ふたりのコータ

文字数 5,303文字

 買い忘れていた長ネギとラップを買って帰ると玄関先に裸の男が立っていたので、私はとっさに両腕を後ろへ回し、おぶっていた皓汰を庇ったその拍子に、買い物袋からとび出た長ネギの青い首が折れて、地面に落ちた。
 男は項垂れたまま微動だにしない。よく見ると背中に紙が貼られている。納品書だった。
「品名:ドーラ社製 廉価版自立型ヒューマノイド 一台」
 通販で買ったものってつい忘れがちだ。
 ロシアから輸入した自立型ヒューマノイドの初期ロットAS006号に私はコータと名付けた。三〇〇頁もある環境設定用の仕様書の表紙を見た時点で私は辟易し、息子の皓汰と同じ名前を、なかば投げやりに設定した。
 ともかくも名を授かったコータは理性の眼差しで私を見つめ
「はじめまして。私は苦労した。茜さんはどこにでもいるようで、ここにしかいないから」
 ぎこちない日本語で言い、抱擁を求めた。それは皓汰の父親、二番目の元夫のプロポーズの言葉とあまりに似ていて私は驚き、数年前の情景がありありと蘇った。
 働く私に代わりコータは家事全般を担当したが、雨の日に洗濯物を外干ししたり、調味料の分量を一桁間違えたりなどは日常茶飯事で、私はほとんど二児の母だった。それでもある程度まで学習が進むと、コータは皓汰の保護者をじゅうぶんつとめられるまでになった。皓汰も「パパ!」と喜んで、すぐに私より懐いた。
 私が仕事から帰ると、皓汰は寝かしつけられた後だ。今日はこんな新しい言葉をしゃべった、掴まらず立ち上がって五歩も歩いたなど、猛スピードで成長というか進化する皓汰の一日を、コータは私に聞かせてくれるのみならず、眼球内臓カメラで撮影した映像を都合よい長さに編集して見せてくれた。私はそのたび感謝の気持ちでいっぱいになり、コータの細くて毛深い腕に絡まって眠る。CPUが放出する熱で湯たんぽみたいに温かい。
 二人と一台から、三人に。私は皓汰には家族というものを与えてやりたかった。二番目の夫と別れたときからわだかまっていた感情は、体のいいエゴでしかないと分かっていながら、すでに手がつけられないほど膨張していた。
 ヒューマノイドと人間の婚姻を認めている国はまだない。そういう請願じたいが稀なのだから仕方がない。しかしパートナーシップ制度というかたちで認める自治体は日本にもわずかだが存在した。ネット上の未整理な情報をかき集めるうち、ここならと思える町が見つかった。
 皓汰が三歳になる年の二月、私たちはそこに移住した。徳島県南部の海沿いにあるKという町で、リフォーム済みの古い一軒家を借りた。引っ越しついでに私はコータにかんする膨大な仕様書やら保証書やらを古紙回収に出した。彼を人間から隔てていたそれらのものは、三ロールのトイレットペーパーになった。
 生活感を剥ぎとられたマンションの部屋で、私が作った夕食を皓汰と二人で食べる。コータはまだ封じていない箱の中身―中学の授業で作った手回しラジオとか古い映画のパンフレットとかもう何年も被っていないニット帽とか、なんとなく捨てずにいたものたち―を、ひとつずつ拾いあげて見分している。その背中は考古学者のようにも見えたし、ただいじけた人にも見えた。皓汰が呼んでも、珍しく返事をしなかった。
 パートナーシップ宣誓は無事受領されたものの、徳島に縁故のない私たちは、三人だけでなんとかやっていく必要があった。
 まず何より仕事を見つけたい。コータが世話してくれるし強いて通わせる必要はないが、皓汰を幼稚園に入れるかどうかも悩みどころだ。そう口では言いながら、二月の凍てつく海風も手伝って、三人で石油ストーブに当たっているだけの一日が過ぎていく。
「うちらさっきから、あんたのこと話しよったんじぇ」
