余白のとりなし

文字数 1,185文字

 わたしが聖書にはじめて触れたのは数年前の春でした。本屋の片隅に置かれてあった黒い肉厚の表紙と半紙のように薄い紙質、指の腹から伝わってきた感触はおおよそこのようなものだったとおもいます。その感覚が消えないうちにこの本が欲しくなって買いました。わたしと聖書の出会いは随分肉々しく、近いものでした。しかしその興奮は永くは続かず、次第にわたしとそれとの距離は開いていきました。結論から申しあげれば、わたしに聖書を読ませたのは聖書それ自体ではなく、ここに書かれてあることごとを実践し守っているひとびとであり、そしてまたわたしのようにこの書に悩み、苦しんだひとたちだったのです。
 神も奇跡も福音もわたしには等しく遠かった。そうしたことからいえば、手放しに「バイブルが好き」とは喜べないのかもしれません。わたしにはどうしても実感がなかった。これが酷くて悩みました。聖書にたしかに記されてある風景のひとつひとつがあまりに鮮烈であったからです。最初にイエス絶命の叫びを読んだとき、わたしはこれがあたかも温度をもっているかのように感じました。いいえ、実際それは人肌かそれ以上に熱された記憶に違いありませんでした。その生きた景色がわたしの躓きの種となりました。最初こそかれらの熱量にうかされて読みすすめることができました。愛はサマリア人から、受難はエレミヤから、緊張はヨナから知ったものだと疑いませんでした。しかし同時に、すこし遠巻きに、物語としてかれらを眺めているわたしを段々と発見していました。
 ひとつの転機がありました。わたしの周りに幾人か、聖書を読むひとがあらわれたのです。これには救われた心地がしました。それまではあんまり自分から遠いだけに、もうこれを単なるお話としてしか読むことはできないだろうと諦めかかっていました。けれどいまわたしのまえには信仰に生きるひとびとがいる。頭を抱えて聖句を追っているひとだっている。その生活は、わたしがお話を伺えた方々はすくなくとも、決して穏やかなものではありませんでした。ですがかれらは現にその人生を語ってくれます。それがどれほどこころづよく、ありがたかったことでしょう。かれらは、自分たちの信仰と格闘とを通じてわたしに聖書をみせてくれました。一度決定的に距離を生んでしまった聖書とわたしの断絶は最早修復不可能だとしても、わたしはまた新たな活力をもってこれを読むことができる。これが聖書のとりなしであるのなら、「好き」というのでは足らないのかもしれません。わたしがこの聖典のページを捲り、困難に立ち往生したとき、そのときわたしは当惑した自分の顔ではなく、ためらいながらもこの本と向かい合っているかれらの顔を想うでしょう。そしてこっそりと、かれらに内緒でかれらとささやかな対話を果たすのです。一筋の望みを託すならば、そのときは、顔と顔を合わせて。
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