第1話

文字数 1,409文字

 もう忘れていたと思っていた。画面越しに聞こえる声が鼓膜をすんなり溶かした。きっと何年経っても何十年経っても、この声色で私は思い出を彷徨うのだと理解した瞬間、懐かしさと絶望で涙が流れた。忘れない。忘れられるわけがなかった。私の身体はあまりにも容易にこの男の声を容認し、存在を許してしまうのだから。心の底から愛していたという事実に罪名などつけられないが、仮に愛してしまったことが罪だとしても、時効はない。霞んだグレーの上から無理やり淡いピンクを塗りたくった思い出。そこの1ページから突如抜け出てきた男は私の手を握っている。見つめる先は過去。目の前に広がるのは甘い牢獄だった。だが、私にはこの男と天国で無惨に散る未来を選ぶ若さと愚かしさはもうない。

 金木犀が咲き始める季節、真夜中に突如泣き始めた携帯電話。下4桁の番号ですぐに誰か理解した。そんな自分にゾッとした。恐る恐る電話に出た。単なる興味本位でもあったし、あなたの声を聞いた後の自分を想像できなかったからだと思う。上擦った声で「はい」とだけ告げる。あなたはやっぱりあまりにも懐かしい声で「ごめん。久しぶり。」と告げる。そこからはなぜか突っ張っていた糸が解けたように私は笑いながらあの頃と同じようにあなたと話をしていた。連絡を取らなくなっていた三年間などまるでなかったようで、私たちは近況報告なんかもし合っていた。そこからあなたは段々と今の恋人の愚痴を言い始めた。よくある"重い"とか"面倒くさい"とかそんなものだった。最後にあなたは「また二人で会えないかな?」と付け加えた。至って自然な流れ、あくまで"自分が会いたい"とは言わず選択権は私に与えるものそれはノーと言えないことを分かっている態度に見えた。浮気性なところが嫌いだった。浪費家ですぐ調子に乗るところも歳上の女にやたら可愛がられるところも嫌いだった。顔が良いから何かと得をしていて、多くのものに恵まれているところを妬んでいた。だからあなたが私を何度も裏切ったこと、今まで許したことはない。それなのに私は口をつぐんでいた。昔の思い出とは、愛してしまったという事実はここまで人を美化してしまうのだと思い知った。

「私と会って、彼女はどうなるわけ?」
「彼女とはもう別れようかなって」
「本当に?」
「うん」
こんなやりとりをするうちに、私はあなたが私を裏切ったあの時もこのような手法で他の女たちに手を出していたのだと理解した。そしてその瞬間、何年経っても変わらないあなたに、成長しないあなたに、産まれた感情は"くだらない"だった。この男はあの頃から一歩も前に進んでいない。それに比べて私はどうだ?間違いなく前進した。裏切られたトラウマは消えない。だが、それに自分の足を止められたことはない。仕事での業績給が増えた。資格を取った。私はこの男がこんなくだらない癖を未だに拗らせている間に必死に生きてきたのだ。

「会えないかな?」
少し悲しそうな、甘ったるい声であなたは呟く。
「会えない。もう会わない。彼女のこと大切にしなよ。私たちもう関わらない。」
はっきりと深く深く自分とあなたに言い聞かせた。あなたが見ていた過去を私はもう見ることはないから。
「じゃあね!」
戸惑うあなたを無視して電話を切った。最後にあなたの番号を着信拒否リストに葬る。この瞬間、私はやっとあなたに対する憎しみも悲しみも嫉妬も寂しさも愛情も成仏させられた気がした。
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