 共同物干しで声をかけてきたのは、四〇代くらいの二人組の女性で、うち一人の髪型はスポーツ刈りだった。私が目を白黒させていると長髪のもう一人がタレントの誰かにそっくりな声で
「あんたのコレ、ロボットなんやってなあ。しかもえらい男前やって」
 覚悟はできていたが、噂はこぼれた水のように広がっていく。緊張するとしゃべりすぎる癖が私にはあり、仕事のことや皓汰の幼稚園のことまで、しゃべればしゃべるほどブレーキが効かない。
「できれば女性の少ない職場がいいんです」
「青島さんところの旦那に、紹介してもらうんはどう?」
「そんなら春子んとこが給仕さん探しよった。あっちのがええじょ」
 トントン拍子で進む会話に内心慌てていると
「べつに気にいらな断ったらよい。なに、この辺じゃ誰も気にせんから」
 カッと口を開けて笑い、くたびれた衣類の山を抱えて、さっきまでのおしゃべりが嘘みたいにさっさと帰ってしまう。引力のようなものを感じて私は彼女らについていきそうになって、我に返る。揺れている他人の洗濯物を見て、私は突如コータの身体を強く欲した。産前よりもむしろ萎んだ胸に痛いような張りを感じ、足腰に力がみなぎってきたから、一本道をジグザグに歩いて帰った。
 ネットで職探しを始めた私は、こんなにのんびり皓汰と一緒にいられるのは何ヶ月ぶりか分からないし、この先もいつになるか分からない。皓汰はあきらかに平均より多くの語彙を操り、それは赤ちゃん言葉を使ったりしないコータの影響と思われた。
 それと最近の皓汰は、なぜか錦鯉が大のお気に入りで、ほうっておくといつまでも図鑑や動画を眺めている。指さしながらコータに話しかけ「これ、大正三色。こっちが昭和三色」「この派手なのは山吹黄金」「全体的に群青色なのが紺青浅黄で、それを品種改良したのが、鳴門浅黄。白い覆輪が特にきれい。ぼくはこれが好き」コータは錦鯉の微妙な模様の違いを分かっているのか。すまし顔は完全に分かっているようにもぜんぜん分かっていないようにも見えたが「皓汰。命あるものは平等にきれいです」と言っているのできっと分かっていなかった。
 凪いだ時間が過ぎ、四月になった。
 三〇代前半に見える日に焼けた青年が玄関口に立って、どうも、水木ですと名乗った。はあ、水木さん。同じ名字の男子が高校のクラスにいた、という記憶はその瞬間まで忘れていたけど急に思い出した。
 彼は挨拶もそこそこに、ざらついた紙の印刷物を渡すなり本題に移る。
「汽水連に加入しませんか。というお誘いです。みんな歓迎するって言ってます」
 標準語か、久し振りに聞くな、と私は思う。聞けば神奈川からの移住者らしく、出身は大磯と言ったか、大船だったか。驚いたのは、水木さんはコータに会って話したことがあるという。サーフスポット近くの松原に一人でいたのを、外国人だ、となんとなく珍しい気がして遠くから見ていたら、コータのほうから話しかけて来た。
「ちょっと話して、ああ最近移住してきた西さんとこの、って気づいて」
 コータが一人で出歩いているとは知らなかった。そのコータは私の横にいて水木さんと会釈を交わしているから、顔見知りというのは本当らしい。私には「皓汰、魚と昼寝をしている」と耳打ちした。私はこの水木さんともっと話してみたいという気がおこったので、和室にあがってもらいハーブ茶を淹れた。
「もうぜんぜん、お気遣いなく」
 言いながらも早々に茶碗に口をつけている水木さんは、胸までありそうな髪を今は後ろでしばっている。コータが「私も一服いれましょう」と言って、生物燃料の詰まったカプセルを太股の付け根や頸のくぼみにはめ込むのを、興味深そうに観察してからうんうん一人でうなずいて「なるほどなあ」とハーブ茶をすすった。レモングラスの香りで私は、巣ごもりで鈍った頭が冴えてきた。
