありだぞ、なんて話を聞かされると、水穂さんのような人は、そうしたほうがいいのかなあ、なんて想像もしてしまう。

そんな事を話すと、マークがヨーロッパでは、意外にそういう治療も流行っていると言った。すでにヨーロッパでは薬品の有害さが結構報じられていて、対策として自然物を使ってみようという手段を使っている。思わず「退化した」のかと思ったが、退化ではなく進化しすぎて、頑張って後戻りしようとしているのだと、和美は笑っていた。もし、後戻りできなくなったら、国家もおしまいだよ、そのためには誰かが後戻りさせてやらなくちゃ、と。

もうしばらく歩いていくと、

「ここですね。到着ですね。」

マークが、和美に確認をするように言った。

「東臼塚と書いてあるから、そういう事だな。お前もな、早く漢字の読み書きくらいできるようになれよ。」

そんなこと言わなくていいのにと思ったが、和美は平気だった。この発言、ある意味外国人に対して馬鹿にしているというか、人権侵害的なところもあると思ったが、

「日本の伝統を勉強するんだったら、一から十までしっかり勉強してもらわなければならんぞ。」

と、でかい声でそういうのである。

「学校でやらされる触りの勉強では全く役にたたん。一度芸事を勉強したいと思ったら、単に絵の技法を学ぶだけではなく、それに関する衣食住、そして絵が成立した歴史的な事件などまで徹底的にやれ。それを知識ではなく絵として描くんだ。それをな、お客さんの体に刻み付ける。日本の伝統の絵を体に入れるという事はそういう事だ。お客さんにもそれを知ってもらうように描かなければならんのだ。そういうことをしっかり頭に入れるために、漢字の一つくらいかけないでどうする!」

こうなると、刺青も単に暴力団が自身を誇示するためにやるもの、というわけではなさそうである。それはそうだろう。でなければ、江戸時代から続いてきたはずはない。

「頑張れよ。しっかりやれよ。もうちょっと、なよっとしたところをなくして、たくましい男になれ。」

言い方も乱暴で、とても現代の教育家には見られない態度だが、その中に自分が弟子を利用して偉くなろうとか、そういう思惑がないことに、千恵子は気が付いた。思えば、大学の先生なんかのほとんどは、自身の書く論文の材料とか、出世するための道具としか、学生を見ていなかった。本当に徹底的な事なかれ主義で、たまに変な質問をする学生が出ると、馬鹿を言うなと言って、発言させなかったことだって多い。まあ多分、素晴らしい授業をやっているという事を見せるために、そういう風になってしまうのだろうが、教育を受ける側にとっては、おい、そこでやめるなよ、と言いたくなる場面は結構ある。

「さて、弁当にするか。」

三人は、レジャーシートを広げて弁当にした。といっても、本格的な弁当ではなく、いわゆるお結びのみであるが、単なる塩むずびだけではなく、昆布とか、鮭とかいろんなものがある。

「杉ちゃんが、持って行けというので、これも持ってきました。もしよろしければどうぞ。」

マークは、水筒から味噌汁をだして、紙コップに入れ、あとの二人に取り分けた。

「お、気が利くな。」

二人がみそ汁を飲むと風が吹いた。まだ、秋の初めだけど、高山なので、とても冷たく感じる。

他にも登山客が大勢いたが、子供連れのファミリーか、中高年のおじさんたちばかりで、マークや千恵子くらいの年齢の人は全くいない。多分、山に登るという事を、この年齢の人は軽視してしまうのだろうが、千恵子は、自分たちの年齢でも登ってみてもいいのではないかなという気がした。山に登るという事は、自分の足だけが頼りなので、これが結構刺激になって、一つの教育手段にでもなりそうである。そして、冷たい風に備えて何か持っておくという行為は、何だか災害への備えとも言えそうである。

