第1話

文字数 1,995文字

 恋人である佐伯香苗(さえきかなえ)の住まいは4階建てで4部屋構成の、妙に細長いアパートの3階にある。彼女は3階の角部屋、305号室にここ数年居ついている(日本では「4」は縁起が悪いということで、4部屋構成であっても角部屋は5号室になる)。
 ドアのチャイムを押す瞬間、ふと気になって部屋番号を確認してみた。以前に一度だけまちがえておとなりのチャイムを押してしまい、眉間にしわを寄せた格闘技選手みたいな男と相対したことがあったのだ。
 

304

。目の前の部屋はまちがいなく角部屋である。首を傾げながらもままよとボタンを押した。格闘技選手が出てきませんように……。
「早かったね真琴くん」出てきたのは香苗だった。「なにボーっとしてんの。あがって」

 促されるままお邪魔すると、なんとなく違和感を覚えた。どこがおかしいのかは指摘できないけれど、なにかがちがう。キッチンに置いてある食器のラック、ベッドにかかっている布団の色、テーブルのサイズ。どれも意識下でかろうじてキャッチできるぎりぎりのラインに引っかかってくる。
「なあ」わたしは努めてなにげない調子で切り出した。「アパートの部屋番号、変わったのか。それと模様替えもしたよな」
「番号は変わってないし、どこもいじってないよ。どういうこと?」
 インスタントコーヒーがふるまわれた。一口すする。味はともかくとして、いくぶん人心地はついた。「だってこないだまで305号室だったろ、ここ」
 恋人は怪訝そうに眉根を寄せた。「あたしが越してきたときから304だったけど」
「いや、絶対――」
「そんなことよりさ、こんな話聞いたことある?」彼女は本棚からド派手な表紙の文庫本を引っこ抜いた。「これなんだけど」
 それは典型的なえせ科学を売りにしたパルプの無駄遣いで、心霊療法でがんが治ったとか、未来からきたと自称する個人のSNSを紹介しているような代物だった。
 問題のページには恐れ入るほかない。それによればこの世は無限に分岐する無数の宇宙に枝分かれしており、われわれは日々、そのあいだを知らず知らずのうちに渡り歩いているのである! 諸君が明日会う彼氏なり彼女なりは、果たして厳密に昨日のそれと同一人物であろうか? と結んであった。
 わたしはこらえきれずに吹き出した。「多元宇宙ってのはさ、波動関数収束問題を回避するために急造された詭弁なんだよ」
「波動関数ってなに。SUM関数みたいなもの? 自慢じゃないけどあたし、エクセルでまともに使えるのそれくらいだよ」
 こういうところがかわいいのである。
「たとえばぼくが自分の部屋にいるとき、香苗はぼくがなにやってるのかわからない。ここまではいいか」
「どうせやらしいサイトでも見てるに決まってるよ」
 大げさにせき払いをしておいた。「とにかくそれを確かめるには実際にこっちへきてもらって、ぼくを観測する必要がある」
「電話で聞けばいいじゃん」
「それでもいい。で、そのときになって初めてぼくのやってることが決定されるわけだ」
「そんなのおかしいよ。だって真琴くんがナニしてようと」淫靡に笑う。「あたしが見ようが聞こうが関係ないじゃない」
「量子力学ではそう考えない。

。これを波動関数の収束と呼んでるんだな」
「SUM関数の収束ね。で、多元宇宙(マルチユニバース)が詭弁だとかいう話はどうなったの?」
「香苗がぼくの行動を電話で確かめるとする。波動関数の収束はいつ起きるんだろうな。携帯が鳴った瞬間か? それとも『通話』ボタンを押した瞬間か? 実際に会話を始めたときか? もしそうなら電磁波が飛んできて、端末に流れる電子のひとつめが動いたときか?」
「そんな調子じゃ決めらんないよ」
「じゃあ観測だとか収束なんてものはなくて、その都度宇宙が分岐すると解釈すればどうだろう」
 しばし彼女は視線を外して思案しているようにうつむいた。「つまり真琴くんがナニしてるのかがわかったとき、ひとつの事象に収斂するんじゃなくて、あらゆる可能性の宇宙が生まれるってこと? それなら収束のタイミングがいつかなんて悩まなくていいよね」
「めずらしく冴えてるな」まるで香苗じゃないみたいに。「でも多元宇宙論はなんにも解決してなんかいない。結局宇宙はいつ分岐するんだ?」
「あ、そう言われてみればそうだね」
「要するに」文庫本を投げ捨てた。「こんなのはお子さま向けのたわごとだってことだな」

 ダラダラ居座っていたせいですっかり遅くなってしまった。別れのあいさつをして部屋をあとにしたところで、携帯電話を忘れたのに気づいた。ため息を吐き、階段を逆戻りする。
 格闘技選手と鉢合わせするのはごめんこうむりたかったので、部屋番号の確認は怠らなかった。――

305


 おそるおそるチャイムを鳴らしてみる。
「あれ、真琴くんどうしたの急に。くるなら連絡してよね」出てきたのは香苗だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み