第1話

文字数 943文字

眠気が静かに忍び寄って来る夜更けに、まだ行ったことのない憧れの場所への旅を想像するのは楽しいものである。しかしそれよりも、一度でも訪れたことのある土地でいろいろと見聞したり、美味しいものを食べたりするところを想像することの方が、同じ夢でも具体的で、より楽しい。
ヨーロッパの街の、教会が見える広場に面したカフェで、暑かった昼間のことを思いながら、ようやく涼しさを届けてくれる夏の夜風に吹かれて、ビールを飲んでいる自分の姿。おいしかったあな。でもそれは、半分は経験だけれども、半分は想像の世界。だいたい思い出というものは、しっかりと記憶に刻まれているようで、案外いい加減なものだから、どこかの街を観光した時の経験だと思っていても、実は違う国での出来事だったということもある。それでもいい。石畳の通りや広場、塔のある教会、風が心地よいカフェのテラス、コクのある色の濃いビール、おつまみのサラミソーセージやゴーダチーズにオリーブの実。そういった部品たちのそれぞれは真実には違いない。ただ、それぞれ別々の日に起こった出来事が、心の中で適度に配合されて、思い出となっているのかもしれない。
一方でしっかりと記録された旅行というものもある。チケットの控え、地図や博物館のパンフレット、そして今や撮影時刻も撮影場所の緯度・経度までも自動的に記録された写真の数々。それらを分析的に眺めれば、旅行は厳密な形で再現可能かもしれない。でもそれは、旅の夢にはふさわしくない。ただなんとなく、あの時は楽しかったなあと思い出すこと、あの料理はおいしかったからまた食べたいなあと考えること。その少しあいまいなところが、いとおしい気がする。旅の途中にもうまくいかないことや、つらいことは発生する。それらまでも事細かに覚えていては、旅の何割かは思い出したくないことで占められてしまう。少しぼんやりとしている方が、旅の思い出にはふさわしいのでないだろうか。
明日の朝からまた始まる日常の生活には、あいまいさを許さない厳しい局面が満載である。仕事にしても家事にしても、しっかりとこなさなくてはならないのだから。それだけに、眠りにつく前のこのあいまいな時間は、あいまいな思い出の温かさにくるまれて、ぼんやりと過ごしていたいのである。
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