「寒いんですね。予想していたんですけど、やっぱり持ってきてよかったですよ。」

「まあ、何でも備えておくのは大切だよな。最近は予想外のことまで平気で発生しているから。」

マークと和美はそんなことを言っていた。

食べ終わったあと、

「よし、帰ろうか。」

立ち上がって三人は、山下りを始めた。下りは楽だとおもったら結構大変で、まさしく「膝が笑う」という膝ががくがくする状態となり、結構一苦労であった。途中何人かの新たな登山客や、別の山へ向かう登山客と遭遇したが、山では必ず誰かが挨拶して、どこから来たのかとか、一言二言かわすのがマナーになっている。なんか山以外の場所でこういう会話が交わせたら、もうちょっと生活が楽になれるのではないかなと千恵子は思ってしまった。

三人は、登山道の入り口まで戻ってきた。ちょうどその時、中学生から高校生と思われる、ジャージ姿の少年たちが、三人ほどやってきた。二人は、普通の少年という感じだったが、後の一人はちょっと顔つきが違っていた。多分、遠足か何かで山登りに来たのだろう。

ところが、少年の一人が、別の少年にカバンを渡した。そして、もう一人の少年も彼にカバンを渡す。手ぶらになった二人は、身軽になってよかったなとか言いながら、さあ行こうと言って登山道を歩き出す。一人残った少年は、三人分のカバンを背負わされて、無理やり登山道を歩かなければならないのだった。

「こら!」

でかい声で、和美が怒鳴った。

「荷物くらい持て!荷物くらい!」

「なんだよ爺さん。」

主犯格の少年が、和美に怒鳴り返した。マークも千恵子も怖くて関与することはできなかった。

「すぐに自分のカバンをとって、登山道へ行け!人には押し付けるな!」

二人の少年たちは、叱られているのか何をされているのか全く分からないらしく、

「わかってんのかよ。爺さん。」

二人は和美の周りを取り囲むが、和美は怖がることもなく、びくともしなかった。

「おい、やっちゃおうぜ。」

もう一人の少年がそういうが、やっぱり和美は平気だった。

「やれるもんならやってみな。ただし、本当にやれるのならやってみろ!」

腕組みをして堂々としている和美に、少年一人が殴り掛かった。しかし、同時に和美が上着として着ていたジャージを脱ぐと、腕には、般若とか龍とか虎と言った、恐ろしい顔をした動物たちが現れた。この恐ろし気な絵を見て、臆病な少年たちは、わーっと叫んで逃げてしまった。

あとには、被害者の少年だけが残った。加害者の少年たちは、逃げていくのにカバンを忘れて行ったので、まだ、彼が持っていた。

「構わん。そこに置いておけ。また取りに来るだろう。」

「あ、はい。」

少年は二つのカバンを登山道の入り口に置いた。

「けがは?何もなかったか?」

先ほどの少年たちとは全く違う、優しそうな言い方だった。

「はい。大丈夫です。何もありません。本当に、ありがとうございました。」

恐々、頭を下げる少年に、和美は急いで上着を着用した。

「学校行事でこっちに来たのかい?」

「え、ええ。まあ。正確に言ったら、休みの間中に実行しなければならない課題だったんです。総合的な学習の時間というやつですけど。」

「そうか、じゃあ、あの不良たちは、同級生だったかい?」

「同級生じゃなくて、学年は同じなんですが。たまたま、同じテーマで応募したら、あの人たちと一緒にやることになってしまっただけなんです。」

「なるほど。それなら、辞めてもらったほうがいいよね。学校のやることはどうも、おかしいというか、変な方へ行ってしまうよね。」

千恵子にしてみれば、なんとも変な主張であるが、この少年の立場を考えると、やむを得ない話かなと思った。その総合的な学習の時間の時に、ああして不良にいじめられてしまっては、その時間帯は学習でもなんでもなく、ただの地獄の時間としか映らないだろうから。

「今日は土曜だが、これから学校へ戻ったりとか、そういう事はするのかい?」

「いえ、しません。後で話し合うために集まったりとかしますけど、今日はとりあえず帰ることになってます。」

「それじゃあ、もう一回あの不良たちに会うのもつらいよね。まあ、学校の先生に相談したって、無駄だろうしね。爺さんと、お茶でも飲んでいくか。」

そんな事をいう和美。きっと、大人たちから見たら、何をやっているんだと批判されることが多いだろうが、この少年にとっては、つらい時間から逃がしてくれた救いの手かもしれなかった。マークが急いで近隣にあるカフェやレストランをスマートフォンで検索すると、すぐ歩いて行ける範囲に一軒見つかった。この報告を聞くと、和美は何の迷いもなしに、少年を連れてそこへ連れて行った。この間にも和美は常に少年の肩に手を置き、何か語り掛けている様子だった。ここがもしかしたら、日本の教育現場ではめったに見られない態度かもしれない。

