第1話

文字数 4,633文字

 東京からですか? こんな遠くまでよくいらっしゃいましたね。ありがとうございます。このあたりは特にこれといった名産もないですし、なんにもないところですけれど、自然だけは豊かなんです。どうぞ、ごゆっくりくつろいでいってくださいませ。ジャケットはこちらにかけておきますので、はい。お荷物はこちらで。はい。
 ええ、はい。私はずっとこの旅館の女将をやっております。何代目か? 創業百年の四代目でございます。はい。ありがとうございます。おかげさまで、戦火にも耐え、こんな時代まで生き残れた、お客様と運に恵まれた旅館にございます。
 子供の頃ですか? はい。この旅館の離れに住んでおりました。女将の母と、板前の父。私の人生は、この旅館とともにあったと言っても過言ではございません。旅館を休むことがありませんでしたので、私自身は旅行など行った覚えがございませんが、お客様方のくつろいだご様子を拝見しておりますと、この仕事をしていてよかったと思うことばかりです。

 ええ? こちらには初めてではないのですか? そうでしたか。お顔もお名前も失念しておりまして、大変失礼いたしました。え、ああ、子供の頃? そうでしたか。三十五年前? 私の母が女将をしていた頃かと思います。ご贔屓にしていただき、感謝いたします。ええ、両親は私に旅館を継がせてから、隠居しております。はい。私ですか? 三十五年前ですと、五歳頃かと思います。あ、お客様も? そうでしたか。では、同年代ですね。
 記憶? さすがに、五歳の頃にお客様にお会いしたかどうか、申し訳ありませんが覚えておりません。ごめんなさい。自分が女将になってからでしたら、お客様のことは忘れないようにしておりますけれど、さすがに五歳の頃ですと……はい、申し訳ありません。
 三十五年前の大豪雨ですか。ああ、はい。おぼろげながら、微かに記憶にございます。でも、ほとんどがニュースであとから知ったり、両親に言われたりしたことで、それを自分の記憶と思い込んでいることが多いかもしれません。何せ、五歳のときのことでしたから。

 ええ、はい。よくご存じですね。確かに、あの豪雨のとき、お泊りになっていらしたお客様の男性がおひとり、氾濫した川でお亡くなりになりました。当時は行方不明ということでしたが、後日水がひいてから下流でご遺体があがったそうです。雨のときは川に近づいてはならない。このあたりの人間でしたら、誰でもそう思いますが、遠くからいらしたお客様は、逆に物珍しくて川を覗きに行ってしまわれたんですかね。当時は自死なさったのでは、なんて話もございましたが、警察は事故と判断したようです。どちらにせよ残念なことでした。それからは、当旅館では、雨の日にお客様が外出なさる際は、行先をお尋ねさせていただいております。もちろん、私の代になってからも変わりません。お客様のプライバシーもございますが、事故があっては大変です。安全第一でやらせていただいております。
 もしかして、取材の関係の方ですか? 違う? いや、とてもお詳しいと思いまして。ええ、当時ニュースになったとはいえ、そこまで大きく報じられてはいませんでしたから。はい。ああ、同じ時期にお泊りだったのですか。いらしていただいたのは、その豪雨の時期だったのですね。そうでしたか。では、ゆっくり自然も堪能していただけなかったのではありませんか。今日より数日は、天候は良好です。ぜひ、散策なさってみてください。

 五歳の記憶ですか? ですから、さきほども申し上げたとおり、申し訳ありませんが覚えておりません。え、かくれんぼ? 誰か知らない子供とかくれんぼで遊んだと。それが私かもしれないということですか? さあ、お泊りになられるお子様と一緒に遊ばせていただいたことは何度かありますので、それがお客様だったかどうか……はい。申し訳ありません。納屋に隠れた……そうですか。はい。そこで何か怖いものを見た気がする……そう言われましても、私には覚えがありませんので。はい。お気を悪くなさらないでくださいますか。記憶力のない人間で申し訳ありません。お客様のご期待には沿えないかと思います。
 ええ、まあ! 川で亡くなったのは、お客様のお父様だったのですか。そうでしたか。お客様の安全をお守りできなかったこと、先代にかわり謝罪させていただきます。申し訳ありませんでした。
 
 まだ何か。え、今から一緒に納屋に? 同じところに行けば記憶が戻るかもしれないということですか。困りましたね。ほかにもお客様がいらっしゃるのですが……そこまでおっしゃるのでしたら、はい。行ってみましょうか。

 お客様は、当時のことをはっきり覚えていらっしゃるのですか? ええ、そうですか。はっきりとは覚えていらっしゃらない。曖昧なのですね。だから私の記憶を確認にいらしたと。そうですか。でも、どうして三十五年も経った今になって。ああ、お母様が他界なさったのですか。ご愁傷様でございます。遺品整理。はい。そこでこの旅館の写真を見た、ということでしたか。それで、何か大事なことを思い出せそうになったと。そういうことでしたか。私が何か役に立てればいいのですが、自信はございません。

 納屋でしたらこちらです。たしかに当時、お泊りにいらしたお子様たちはこの納屋で遊んでいることがございました。いかがですか? お客様は何か思い出せましたか? 私は、残念ながら、記憶にはございません。え? あの道ですか? はい。そうです。ここから見えるあの道は、川のほうへ向かう道になっております。
 納屋を見て、ご満足していただけましたか? これ以上私は何もしてさしあげられないと思います。お力になれなくて申し訳ありません。お部屋へ戻りましょうか。

