巡・楯

文字数 1,931文字

 黒色(こくしょく)に塗り潰された審判の場で、男だけが異質だった。襟首の緩んだ白いシャツと、染みのついた白いズボン。彼の衣服の他に、この空間に

はなかった。ひやりとした黒い床に素足と膝をつき、固い縄で後ろ手に縛られているにも関わらず、男の唇は奇っ怪な笑みを形成していた。
 男の眼前には、何か靄のようなものが渦を巻いていた。それもまた黒く、目の良い者が注視しても見えるものではなかった。靄は暫時蠢いていたが、やがて人間の形を真似、腕を組んで男を見下(くだ)した。
「気分はどうだ」
 問いかけが落ちると同時に、男の腹に線が走り、場に赤が生まれた。男は少し目を細めると、にやりとして言った。
「最高だよ、女に刺されて死ぬなんて」
 ――最悪だよ、顔も覚えていない女に刺されて死ぬなんて。
 生前、彼は複数の女の家を転々として暮らしていた。所謂(ヒモ)である。彼を包む謎めいた雰囲気は、女達に衣食住を提供させる力を持っていた。彼を刺した女というのは、寄生先の一つであった。皮肉なことに、彼の生を手助けしていた

が、彼に死をもたらしたのである。
「ここは地獄なのか」
「死者の次の生を決める、裁きの場だ。人間が想像する炎熱地獄だの衆合地獄だのは存在しない」
「次の生というのは、お前が決めるのか」
(おれ)が決める」
 男は内心ほくそ笑んだ。自分の人生が褒められたものではないことは充分理解している。人々が創造したとおりの地獄に落ちれば、炎で焼かれたり針山に貫かれたりすることは免れないだろう。それが、どうだ。この靄が来世を決め、転生をさせるらしい。地獄の責め苦を受けずに済むことは、男にとって僥倖であった。
「貴様は、獅子として生まれ変わることとする」
 百獣の王ライオン。言わずと知れた肉食動物、優れたハンターである。中々の優良物件を引き当てたことに、男の口元から嘲笑の音が漏れた。屑だ屑だと罵られてきた自分であるから、もっと矮小な生物――例えば鼠とか――に転生するものだと思っていたが、ライオンとは。
「精々楽しめ」
 意識をゆっくりと奪われていく。靄に三日月型の穴が空き、嗤笑(ししょう)を現した。

 

生で身につけた立ち回りの巧さを活かし、男はライオンの群れのボスとなった。地位は男の心を満たしたが、それも長くは続かず、彼は生の椅子から早々に転げ落ちた。他の群れとの縄張り争いで負った傷が原因で、彼は十年も生きずにライオン生を終えた。
 次は河馬(カバ)として転生した。狩る側から狩られる側に移行したことは、男の心に強い負荷をかけた。前世では同種であったライオンの牙にかかった男は、大きな体を使って奮闘したものの、河馬生の幕をあっさりと閉じた。
 兎に転生した時、じわりじわりと生物の

を落とされていることに気付いた。(人間が格の高い生物かどうかは別として、)初めは肉食動物のライオン、次に大型草食動物である河馬、次に小型草食動物である兎。蛇が赤い口を開けて迫り、丸呑みにされる直前、彼は人間に戻りたいと思った。
 裁きの場に戻ると、男は「自然界に身を置いて、弱肉強食の世界で生きるのが一番だ。ただ、食われるのは嫌だから、次は強い動物にしてほしい」と兎の鳴き声で漏らした。靄は大きく頷くと、「

、次は鼠にでもしてやろう」と吐き捨て、宣言に従って彼を転生させた。

 奇妙なことに、鼠になった男は人間に飼われていた。食べ物を探して

の家を漁っていたところを子供に見つかり、「可愛い顔をしている」という理由で飼い鼠にされたのであった。子供の両親も、きちんと世話をすることを条件に特殊なペットの存在を許したようであった。黙ってケージに入れられていれば食事にありつけるというこの状況に、男は甘んじた。しかし、子供の飽きは早いものだった。次第に餌と水の頻度がまちまちになり、やがて与えられなくなった。飢えの苦しみを感じながら、男は多分の恨みと一縷の喜色を孕んだ鳴き声を残して死んでしまった。

 裁きの場で、鼠の高い声が響いている。男は、「人間なんて糞くらえだ。一度でも自分が人間だったことが恥ずかしい。あいつらは地球の癌だ!」「強い動物にしてほしいなんて贅沢は言わない。次は、人間以外の生き物にしてくれ!」と訴えた。靄はあの三日月型の空間を大きく広げ、大笑いしている様子であった。
「嫌だね。次はせめて女に刺されないようにな」

 再び人間として生を受けた男は、齢十八歳の高校生になった。一回目の

生と同様に、謎めいた雰囲気が彼には纏わり付いている。
 高校をさぼり、忍び込んだ廃屋で煙草をふかす。未成年の法律違反を咎める者はここにはいない。フィルターぎりぎりまで吸い終わると、火が消えていない煙草を窓から放り出す。生い茂った草に火が燃え移り、炎が膨れていく……。
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