カフェに入ると、少年が落ち着いてもらうためだろうか、和美は一番奥のやや薄暗い席へ座らせてもらえないかと頼んだ。幸い、カフェは空いていて、予約も入っていなかったため、全員、そこへ座ることができた。席に座っても、和美は少年の肩から手を放さなかった。こうなると、刺青師というよりも、優しいおじいちゃんと孫、あるいはひ孫というようにしか見えなかった。

「ほら、何でも好きなもの食べな。もしかして、飯もほとんど食べてないのではないのかな?」

「だって、申し訳ないから、、、。」

まだ小さくなっている少年であるが、

「いや、出してやる。そのくらいの歳で大食い早食いは当たり前だから、気にしないで食べろ。」

と、和美がにこやかに言うので、

「じゃあこれ、、、。」

少年はステーキセットを指さした。ほら、お前たちも注文しろと言われて、千恵子とマークはそれぞれ、ショートケーキとジュースを選んだ。和美はウエイトレスを呼んで、それぞれの注文をさせた。

「もっと楽にしていいんだぞ。全く悪いことはしてないんだからな。あの不良たちとは、ずいぶん前からやられていたのかな?」

和美が優しく聞くと、少年はその通りと頷いた。

「学校の先生も、何も言ってくれなかった?」

千恵子は、教員志望者として、いじめがあったなら、学校の先生は必ず止めに入るだろうなと思って、そう聞いてみる。

「ありません。」

小さいけど、明らかに真実だと思える口調で少年は言った。

「じゃあ、勇気を出してそう言ってごらん。先生はきっと何とかしてくれると思うから。大人は怖い人ばかりではないわよ。そうでしょ?」

千恵子は一生懸命そう語り掛ける。しかし隣の席に座っていたマークは、我慢できなくなったようで、こう反論した。

「千恵子さん、それじゃあ、水穂さんのような人はどうなるんでしょうか。いくら学校の先生に何とかしようと求めても、出身階級が違うので、何とかするどころか、門前払いが当たり前だったそうじゃないですか。日本は単一民族国家だと習ってきましたので、いじめも少ないのかなと勝手に思ってましたけど、大間違いでしたね。フランスには似たような事例がないので、そこらへんはよく理解できませんでしたけど、こちらのボヘミアンに近いものが日本にもあったという事はわかりました。まあ、ボヘミアンのように言葉が違うとか、そういう事はないけれど、扱いは非常に似ているなと思いましたよ。ですから、先生はなんでも何とかしてくれる存在ではないんですね。」

ちなみに、ボヘミアンとは、フランス語でジプシーの事。即ちロマの事である。ジプシーが差別用語とされているので、日本ではロマ、またはロマ族などと呼ばれることが多い。

「ブッチャーさんが一生懸命説明してくれたので、日本にもそういう差別的なことをされていた人がいたのだとよくわかりました。そして、学校教育もそれを解消するにはほとんど役に立たないことも分かりました。僕の妹も、フランスのリセでさんざんいじめられて、精神まで病んでしまったので、励ましになるかなと思って、一枚買っていきましたけどね。日本のボヘミアンが着用していたとされる着物。」

水穂がもし、ここにいたらどんな反応をするだろう。きっと、そのようなことは絶対にやめろと反論するだろうが、マークは何も迷いはない様子だった。世界のどこに行っても、こういういじめというものは止まることはないのかな。

「ですから、日本ではそういう事を全く伝えないのでは困ります。学校の先生は、ちゃんとやってはいけないこととして、伝えていかなきゃダメなんではないでしょうか。ヨーロッパでは、いじめが発生したら、強制的にクラスを変更するとか、対策をするようにしていますよ。フランスは、いじめの対策が遅いと批判されたことが多かったですけど、日本はもっとどころか、何十倍も遅れていて、ひどいというか、かわいそうすぎる気がしました。」

