第1話

文字数 1,999文字

 午前中の編集部は誰もいない。パソコンを起ち上げたら電話が鳴った。
「そちらのさ、最後のページにネタ募集と書いてあるから電話したんだよね。これ、ネタって言っていいのか、よくわからないんだけども」
 緊張しているのか、男はちょっとだけ早口だ。私はパソコンの画面を眺めながら、電話の相手に適当な相槌を打つ。
「女の人なの? 女の人、いるんだ、そうなんだ、へえ~」
 私がパソコンで開いている原稿は『人妻たちのマル秘性生活』だから、そんな雑誌に女性がいるのは想像しにくいのだろう。
「王様の耳はロバの耳ってさ、わかるんだよなあ、床屋も言いたいよな、俺は床屋じゃないけどね。胚培養士なんだけどね」
(はいばいようし?)
 一瞬、意味がとれなかった。
「不妊の人に受精卵を着床させるじゃない、あの受精卵を作るのが俺なのね」
 私の周りは晩婚だ。晩婚なのにセックスレスだ。でも子供は欲しい。昔は試験管ベビーと言われ、キワモノ扱いだった体外受精は、ごく当たり前の医療行為となり、ネットにはレディスクリニックのレビューや口コミが飛び交っている。どこの病院が成功率が高いのか、どこの検査が安いのか、私は未婚だが、アラフォーになるとイヤでもそうした情報が耳に入る。
「ものすごい美人が来たんだ」
 胚培養士は培養室にいる。ラベリングした精子や卵子を液体窒素で凍らせたり、顕微鏡下で受精させた卵子をシャーレに入れて培養器の中で成長させる。男が勤めるクリニックは診察室と培養室が隣り合っているらしい。ドアの小窓から診察の様子が見えるのだという。その時は女のすすり泣きが漏れ聞こえ、気になって隣りを覗いた。
 震えた。本当に美しいものを見ると手が震えるのだと初めて知った。そこに夢の女性、自分が理想とする美しい女がいたのだ。
「泣いていたんだよね、2年間、ずっとトライしてもダメなんだって。向こうの親からめっちゃ責められるってさ、バカ医者に言っても仕方ねえのにさ」
 子どもができないと徹底的に女のせいにされる。不妊の原因の半分は男の問題なのだが。
「検査に3カ月ぐらいかかるから、体外受精ができるのは年に4回から5回なんだけど」
 夏に来て。秋に来て。冬に来て。
「いつも泣いているんだ」
 あの人の笑顔を見たい、そう思ったのだと男は声に力を込めた。
「だからさ、俺はさ、受精させたんだよ」
 電話の向こうが少しの間、静かになった。私は耳に神経を集中した。
「俺の精子をあの人の卵子に」
「えっ?」
「え?」
 私と男が互いに静かになる。
「あ、すいません、続けてください」
 私はボールペンをつかむと付箋紙にメモをした。
 <他人の卵子に自分の精子を受精?>
「そして春が来たんだ」
 男の声が明るくトーンが上がった。
「あの人は笑っていたよ。俺が想像した笑顔の何倍もキレイで美しかったよ。子どもができましたって、笑いがこぼれていくんだ。こんなに幸せな顔ができるんだって思った。そう思ったらさ、俺もとても幸せな気持ちになった。俺はずっと培養室の中にいて、自分が誰のために何をやっているのかわからなくなっていたんだな。だけどあの人の笑顔を見て、わかったんだ。俺の仕事は泣いている女の人を笑顔にすることだったんだ」
 男は黙った。私はペンを持ったまま、耳を澄ませた。
「聞いてる?」
「聞いてます」
「うん、それでさ、俺は俺の仕事をすることにしたんだよ。俺の健康な精子で女の人をさ、幸せにさ」
 はあ? 声が出そうになるのをなんとか押さえた。それって……
「それって……」
「妊娠できるクリニックってネットでも有名になっちゃってさ」
 この男は何をやって、
「俺の子ども、258人いるわけ、すごくない? 日本中に俺の子どもが258人! いわばハーレム?」
 私は口をはさんだ。
「どこのクリニックなの?」
「どこ? あはは、そんなの言うわけないじゃん」
 男は笑いながら、それでもポロッと漏らしたクリニックの名前を私はメモした。
 男は大きく息をついた。
「あーすっきりした。誰かに言いたかったんだよ。ネタになる、これ?」
 すっきり? ネタ……ネタ?
 男が何か言ったが、私の耳には入らなかった。男は雑誌にいつ載るのか、載ったら買う、送って欲しいが住所は教えられない、などなど勝手に喋り散らすと急にブツンと電話を切った。
 私は受話器を握ったまま、じっとメモをしたクリニックの名前を見ていた。私はまるで別のことを考えていた。あの女の顔が浮かんだ。子どもができないと聞いて、ざまあみろと思った。私が大嫌いなことをあの女は知らない。バカだから。だから私に平気で頼むのだ、マスコミなんだしさ、調べてもらえない?
 私はつぶやいた。
「いいクリニックを紹介してあげる」
 スマフォに手を伸ばした。午前中の編集部にはまだ誰もいない。
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