第1話

文字数 1,457文字

 今日の夕飯は驚いた。パンとチーズ、それにプチトマトとフルーツだけだった。その上、紙皿、紙コップ、割り箸、使い捨てスプーン……。

 パンは近所のパン屋で買ったと思われる田舎パンだ。あそこのパン屋の硬めの田舎パンは、家族もみんな好きだ。夕食に出るのは珍しいが。

 いつもは、温かい味噌汁にご飯。魚や肉の炒めものが多い。母は料理好きで、よく作り置きやホームベーカリーもやっていた。お皿やお箸もこだわり、見た目も良い食卓を心がけていた。また、環境問題も意識が高く、一生懸命ゴミの分別もやっていたのに。これは何かが起こっている。

「もしかして、何かあった?」

 食卓についた私は、母に聞く。しかし、いつも通りにニコニコ食べているだけだった。父も普通に食べている。こっちは無口な人なので、追求しても答えないだろうが。

「カルテスエッセンって知ってる? ドイツの夕飯のことで、パンやチーズの冷たい料理が主らしい」
「へえ」
「向こうは兼業主婦が多いから、こういう夕飯も一般的なんだって」

 典型的な専業主婦の母とドイツがあまり結びつかない。どちらかと言えば昭和の良妻賢母タイプ。料理上手で、弁当も普段の食事も手を抜く事はなかった。

「田舎パンってカンパーニュともいうのね。パンを分け合うって意味らしい」

 なんだか今日の母はテンションが高く、ぺちゃくちゃと雑学を話していた。全くこの食事の意味は話していなかったが、どうでも良い話題は進むらしい。

 こんな食事も数日続いた。現在、大学生であり食べ盛りを過ぎた私でも飽きてきた。栄養バランスは取れているわけだが、あのペラペラな紙皿も、なんだか手抜きしているように見える。ついに私はこんな夕飯も文句をいう。オシャレなドイツ語で誤魔化されていたが、単なる手抜きじゃないか?

「そう、手抜きよ」

 母は全くその点を否定せず、開き直る。

「正直、良妻賢母飽きた。たまにボイコットさせて。料理で愛情はからないで」

 しかも泣き始めてしまい、この食卓のムードは最悪だ。

 父と母が出会ったのは氷河期の大変な時期だった。母はキャリアウーマンになれないと悟り、若い時に戦略的にお見合いして父と結婚したと暴露。料理も本当は好きではないが、先生に習って無理矢理スキルをつけたらしい。

「結婚だけが生きる道だったのよ」
「ちょ、お父さん。こんな事暴露されてるけど、いいの?」
「最初は契約結婚みたいな感じだったのさ。俺も年上で会社経営してたからなぁ。母さんも若かったし」

 父はのんびりと言う。特にこの結婚には不満は無い様子だったが、一人娘の立場は……。

 そうは言っても母は幸せそうだった。これからは、在宅の副業などもやってみたいと夢を語る。

 無理だろうな。

 父と私は顔を見合わす。副業といっても、何のスキルもない母には険しい道に見えたが、ここで水をさす気にもなれない。

 とりあえず、母が良妻賢母の呪縛から解放された事を祝いたい。こんな手抜き料理だが、紙皿と紙コップでパーティーっぽいではないか。気づくと泣いていた母は笑顔を見せていた。

「お母さん、おめでとう」

 一応言葉にして祝うが、母みたいに生きるのは、怖くもなる。

 田舎パンにチーズをはさみ、もぐもぐと咀嚼する。冷たい食事。でもパンは硬くて、噛み締める度に味がする。

 こうして咀嚼しながら、大学卒業後は実家から出ようかと思う。こんな居心地の良い巣にずっといるのも、嫌な将来が見えてしまった。

 もし、巣立ちしたら母の料理も美味しく感じられるかもしれない。

 こんな手抜きでも。どんな料理でも。

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