読書は命のオアシス

文字数 2,695文字




★★★読書は命のオアシス☆☆☆




 紅緒(べにお)は、自他共に認める、重度の活字中毒である。

 それがどんなに僅かな時間であっても、とにかく読みかけの本に顔を埋めていられれば満足だった。

 そんな彼女にとって、読書に没頭する時間とは、生きることへの活力が沸き出すオアシス、そして、注意深く吟味された文章は、そのオアシスから汲み上げてきた、美しく澄んだ奇跡の水だった。

 紅緒の日常を、簡潔に描写すると、こうなる。

 勤務時間、睡眠時間、食事を摂る時間、入浴や排泄を済ませる時間、その他諸々の、日常生活を円滑に運営するために必要な事柄を済ませる時間等が、大小の島々となり、読書という名の大海に浮かんでいた。

 そんな慎ましく平穏な日常を送っていたある日、紅緒の世界観を震撼させる事件が持ち上がった。

 それは、勤務時間内に設けられている休憩時間中に、スマートフォンでゲームをして遊んでいる社員がいるということだった。

 それだけならまだしも、ゲームに夢中になり過ぎたあまり、休憩時間が終了しても、持ち場に戻って来ない社員がちらほらと出てき始めた。

 その事態を重く受け止めた会社の上層部が、これは何か手を打たねばならんということになり、戒厳令を敷くことを取り決めたようだった。

 その戒厳令の内容とは、次のようなものだった。

 食事休憩は自由時間と認められるので除外するが、15分程度の短い休憩時間に関しては、スマートフォンの使用を原則禁止とする。

 同じように腰が重くなる原因として、本の閲覧も考えられるため、平行して読書も禁止事項とする。

 もし違反が発覚した場合には、スマートフォン及び本をその場で回収するが、翌日には返却に応じる。

 そしてこの新しい規則は、本年度2月から施行することとする。

  本年度2月とは、つまり明日からということだった。

 これでは猶予も何もあったものではない。

 それまで、小鳥のさえずりが響き渡り、木漏れ日がちらちらと踊る穏やかな深い森の中で過ごしていた紅緒の心は、一転して、寒風吹きすさぶ、荒涼とした荒野へと置き去りにされてしまった。

 たとえ僅か15分であっても、紅緒にとっては、大切な命の水の給水ポイントに他ならなかった。

 勤務時間中に、黙々と仕事に取り組んでいると、喉の渇きと同様に、心の渇きも意識されてくる。

 その両方を短い休憩時間で癒すからこそ、再び仕事に取り組もうという活力が醸成されるのだ。

 それなのに、それが出来ないとなってくると、心は間違いなくぱさぱさと砂漠化し、同僚や後輩、上司に対する態度は、次第に殺伐としたものになっていくだろう。

 命の水を、こまめに給水出来るかどうかは、紅緒当人にとってだけではなく、周囲の人達にとっても、影響の及ぶものなのだ。

 会社の上層部としては、スマートフォンの使用や読書を禁止することによって、適正な措置を取ったつもりでいるだろうが、それは数少ないガス抜きの穴を塞ぐことに他ならず、心ならずも社員の狂暴化、並びに弱体化に寄与しているとは、夢にも思っていないだろう。

 とにかく、朝の就業開始時刻から、お昼の食事休憩の間まで、どのように生き延びるかが、今後の胸苦しい課題となった。

 ところが、いざ2月を迎え、新たな規則という縛りの中での会社生活が始まってみると、地下茎で繋がっている反乱分子達が、ちらほらと活動を開始していた。

 つまりは、スマートフォンや本に魂を売った者達が、短い休憩時間の間にも、それらを巧みに盗み見していたのだ。

 それを知った紅緒は、胸のつかえが下りた気がした。

 やはり、心の渇きを感じているのは、自分だけではないのだ。

 彼女は、社員食堂の片隅にひっそりと腰掛けると、テーブルの陰を隠れ蓑にして、読みかけの本をそっと開いた。

 そして、恋する者特有の熱を帯びた眼差しで、紙の上に広がる豊かな言葉の森の中を、夢中になって、探検し始める。


《私はこの大自然最大の奇蹟だ。

 有史以来、私の知性、私の心、私の目、私の耳、私の手、私の髪、私の口を持った人間は一人としていない。

 私の以前にも、現在も、未来にも、私のように歩き、話し、動き、考える人はいない。

 すべての人は私の兄弟である。

 しかし、私たちはみんな違っている。

 私は唯一かけがえのない存在なのだ。

 私はこの大自然最大の奇蹟だ。

 私は確かに動物界に属している。

 しかし、私は動物として生きているだけでは満足出来ない。

 私の中には炎が燃えている。

 それは数え切れないほどの何世代にも渡って受け継がれてきた炎だ。

 その炎の熱は私のスピリットを「今よりももっと向上しなさい」と常に煽り立てている。

 そして、私はそうするつもりだ。

 私はこの炎を煽り立て、唯一無二の自分を世界に示そう。》


 名残を惜しみつつも、そこで潔く本を閉じる。

 何しろ、15分間の休憩時間の中で、喉の渇きと心の渇きを癒し、ついでにトイレにも寄らなくてはならないのだ。

 読書に割ける時間など、ほんの僅かだった。

 それでも、たった今、紅緒の中に取り込んだ文章は、危うく砂漠化しそうだった心に深く染み込んで、充分に潤してくれるものだった。

 これで次の給水ポイントであるお昼の食事休憩まで、活力を損なうことなく、生きていける。

 紅緒は、感動で震える心を抱えたまま、椅子から立ち上がった。

 そして、ふと気が付く。

 さっきとは、現実の手触りが変わっていることを。

 しかし、それも道理だった。

 数分前に椅子に腰掛けたばかりの彼女と、数分後に椅子から立ち上がった彼女とでは、まるっきりの別人になっていたのだから。

 読書とは、僅か数分の間でも、それほどまでに人を成長させ、そして、思いも寄らない遠い場所へと、運び去ってくれるものなのだ。

 そんな奇跡のような素晴らしいツールが、この世界にはそれこそ銀河のように溢れている。

 そして、そんな世界に生きている奇跡を、紅緒は、胸に抱えた本と共に、そっと抱き締めた。


★★★☆☆☆★★★☆☆☆★★★☆☆☆


*文中《》内、オグ・マンディーノ『世界最強の商人』より引用しました。


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