 当時、この旅館を買収する話があったのですか? それは知りませんでした。お父様は金融関係のお仕事だったのですか。そうですか。でも、私は当時五歳ですよ。そんな話、子供にする両親ではありませんでした。はい。その買収のことで、うちの両親とお客様のお父様が揉めていらした……知りません。はい。存じ上げません。ごめんなさい。

 え? 思い出した? 何をです? 興奮なさらないで、落ち着いてください。
 ええ、雨の中、納屋に隠れていたのは誰かお子様と一緒にではなく、お客様おひとりだったと。ああ、それでは私の記憶になくても仕方ありませんね。ええ、はい。雨の中、川のほうへ向かうお父様と一緒に歩く少女を見た。そうでしたか……。身長がお父様の胸の高さほどの、長い髪のおさげの少女。そんな姿をご覧になったと。
 え……少女がお父様を川に突き落とした気がする? 確かに見たのですか? そんな物騒な。当時の警察は、事故か自死の可能性は考慮しておりましたが、殺人だなんて恐ろしいこと言っておりませんでしたよ。納屋に行ってみて思い出したと? でも納屋から川は見えませんよ。え? 気になって後をつけた? そこで見たのですか? 少女がお父様を突き落としたところを? まあ、恐ろしい。でも、見間違いじゃございませんの? だってそんな、子供の力でできるものでしょうか。

 え? まさか、その少女が私だとおっしゃるのですか? いくらお客様でも、さすがに言っていいことと悪いことがございますよ。根拠がないではありませんか。たしかに私は幼少期に髪が長い時期はありましたが……当時私は五歳ですよ。お客様、少し冷静になってください。え? 面影が残っている? でも、お客様がおっしゃる少女の容姿を聞く限り、その少女は五歳というよりは、もう少し年上のように思えます。ええ、小学生か中学生くらいの少女ではありませんか? 五歳といったらまだ小学校にあがる前です。お客様の記憶にある少女がもし本当にいたとして、お父様の事故に関わりがあるのだとしても、それは私ではございません。年齢が違います。

 せっかく遠くからいらしたのですから、少しお休みになったらいかがですか? 気持ちを落ち着けたほうがよろしいかと思います。とりあえず、お茶でもいかがでしょう。このあたりは水がきれいですので、お茶が美味しいと言われています。ええ、ですからお酒も美味しいのですよ。夕食の際はお酒もお出しいたしますので、ええ、楽しみにしていてください。お茶、お口に合います? ああ、そうですか。それでしたら良かったです。はい。お急須に入っておりますので、お熱いうちにどうぞ。少し気分を変えたほうがよろしいですよ。
 え? お客様? 大丈夫ですか? 眠い? 東京からの長旅でしたから、疲れが出たのかもしれませんね。どうぞごゆっくりお休みください。え? お茶に? まさか。どうして何か入れる必要があるのですか。私は何もしておりません。お客様、ずいぶん眠そうでいらっしゃる。ええ、そのまま眠ってしまわれたら良いのではないですか。ちょっと、やめてください。お客様、暴力はいけません。もう体がゆらゆらしてらっしゃるじゃないですか。無理してはいけませんよ。ええ、危ないです。転んでしまわれたら大変。
 私の年齢? だから、四十七歳になったばかりです。え、ああ本当ですね。それでしたら三十五年前は十二歳ですね。計算ミスをしてしまったのかしら。頭の悪い女将で申し訳ありません。ええ、確かに当時は髪をおさげに編んでおりました。
 あ、それからお客様、お泊りの際に記載いただく宿帳に、偽名はおやめになってくださいね。ええ、お名前が違うのは始めから気づいておりましたよ。お顔がお父様にそっくりでしたから。あら、驚いていらっしゃる。当時のお父様の年齢に近いのではありませんか? そっくりですよ。うりふたつ。ご自分ではわからないものですかね。お顔を拝見した瞬間、吐き気がしたほどでしたよ。そっくりすぎて。
 ええ忘れませんよ。この旅館買収の中止と引き換えに、当時の私に肉体関係を迫った男の顔ですから。あら、また驚いていらっしゃる。ご存じなかったのですか? 川へ向かう私たちのあとをつけたのでしょう? 見たのではないのですか? お父様に襲われそうになる少女の姿を。ええ、そうです。お客様のお父様に襲われそうになったのは、私でございます。忘れるわけがございません。あの恐怖も、おぞましさも、羞恥も、一秒たりとも忘れたことはございません。
 それにしても……残念でしたね。あの男の息子であっても、お客様が思い出さなければ、お茶はお出ししないでおこうと思っていましたのに。ご自分が見たことなんて、忘れてしまえば良かったのに。当時の記憶が戻った際、お父様と同じように口止めの対価をお求めになる予定だったのですよね? え、違う? いえ、血は争えませんから。信用はいたしかねます。

 先ほどひとつ嘘をお伝えしてしまいました。このあたり、数日は天候に恵まれるとお伝えいたしましたが、明日からひどい雨になるかもしれない、との予報なんです。川は大変な流れになって、万が一飲み込まれてしまったら、水が引くまでは発見されないでしょうね。ええ。ご心配なく。安全第一でやらせていただいております。ええ。
 そろそろ眠気が限界なのではありませんか? 大丈夫ですよ。ほら、横になって。そのままごゆっくりお休みください。このあたりは自然が豊かですから。何もないところですけれど。ゆっくりなさってくださいね。

おわり
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