「偉い、マーク。よく言った。」

この熱弁を聞いて、和美が賞賛するように言った。

「そうやって具体的に何かしてもらいたいものだけど、日本の教育現場というのは、具体的には何にもしてないんだよな。もう、そうなったら、捨てるしかないよ。安全なところへ逃げるほうがよほど安定が保てるよ。」

「でも、学校を変わるなんて、できないです。僕の家の近所では、他に行けそうな学校が何もないんです。」

半分べそをかきながら少年が言う。

「何もないって、他にいくつかあるでしょう?その風貌から見ると、高校生だと思うけど、近くに私立学校とか、きっと何かあるでしょうし、もし大変だったら、越境通学で通わせてもらうとか、、、。」

千恵子は、模範的な対策を口にしたが、

「でもみんないうんです。せっかくあんないいところに合格したのに、わざわざそこに行くのをなんでやめるんだって。いくらつらくても、我慢して通い続けて卒業しておけば、社会に出たとき絶対に有利になるって。」

と、少年はつづけた。そうなると、どこの高校なのか大体予想がつくが、そこでこういういじめが出るとは、学校のレベルも下がったなと思わざるを得ない。

「でも、いじめが出るってことは、良い高校とは言えないんじゃないの?たとえ偏差値が低いといっても、先生がすごくいいとか、そういう高校はいっぱいあるわよ。」

「そうですけど、ここの地域で一番偉いとされる高校に行っている以上、ほかの高校に行ったら、それこそ、王座転落だって先生が脅かしてきて、、、。」

「やれやれ。学校は、まだお偉いさんになっているようだね。もう、いい加減にやめてもらいたいね。そんな学校で順位をつけるなんて、わしらから見れば、本当にばかばかしくてたまらないんだけどね。そういうところを出た弟子は、あまりにも知識を詰め込みすぎて、本当に、必要なことを全く知らないことが多くて実に困るんだ。おまけに、注意をすればエリート学校出た人間に文句言うなと言われてしまう始末。それを矯正するのは非常に難しいよ。」

和美は、非常に困るという表情で、大きなため息をついた。

「師匠、それは僕のことですか?」

思わずマークがそう言ってしまうが、

「いや、これは、日本の学校のことで、お前は関係ない!」

と、厳しく怒鳴り返した。そして、改めて少年のほうを向いて、

「まあ、きっといま君はすごく苦しいと思うのだが、日本に住んでいる以上、簡単に逃げることは難しいだろうしね。本当は今すぐ逃げてほしいなというのが、爺さんの気持ちなんだが、それは実現できないだろうから、とにかく、自分の本当にやりたいことを忘れてはいけないよ。時にはそれが、つらい高校生活を送るときの支えにもなるだろう。もう、学校は密閉容器みたいに、上からじゃないと開けられない箱だから、横から手が入って助けてくれることはまずないだろう。もし、あまりにもつらいようだったら、すぐに行動を起こしなさい。校則を守らないとか、そういうことをしてくれたほうが、かえって先生が見つけやすくなるものだよ。おとなしい生徒というのが一番見つけにくいから。それでもだめだったら、お父さんとかお母さんに怒りなさい。きっと、良い学校に行っているのだったら、家族はそろっていることだろうからね。きっと君の訴えも聞いてくれると思うよ。」

少年の肩をしっかりつかみながら、和美はそういった。千恵子は、学校の先生に一番してほしいことで一番できないことを全部言われているようでなんだか恥ずかしかった。これでは、教員志望なんて、恥ずかしい限りだ。こんなこともできないで何になる。こういう生徒は少なからず出るのだろうに、教員になって、このセリフすら言えなかったら、本当に失格になってしまう。

そうか、あたしは、もっとまじめに勉強しなきゃダメか。

「ほら、ステーキが来たよ。もう泣くのはやめなさい。」

ウエイトレスが、ステーキセットを持ってきた。マークがそっと、少年に手拭いを渡してあげた。
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