第1話

文字数 1,562文字

暑い夏の日、僕は交際している女性と駅前のカフェで待ち合わせをしていた。
この夏は、あまりお互いの休みが合わず、すれ違いの感覚を抱いていたから、久しぶりに会えた時はとても嬉しかった。
しかし、僕より少し遅れて到着し、席に着いた彼女はいつも付けていたお揃いの指輪を付けていない。
僕は見て見ぬふりをしたが、僕たちの関係を決定づける何かを予感してしまった。
彼女が注文したミルクティーが運ばれてきて、それを1口飲んだ後の彼女の表情は、いつものような家具を変えた感想や、上司がどうのなんて他愛もない話をするようなものではなく、僕の脳裏ではこの後起きる出来事のイメージが、出来てしまっていた。
「私、あなたと別れたい」
よくある価値観のズレというやつだ。
僕は交際している時は日々価値観をすり合わせて行くものだと思っていて、それは彼女も同じように思っていたのだけれど、僕は彼女を我慢させ続けていたみたいで、それを強いていた自分自身を非難した。強いていたことさえ気づけなかった。

外の暑さは、すっかり冷えきった僕の体を鞭打ち、自分の目眩でないかと錯覚するほどアスファルトの上の陽炎をゆらゆらと揺らしていた。
歩く人々はハンカチを手に持ち、額からしみでる汗を頻繁に拭い、少しでも涼しい空間へ向かうようにデパートや駅ビルの中になだれ込む。
体はいきなり気温が上昇したことにおどろいたように汗と警告音を出しているが、頭は構わずにさっきの出来事を反芻し続け、恐らく体にとって最悪の選択肢である屋外喫煙所に向かわせた。
50mほど先にみえるあの場所は、気温の暑さ、タバコの火、人の密集により温度上昇を加速させ、副流煙の有害さと合わさって、世界で最も人間の身体に悪影響の空間と言っても、過言では無いかもしれない。
それでも僕が足を止めることは無く、到着すると7、8人の姿が見えた。
右奥の角が空いていたため、迷うことなくその場所に体を置いてロングのタバコを1本とライターも取り出す。
くわえている間にもこめかみを汗が流れていくが、気にしない。
タバコに火がついた。
しかし、今の気分を消し飛ばしてくれるはずの最初に吸い込んだ煙は、無配慮に変わるテレビのチャンネルのように更なる思い出を流し込んできた。

彼女と初めてタバコを吸った時のことだった。
「ライター無いの?」
「買うの忘れてた」
「はじめてだからってドジすぎ。はい、くわえて」
「どうするの?」
「1回やって見たかったの」
僕のアパートのベランダで椅子を向かい合わせてた彼女は、自分のタバコだけに火をつけ、僕の膝の上に体を乗せた。
「ちゃんと吸ってね」
僕の首の後ろに腕を回して、体を引き寄せる。お互いのタバコの先がキスをするように重なった。
「うーん。うまくいかないね」
僕の吸い方が悪かったのか、火を移すことはできなかった。
彼女はゆっくりタバコを離すと、首を横にまわし僕にかからないよう煙を吐いた。
「ごめん。はじめてでうまくできない」
「それ、はじめてシた時と同じこと言ってるよ」
ひどいいじり方をする。
あれはアレで僕の中で情けないと思っていたのに。
彼女は自分の椅子に戻ると、自分のライターを拾い、僕のタバコの前に出し着火した。
今度はしっかり火がついて、僕ははじめての煙の感覚にむせると同時に頭がクラクラするのを感じた。
「初めはそんなもんだよ」
そういいながら彼女は身を乗り出し、むせ終えた僕にキスをした。
「無理に慣れなくてもいいから」
唇の感触、彼女のシャンプーと混ざったタバコの匂いを忘れられなかった。

我に返ると、隣でタバコを吸っていたスーツ姿の男が心配したように僕の顔を覗き込んでいた。
僕の顔を滴る水滴は、汗だけでは無かった。
僕は大丈夫と手を軽く挙げ、1度吸ったきりなのにもう大分短くなってしまったタバコを灰皿に押し付けた。
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