06-04 不詳 白猫 独白 (短縮版)
文字数 2,000文字
朝起きると濡れた花の匂いがした。
夜に雨でも降ったかしら。
あのお方と会って、いつになく深い眠りに落ちてしまったんだわ。
深いというより初めての眠りと言っていい気がする。
遠い昔の曙が、やっと世界に立ち昇ったみたいに、わっちの朝も昨日から開けたのね。
幸せだとか不幸せだとかじゃないの。
もしわっちの人生を絵に描いたら、あのお方は必ずその中に描かれるお人だわ。
何枚描いても、描き続けても、あのお方は現れる。
現れはするけれど、直接には描かれない。
それがぱっとわかったの。
雨上がりのよく晴れた朝で、日差しが透き通るので、道路に跳ねた光が庇の裏まで薄明るく水槽のように照らして、つむじがちりちりむず痒くなる。
猫につむじがあるかしら。
そもそも猫に言葉はあるかしら。
昨日からわっちは言葉に包まれてる。
あのお方がくれたものだから。
朝からこの陽気では、昼過ぎには陽炎が立つかもしれない。
公園の木陰に早めに走った方がいいかしら。
いいえ、わっちは料理が好きだから、お気に入りのお店に行って、鳴いてやろうかしら。
微かな声で、つまり外ゆきの、少し甘ったるい、つっかかるような声で鳴いたなら、人間はまたあのとろりとしたスープくれるかしら。
わっちは首を左に傾げて、手近な木に飛びついた。
ゆっくりとした動作が不思議と尾を引くように、我ながらスムースに、至って身軽という気がする。
自分が思ってるより動きが速い。速いけれどゆとりがある。ゆとりがあるから余計に速い。
その感覚のずれがあり、わっちの意識は体よりなお速い。
昨日までは、暗い公園も光の街も、黒か白かの穴のように感じてた。
少し気を抜いて、そちらへ倒れれば、落ちて吸い込まれそうに思われた。
深い沼だった。
それが今日は街中に水でも撒きたいような気持だわ。
眠りに落ちる夢の直前に、高台の公園から街を見下ろすと、月光が家々の屋根を雨粒みたいに流れ落ちてた。
それはそのまま夢に繋がり、わっちは銀の光りが屋根に当たる音を聴いてた。音が響けば響くほどかえって静かだった。
月の暈が倍になった。
目覚めると濡れた花の匂い。
あのお方に出会って幸せだわ。
だけれどすべてがあまりにはっきり色の中で、魔を呼んだ気もしてる。
一帯を混ぜっ返したいような、そんなもやもやが胸の奥に生まれて、わっちはくすぐったいの。
匂いのいい男みたいにつきまとう、なんとも言えない、そういう幸福なの。
夢を思い返すと、銀光は家々を蒼く焼いて、首も焼けたような気がする。それでいて、玉の上を歩くような感触を足裏に感じてる。
つまりはそういうことなんだわ。
さあ、どこか行きましょう。
瞬躰を試してみようかしら。
いつもの店へ。
首を右に傾ける。瞬き二回。
これは求愛なの。あのお方へ捧げるの。
そんな気持ちなのよ。
体が白くほどけてく。
ほどけて、解けて、世界へ編まれてく。
ゆっくり浅い小川のように光る気がする。
深く息を吸う。そして吐く。
細く吐き出された息が、すでに転移先へ移ってる。
いつもの店の塀の陰に、吐き出す息の白糸で編まれるように、わっちはゆっくり出現してく。
にゃあにゃあ
鳴いたらスープくれたわ。
人間が何か喋ってる。
わっちは聞く気もないから、耳で音を追いながら、別のこと考えてた。
春の芋虫たちが、子どもの縫い針の奔放さで這い逃げるみたいに、あっちこっち思考を巡らせた。
また来るわ、と目で言って、わっちは塀に飛び乗った。
世界に編まれ編み出され、公園の木の上に着いた。
いつの間にぼーっとしてたんだろう。
公園の子どもの声を聴いてたはずなのに。
空の底に夕陽が熟れて淀んでた。赤い赤い柿の実がビルに粘りつくようね。次の瞬間にはしゅうと消えてなくなった。
建物の陰は深くなった。
周りがチカチカ光りだした。人の脚は早くなった。
この世界の何を見るのだろう。
街の明かりが空まで上って、上見上げても騒がしかった。胸ざわざわした。
わっちは生きるだけでは物足りない生き物になってしまった。
目的がなければならなくなった。
こんな馬鹿なことあるかしら。
恋しくなって、悲しくなった。
今わかった。
人間はある種の整理を必要とするんだわ。
整理して分類することで、整理したものが整理されたものに変化する。その一方で、整理の不可能性を無意識に感じて、整合性の取れなさにより深い混乱に陥るんだわ。
これはわっちの考えなの?
あのお方の残滓なの?
