ひとつの別れの物語
文字数 1,998文字
給料日後の土曜は、普段の3倍は忙しくなることが多かった。午前11時40分、昼食配達のピークの時間だ。
「ローゼパレス分上がりっ、ミオ、確認して配達 頼むっ」
調理場から出て大きな声で指示した。小柄なミオがパソコン画面上の注文情報と台の上に置いた商品を照らし合わせる。
「チェック良し、ローゼとクラブレイズ分、出ますっ」
彼女はウエストポーチに伝票を突っ込むと。店先の三輪スクーターに付いたキャリーボックスに手早く商品を積み、エンジンをかけて走って行った。
カウンター内の狭い事務スペースに置かれたデスクでは、おれの3つ上、36歳の姉が鳴り続ける注文の電話を受けている。茶髪ショートで身長165センチ。中高校時代はバスケに打ち込んでいた姉は男のように筋肉質だが、これでも元泡姫だ。今は大風俗街・吉原の入り口にある商店街の一角で、配達専門フードショップ『ラピスラズリ』のオーナーをやってる。吉原の風呂屋で5年働いた姉は、貯めた金でエステ店を開くと言っていたはずだ。それがなぜか、こんなことになっている。
『あんたが調理師なんかになるから気が変わっちゃったのよ。どうしてくれんの? 責任取ってよね』
大学卒業後に調理師学校に入り直したおれは、港区の一流イタリアンレストランに就職、6年勤めた。普通なら新卒が採用されるような店じゃない。おれの未来は輝いていた……はずだった。だが姉の粘着勧誘に折れてしまった。で今は毎日、風呂屋に届ける料理を作り続けている。
事務スペース隅のドアを開け、広い調理場に戻る。
「どこか出せるとこあるか?」
もうひとりの調理師、ユズキに尋ねる。銀髪ショート、細身で美形の彼女は調理の技術も才能も申し分ない。だが腕全体や首にまで入れたタトゥのせいで、まともな店に勤めることができずにいた。見つけてきたのは姉だ。
「鳳凰 館が上がってます。クインビーのがもう少し。グラタン焼け待ちです、あと6分かな」
弁当を運搬用ケースに詰めながらのユズキの返事。
「じゃそれはおれが行く。サラダセットをやっといてくれ、4つな」
たっぷりの海鮮と有機野菜を使ったシーフードサラダと自家製パン、スープのセットは、ウチの看板商品のひとつだ。おれはパン専用大型オーブンに生地を入れてタイマーをセットした。
■ ■
老舗の高級店、鳳凰館に着くと。入り口の左手にあるカウンターにいた支配人に挨拶。パンを一袋スタッフさんで召し上がってくださいと差し入れ、カウンターの向かい側のドアをノックした。
「お世話になってます、ラピスです。お食事お持ちしました」
中からはーーいご苦労様、と声がする。5秒ほどしてドアが開いた。泡姫たちの待機部屋、20畳の和室に入ると。両手で抱えた配達用ケースを、3つくっつけて並べてある炬燵 テーブルの真ん中に置く。料理の皿を並べながらウエストポーチから伝票を出し、古参の嬢から順にお金を受け取り、釣りを渡していく。最後に封筒を差し出してきたのは中堅の琴乃 さんだった。
「お釣りはけっこうです。いつもご苦労様」
「いいんですか? すみません、ありがとうございます。あれ?」
片膝を着いた体勢から見上げた琴乃さんは、ノースリーブシャツにスラックス。私服姿だ。他の嬢たちは皆、接客用衣装の上にローブやカーディガンを羽織っている。
「琴乃さん、今日はもう上がりですか?」
尋ねると彼女は目を伏せて首を振った。
「わたし、このお仕事辞めることにしたの。今日は私物を取りに来たんだけど。最後にどうしてもラピスさんのランチが食べたくなっちゃってさ」
切れ長の目をいっそう細めて、琴乃さんは寂しげに微笑んだ。
「そうなんですか……お疲れ様でした。寂しくなります。あ、じゃ今日これいいっすよ」
彼女に代金の入った封筒を返そうとして、その厚みに気づく。口を少し開いて中を見ると、折り畳まれた紙の束が見えた。
「ラピスの皆さんにお手紙を書いたんです。戻ってから読んでください」
そして琴乃さんは、お世話になりましたと言って深々と頭を下げた。
■ ■
店を閉めてから鶯谷駅の方へ15分ほど歩いて、自宅マンションに帰り着く頃にはいつも午前1時を回っている。
自室で琴乃さんからの手紙を読み返す。
人見知りの自分は、泡姫としての接客が本当に辛かった。夢実現の為にお金を貯めるという目標があったが、何度も挫 けそうになった。ラピスが届ける温かい食事を摂る時間は自分に戻れる心安らぐ瞬間であり、癒され救われてきたと、そう綴 られている。
