第1話

文字数 1,994文字

 見えているのに見えていないもの。時折耳にするそんなフレーズは、愛や何やら概念の類いにだけ当てはまるものだと思っていた。
「大人でも子どもでも見えるよ。妖精が微笑んでくれたらな」
 まあ老眼は物理的に見づらいが、とじいちゃんは笑いながら俺をガラスケースの前に押し出した。
「さあ探してみろ、名探偵」
 そもそもこんなことになったのは、ついうっかりじいちゃんの趣味の話に首を突っ込んでしまったからだった。「誰も話し相手がいなかった話題」に孫が興味を示しなぞしたら、こうなるのは目に見えていたのだが。
「妖精はな、自分に興味を持って、何年も見続けてくれるような相手にしか振り向かない。けどな、一度振り向いたら、それからずっと側にいてくれるんだ」
 一体、じいちゃんは何の話をしているんだろうか。俺が今見ているのは、博物館の日本刀なのだが。
 「名探偵」の俺が今探しているのは、「金筋(きんすじ)」だ。じいちゃんいわく、刀身に光を乗せたらキラッと強く光る筋のこと、なのだそうだが……どれだけ説明されても、やたら上手い図をその場でさっと描いてもらっても、実物からは何の手がかりも読み取れなかった。だいたい何なんだよ、刀身に光を乗せる、って。
 結局、土曜日の午後を全部潰しても、「迷」探偵には何も見えなかった。
「最初から見える訳がない。そういうものなんだ、日本刀っていうのは」
 閉館の音楽が流れる博物館の門をゆっくり出ながら、なぜか嬉しそうにじいちゃんが言う。
「お前も分かったと思うが、日本刀っていうのはただの武器じゃあないんだ。ああして見て楽しむものでもあって、鑑賞する美術品としての記録がすでに鎌倉時代に残されている」
 その後もじいちゃんの話は続いていたが、俺は妖精とやらのことが気になって仕方がなかった。ピーターパンにしろトトロにしろ、妖精が寄り添うのはいつも純真無垢で無限大の可能性を持つ子どもに限られている。社会に揉まれて汚れて、毎日ルーティーンをこなすだけのくたびれたサラリーマンになど訪れてくれるのだろうか。というより、あれはたぶん何かの比喩なのだろう、数学者であるじいちゃんがそんな非科学的なことをファンタジックに語るとも思えない。だとしたら、妖精とは何なのだろう。

「……なぁんて、考えてた頃があったなあ」
 俺は刀身の水を拭いながら懐かしく思い出す。じいちゃんと刀を観に行ったあの日から十五年、社会人八年目で脱サラして縁もゆかりもなかった刀の職人の世界に飛び込んで、今年で十二年目になる。あれから三年後にじいちゃんは大往生で逝き、地元の風習だとかで葬式なのに紅白饅頭が配られた。後日、遺品整理で出てきた手書きのメモ束がなぜか気になってもらってきたのだが、寝転がってペラペラ見ていた時、最後のページの一文に釘付けになった。「妖精が見たいならば、蔵の天井裏へ行け」。翌日は日曜だったから、朝が来ると急いでじいちゃんの家の蔵へ走った。天井裏なんてあったことにすら気づいていなかったが、よく見ると天井に小さな輪がついていて、隅に置いてあったかぎ棒で輪を引っかけて引っ張ると階段が下りてきた。埃まみれかと思いきや、きれいに掃除された空間に、細長い桐箱が一つ。恐る恐る開けてみると、反りのついた木の棒、いや、刀の鞘が出てきた。あの日、どれだけ頑張っても微笑んでくれなかった妖精が、ここにいるというのだろうか? 俺は心臓を高鳴らせながらゆっくりと鞘を払った。のだが。
「すぐに会える、なぞとは書いていなかったのであろう?」
「いや、それはその通りなんですが」
 結局、どれだけ粘っても以前と何も変わらないレベルの景色しか見えなかった。ただ、手にした感触、重さ、その迫力と美しさに引き込まれて、あれよあれよという間に刀の研ぎの世界に飛び込んだ。オフィスで事務仕事をしていた頃よりはるかに苦しい修業の日々が何年も続いたが、徐々に刀の細部まで目がいくようになり、今やあの「金筋」もはっきり見て取れるようになっている。目が慣れて、そうした刀の見どころが認識できるようになることを、じいちゃんは「妖精が微笑む」と言っていたらしい。事実、まるで魔法にかかったかのように、ある日突然見えるようになったのだった。
 でも、じいちゃんにも計算外があった。「本当に妖精が寄ってきた」。さっきから会話しているのがその妖精なのだが──いや、妖精、なのか? かわいらしい小さな姿でもなく、いかにも未知の存在といった見た目でもなく……おっさんだ。俺よりはちょっと、だいぶ格好いいが、おっさん以外の何者でもない。妖精の定義を再確認するべきかもしれない。
「まさか私が見える人間がまだいるとはな」
「それ、初めて会った時からずっと聞いてます」
「まあそう言うな」
 くすぐったそうにおっさんが笑う。
 じいちゃんのメモ束は、俺の仕事道具箱の底に今も眠っている。
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