人間は常に微細な混乱と根本的な混乱との嵐の中だわ。
新しい言葉と思考とを頂いたわっちは、世界を解釈するしかない存在になってしまった。
本当かしら。
あのお方とお話が出来たら抜け出せるのかも。
でも、抜け出せるとか出せないとか、もうすでにおかしいわ。
体を布団の一番深いところへ沈めて眠りたい。
雨の音が聞きたいわ。
夜に雨でも降ったかしら。
あのお方と会って、いつになく深い眠りに落ちてしまったんだわ。
深いというより初めての眠りと言っていい気がする。
遠い昔の曙が、やっと世界に立ち昇ったみたいに、わっちの朝も昨日から開けたのね。
幸せだとか不幸せだとかじゃないの。
もしわっちの人生を絵に描いたら、あのお方は必ずその中に描かれるお人だわ。
何枚描いても、描き続けても、あのお方は現れる。
現れはするけれど、直接には描かれない。
それがぱっとわかったの。
雨上がりのよく晴れた朝で、日差しが透き通るので、道路に跳ねた光が庇の裏まで薄明るく水槽のように照らして、つむじがちりちりむず痒くなる。
猫につむじがあるかしら。
そもそも猫に言葉はあるかしら。
昨日からわっちは言葉に包まれてる。
あのお方がくれたものだから。
朝からこの陽気では、昼過ぎには陽炎が立つかもしれない。
公園の木陰に早めに走った方がいいかしら。
いいえ、わっちは料理が好きだから、お気に入りのお店に行って、鳴いてやろうかしら。
微かな声で、つまり外ゆきの、少し甘ったるい、つっかかるような声で鳴いたなら、人間はまたあのとろりとしたスープくれるかしら。
わっちは首を左に傾げて、手近な木に飛びついた。
ゆっくりとした動作が不思議と尾を引くように、我ながらスムースに、至って身軽という気がする。
自分が思ってるより動きが速い。速いけれどゆとりがある。ゆとりがあるから余計に速い。
その感覚のずれがあり、わっちの意識は体よりなお速い。
昨日までは、暗い公園も光の街も、黒か白かの穴のように感じてた。
少し気を抜いて、そちらへ倒れれば、落ちて吸い込まれそうに思われた。
深い沼だった。
それが今日は街中に水でも撒きたいような気持だわ。
眠りに落ちる夢の直前に、高台の公園から街を見下ろすと、月光が家々の屋根を雨粒みたいに流れ落ちてた。
それはそのまま夢に繋がり、わっちは銀の光りが屋根に当たる音を聴いてた。音が響けば響くほどかえって静かだった。
月の暈が倍になった。
目覚めると濡れた花の匂い。
あのお方に出会って幸せだわ。
だけれどすべてがあまりにはっきり色の中で、魔を呼んだ気もしてる。
一帯を混ぜっ返したいような、そんなもやもやが胸の奥に生まれて、わっちはくすぐったいの。
匂いのいい男みたいにつきまとう、なんとも言えない、そういう幸福なの。
夢を思い返すと、銀光は家々を蒼く焼いて、首も焼けたような気がする。それでいて、玉の上を歩くような感触を足裏に感じてる。
つまりはそういうことなんだわ。
さあ、どこか行きましょう。
瞬躰を試してみようかしら。
いつもの店へ。
首を右に傾ける。瞬き二回。
これは求愛なの。あのお方へ捧げるの。
そんな気持ちなのよ。
体が白くほどけてく。
ほどけて、解けて、世界へ編まれてく。
ゆっくり浅い小川のように光る気がする。
深く息を吸う。そして吐く。
細く吐き出された息が、すでに転移先へ移ってる。
いつもの店の塀の陰に、吐き出す息の白糸で編まれるように、わっちはゆっくり出現してく。
にゃあにゃあ
鳴いたらスープくれたわ。
人間が何か喋ってる。
わっちは聞く気もないから、耳で音を追いながら、別のこと考えてた。
春の芋虫たちが、子どもの縫い針の奔放さで這い逃げるみたいに、あっちこっち思考を巡らせた。
また来るわ、と目で言って、わっちは塀に飛び乗った。
世界に編まれ編み出され、公園の木の上に着いた。
いつの間にぼーっとしてたんだろう。
公園の子どもの声を聴いてたはずなのに。
空の底に夕陽が熟れて淀んでた。赤い赤い柿の実がビルに粘りつくようね。次の瞬間にはしゅうと消えてなくなった。
建物の陰は深くなった。
周りがチカチカ光りだした。人の脚は早くなった。
この世界の何を見るのだろう。
街の明かりが空まで上って、上見上げても騒がしかった。胸ざわざわした。
わっちは生きるだけでは物足りない生き物になってしまった。
目的がなければならなくなった。
こんな馬鹿なことあるかしら。
恋しくなって、悲しくなった。
今わかった。
人間はある種の整理を必要とするんだわ。
整理して分類することで、整理したものが整理されたものに変化する。その一方で、整理の不可能性を無意識に感じて、整合性の取れなさにより深い混乱に陥るんだわ。
これはわっちの考えなの?
あのお方の残滓なの?
人間は常に微細な混乱と根本的な混乱との嵐の中だわ。
新しい言葉と思考とを頂いたわっちは、世界を解釈するしかない存在になってしまった。
本当かしら。
あのお方とお話が出来たら抜け出せるのかも。
でも、抜け出せるとか出せないとか、もうすでにおかしいわ。
体を布団の一番深いところへ沈めて眠りたい。
雨の音が聞きたいわ。