おれがこの仕事を手伝うと決めたのは、琴乃さんと同じような姉の苦悩を聞いたからだった。夢実現に向かって頑張る泡姫たちの心の支えになるような料理を届ける、それが姉の、そして今のおれの夢だ。
あなたの選んだ道は間違ってない。琴乃さんの手紙は、優しくおれを励ましてくれているようだった。
「ローゼパレス分上がりっ、ミオ、確認して
調理場から出て大きな声で指示した。小柄なミオがパソコン画面上の注文情報と台の上に置いた商品を照らし合わせる。
「チェック良し、ローゼとクラブレイズ分、出ますっ」
彼女はウエストポーチに伝票を突っ込むと。店先の三輪スクーターに付いたキャリーボックスに手早く商品を積み、エンジンをかけて走って行った。
カウンター内の狭い事務スペースに置かれたデスクでは、おれの3つ上、36歳の姉が鳴り続ける注文の電話を受けている。茶髪ショートで身長165センチ。中高校時代はバスケに打ち込んでいた姉は男のように筋肉質だが、これでも元泡姫だ。今は大風俗街・吉原の入り口にある商店街の一角で、配達専門フードショップ『ラピスラズリ』のオーナーをやってる。吉原の風呂屋で5年働いた姉は、貯めた金でエステ店を開くと言っていたはずだ。それがなぜか、こんなことになっている。
『あんたが調理師なんかになるから気が変わっちゃったのよ。どうしてくれんの? 責任取ってよね』
大学卒業後に調理師学校に入り直したおれは、港区の一流イタリアンレストランに就職、6年勤めた。普通なら新卒が採用されるような店じゃない。おれの未来は輝いていた……はずだった。だが姉の粘着勧誘に折れてしまった。で今は毎日、風呂屋に届ける料理を作り続けている。
事務スペース隅のドアを開け、広い調理場に戻る。
「どこか出せるとこあるか?」
もうひとりの調理師、ユズキに尋ねる。銀髪ショート、細身で美形の彼女は調理の技術も才能も申し分ない。だが腕全体や首にまで入れたタトゥのせいで、まともな店に勤めることができずにいた。見つけてきたのは姉だ。
「
弁当を運搬用ケースに詰めながらのユズキの返事。
「じゃそれはおれが行く。サラダセットをやっといてくれ、4つな」
たっぷりの海鮮と有機野菜を使ったシーフードサラダと自家製パン、スープのセットは、ウチの看板商品のひとつだ。おれはパン専用大型オーブンに生地を入れてタイマーをセットした。
■ ■
老舗の高級店、鳳凰館に着くと。入り口の左手にあるカウンターにいた支配人に挨拶。パンを一袋スタッフさんで召し上がってくださいと差し入れ、カウンターの向かい側のドアをノックした。
「お世話になってます、ラピスです。お食事お持ちしました」
中からはーーいご苦労様、と声がする。5秒ほどしてドアが開いた。泡姫たちの待機部屋、20畳の和室に入ると。両手で抱えた配達用ケースを、3つくっつけて並べてある
「お釣りはけっこうです。いつもご苦労様」
「いいんですか? すみません、ありがとうございます。あれ?」
片膝を着いた体勢から見上げた琴乃さんは、ノースリーブシャツにスラックス。私服姿だ。他の嬢たちは皆、接客用衣装の上にローブやカーディガンを羽織っている。
「琴乃さん、今日はもう上がりですか?」
尋ねると彼女は目を伏せて首を振った。
「わたし、このお仕事辞めることにしたの。今日は私物を取りに来たんだけど。最後にどうしてもラピスさんのランチが食べたくなっちゃってさ」
切れ長の目をいっそう細めて、琴乃さんは寂しげに微笑んだ。
「そうなんですか……お疲れ様でした。寂しくなります。あ、じゃ今日これいいっすよ」
彼女に代金の入った封筒を返そうとして、その厚みに気づく。口を少し開いて中を見ると、折り畳まれた紙の束が見えた。
「ラピスの皆さんにお手紙を書いたんです。戻ってから読んでください」
そして琴乃さんは、お世話になりましたと言って深々と頭を下げた。
■ ■
店を閉めてから鶯谷駅の方へ15分ほど歩いて、自宅マンションに帰り着く頃にはいつも午前1時を回っている。
自室で琴乃さんからの手紙を読み返す。
人見知りの自分は、泡姫としての接客が本当に辛かった。夢実現の為にお金を貯めるという目標があったが、何度も
おれがこの仕事を手伝うと決めたのは、琴乃さんと同じような姉の苦悩を聞いたからだった。夢実現に向かって頑張る泡姫たちの心の支えになるような料理を届ける、それが姉の、そして今のおれの夢だ。
あなたの選んだ道は間違ってない。琴乃さんの手紙は、優しくおれを励ましてくれているようだった。