人がいる

文字数 1,998文字

 展示された写真の前に、人がいる。
 私は離れた場所で、そいつが退くのを待っているが、男はずっとそこにいる。
 どんな顔して見ているんだ? と、作品より男に興味が湧いてくる。距離を保ちながら移動して、横顔を覗く。彼は、魂が抜けた顔をしていて、いや、写真を凝視していて、多分、魂は写真の中にあって、つまり、
 この写真の撮影者なのだろう、と直感的に思った。
 保っていた距離を、乱暴に詰めて、彼の隣に並んだ。
 瞬きなく写真を見続けられるのも納得の、充分な潤いを湛える目、は、動かず。
 彼は無反応で、それも想定内で、私の体は喜びに満ちていて、彼が気づいていないのではなく、私という人間に全く興味がないのだということまで手に取るように分かって、私は男をこのまま全て取り込みたいという欲求に飲まれそうになって、飲み込んで、両腕を、なんでもない風にぶらりと揺らして、
「ユートピアって感じですね」
 と、これまたなんでもない風に呟いた。
 この言葉を選んだのは、ただの勘で、彼の反応に確信を持っていたわけではなかったが、代わりに、刹那、私は神を信仰したので、きっと祈りは届きます、という啓示を聞くことができていた。なので、
 ユートピアって感じですね、という言葉が彼の脳でもう一度響いた、そんな間があってから、彼は一度だけ瞬きをして、きっと魂を体に戻して、私の方を見た。
「分かる?」と、暗い目のまま、少し首を傾げた。
 お腹の奥の方が、ぐ、と掴まれたような感じがして、顎を、くいと前に出してしまったが、それ以上は感情を表に出すことなく「少し」と返答することができた。
 私もカメラが趣味だと嘘をついた。

 もともと気になっていたのだ。
 大学の小さな展示スペースに飾られていたあの写真。美しい並木道の写真。一見、あたたかい風景なのに、どこか違和感があった。だから、もう一度見に行った。
 写真の違和感は、人が消された気配だった。
 加工で消したのかもしれないし、人を排除しようという意識が透けたのかもしれない。
 あの日、彼を理解した瞬間私は写真を理解して、写真を理解した瞬間、私は彼を理解した。
 人が排除された世界、それこそが彼のユートピアなのだ。

 では、私のユートピアは?
 無論、彼と私だけが存在し、暗い目が私だけを映す、そんな世界。

 大学構内で、何度も彼を見つけた。廊下、講義室、食堂、あらゆるところで彼の姿が目に入る。
 私はその度にシャッターを切った。嘘を真にするべく買ったカメラで。彼は人に興味がないので遠慮なく撮る。バシャバシャ撮る。
 楽しくなってきて、私は本当に趣味を持ったのだと思った。嬉しい、こんなに興味を持つこと、生まれてはじめて。自分の奥底の乾きが、シャッターを切るたびに潤っていくようで。じめじめとしていて中心が熱い。

 撮りためた写真を現像し、いそいそと家に帰る。
 部屋を写真で埋め尽くしたい。しかし、壁に飾るうちに、違和感を覚える。喉が乾く。剥がす。これじゃない。剥がす、これじゃない。剥がす、剥がす。繰り返して。
 要らなくなった写真を口内に詰め込んでいけば、嘔吐寸前、脳に電気が走って、閃きを得る。
 ユートピアだ。ユートピア。彼単体ではいけなかったのだ。

 そうと分かれば簡単である。
 講義室で待機。予想通りの時間に現れたが、いつもの席に来ない。仕方がないので私から彼の隣に行って座る。カメラを構えるが、これでは私が画角に入らないと気づいて、スマホに持ち替える。
 彼が席を移動する。インカメラを起動しながら追いかける。彼は講義室から出て行こうとする。あれ。
「もしかして逃げてる?」
 驚いて大きな声を出してしまった。すると彼が振り返ったから、急いでスマホで写真を撮る。背中からぞくぞくと波打つような感覚があって、手がぶれる。うまく画面に収まらない。がんばってよ、私。ユートピアまであとちょっとなのに。現実世界を切り取って、理想の世界を創るのだ。
 腕を掴んで「動かないで」と言う。耳元で「怖いんだよ!」と叫ばれて、私の体は固まって、でも指先だけは空気と共にびりびり震えて、シャシャシャシャシャシャッと写真が連写される。
 撮れた!
 フォルダを開けば、私と、睨みつける彼が、一枚の写真に収まっていた。なのに、やはり違う、と思う。スマホを口に詰め込んで考える。
「お前、何なの、毎日盗撮して。いくら鈍感でも気づくよ、流石に」
「ふぁあ、あんえあいおうふぉ?」
「こわ、何、手、離して」
 スマホを口から出す。「何で私に話しかけてるの? 排除しなきゃダメじゃん。ユートピアはどうしたの」
「ユートピアって、あの、俺の、理想が撮れた写真」
「人を消したでしょ」
「え、人がいないほうが構図として良いと思ったから」
「は?」
 掴んだはずの男が急に理解不能な存在へと変容する。ガシャ。
 カメラが落ちた音がして、再び私の視界には人がいなくなった。
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