滲む

文字数 1,439文字

 坂巻の葬儀で、わたしは泣かなかった。大学生のときに知り合ったのだから、かれこれ五十年来の友であるというのに、涙は一滴も零れなかった。
 彼の細君は気丈に喪主として挨拶をしていたが、出棺の際には耐えきれなかったのだろう。喪服の袖で顔を覆いながら頽れた。それを支えた息子は、坂巻の若い頃にそっくりだった。
 溌剌とした太い眉に黒めがちの目、短く整えられた髪はいかにも固そうで、背は高くないががっしりと頑丈そうな体躯をしている。今もありありと浮かぶ。紫煙を燻らし笑う友の顔が。

「貴島、飲んどるか」
 ゼミの酒席で決まってそう声をかけては、ビール瓶を傾けてくる。仕方なくそれを受けてグラスを差し出す。坂巻は豪快そうな見た目に反してたいして強い質ではないらしく、赤く濁った目は虚ろだ。
 わたしはというと、それなりに飲める体質で、最後まで正気でいる。酔っ払って泣き出す坂巻を宥めたり、潰れてしまったときにはタクシーに押し込むのがわたしの役割になっていた。何故か坂巻はわたしの言うことは素直に聞くものだから、体よく面倒を押しつけられるのが常だった。
 それぞれが別の仕事に就いても、同じような関係が続いた。酒を酌み交わし、坂巻が一方的にしゃべり、泣き、笑う。明るく大ざっぱで、お人好し。彼と杯を重ねるといつの間にか学生時代に戻ったような心持ちになる。小用に立って鏡で自分の顔を見るたび、驚いたものだ。ああ、あれからもう何十年も経ったのだなぁ、と。

 奴が先に逝くなどとは、露ほどにも思っていなかった。若い頃からわたしのほうが体力もなく、一度大病を患ってからはうっすらと、自分が先に死ぬのだろうと思っていた。奴はわたしの葬儀ではきっと、人目を憚らずに泣くのだろうと夢想しては一人肩を揺らしていた。だから、酒はほどほどに。もう誰もお前を介抱してくれる者はいないのだから。そう言っておいてやらねばならないと思っていた。

 四十五日も過ぎた頃、彼の細君から荷物が届いた。香典返しならすでに受け取っていたからなんだろうかと訝しく思いながら、書斎に持ち込み茶色い紙をそろりと剥がす。何か、貸したままになっていた本でもあっただろうか。それにしては大きい。
 外装を剥がすと、文箱が出てきて、上には一筆箋が添えられていた。
『これはあなたのものです』と。
 何かぎっしりと入っているらしく、蓋が少し浮いていた。何やら故人の秘密を覗くようで少々気が引ける。だが、細君がわたしに託したのだ。見ないわけにはいくまい。
 わたしは恐る恐る蓋を開いた。
 入っていたのは紙だ。原稿用紙ほどの大きさで、縦に罫線の入った、便箋のようなものだ。
 書かれていたのは、般若心経だ。お世辞にも達筆とは言えぬ文字が、ときおり震えながら綴られている。
 幾枚も幾枚も。
 どこか気迫のようなものさえ感じるその写経に、わたしは少々怯む。

 なんだこれは。信心深い質ではなかろうに。
 そう思い、紙の束を箱から取り出した。すると、底には一枚、経ではない一文が書かれた紙があった。大きく、少し震えた文字で書かれていたのは。

『貴島の病平癒祈願』

 そんな、そんな殊勝なことをする奴ではなかっただろう。願掛けだなんて。ちまちまと写経だなんてそんな、七面倒なことをするような奴では。

「まったく、お前は本当に」
 莫迦だ、と悪態をつこうとしたが嗚咽に掻き消される。思わぬ速さで涙が頬を滑り、ぽたりと黒い文字の上に落ちた。墨は滲み、遠い過去、坂巻が綴ってくれた思いを僅かに溶かした。
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