「そういえば汽水連ってなんですか」
 私は言いながらさっき渡された紙を畳の上で心もち水木さんの側に寄せた。それをちらちら見ながら彼が説明をはじめる。汽水連は、江戸時代から幾度か名前を変えながらこの町に伝わる互助組織で、主な仕事は地域の見回りや農業漁業にかかわる連携、家の修理、などなど。ようするに生活に根ざしたあれこれを、困ったときにお互いに助けあうための組合で、入るも入らないも個人の自由。
 私の顔色が徐々に曇るのを察したのか、水木さんが念を押すように言う。
「面倒くさいって思いますよね。でもそんなことないです。ぜんぜんないっすよ」
 襖の向こうで音がした。皓汰がトイレにむかう足音が、冷たい廊下にぺちぺちぺちと響く。
 私はコータとの関係を公的に認めてほしくて移住までしたわりに、私もその公の一部である、という意識をてんで持たなかった。そのことを一瞬恥じてから、私がいまここにいる動機は本当はなんだったのか、思い出そうとして私は、座布団の上で身体を四角く折り曲げた。コータが汽水連について的外れな質問をして、水木さんは適当に受け流している。
 べつに強く勧誘する気もないらしく、私が返事しないでいるのを見ると、水木さんはじゃあま、そろそろ…と言ってのっそり立ち上がる。私がやや遅れて玄関へ行くと水木さんはもう外の自転車に跨がって、コータと二三言葉を交わして帰っていった。
「今のだれ?」
「パパのお友達」
「男なのに髪の毛しばってて、変だよね?」
 私は皓汰を抱き上げて優しく揺さぶった。くりくりした目が眠気ですぐにとろんとしてくる。
 私の生活は、三年前に産んだ皓汰と、一年半前に出会ったコータがその大部分を占めている。二人がいなかったころの私を私はどんどん忘れて、誰も覚えてなどいない。私はコータと家族になりたかったのは、妻としてではなく、母としてだった、ということはないだろうか。しかしそれでコータに欲情していたのでは、私はとんでもない間違いを犯している。
「茜。でかけたこと黙っててごめんなさい」
 夜、寝室の天井に向かってコータが言った。
「いいよ。あの人のこと、よく分からないけど、どんな人?」
「男なのにポニーテールの変な人だよ」
「何話してたの? 水木さんと二人で」
「私のボディ材が海水で錆びない方法について」
「興味あるんだね、サーフィン」
「海は好きだけど、行ってもとくにやることがないから」
***
 最初は水が変わったせいだと思った。
 水質のよい土地では肌や髪も調子がよい、という経験はこれまでにも何度かある。しかしその程度の違いでは説明できないところまで、私の若返りは進行していた。
 海から帰ったコータと皓汰が風呂場でじゃれあっている。皓汰は小学校に上がって同い年の友達ができた今も、コータと遊ぶのが一番好きだった。私は袖のないピンストライプのワンピースを着て、二人のためにふかふかのバスタオルを用意している。脱衣場の鏡に映ったその姿は、どう考えても二十歳そこそこにしか見えない。
 K町に引っ越して半年ほど経ったころ、私はようやく働き口を見つけた。水木さんと同じ製薬工場の事務社員だった。同僚は水木さんくらいの歳の人がほとんどで、私とだって同年代なのに、やたらと若い子扱いされるのは女性社員が少ないせいだと、最初は思っていた。
 水木さんはあいかわらず掴みどころがない。サーファーとしての彼を私は何度も見たが、誰よりも果敢に波を征服しにいく猛々しさは、目を細めて事務所のパソコン叩いているこの人とどうやっても結びつかない。社外メールで慇懃な言葉遣いをしていたりすると、嘘つけ!という視線を私が送るのを、涼しい顔して受け流す。でもその水木さんにも、なんか最近、若作り?と言われてしまい、私は認めないわけにいかなくなった。
 私の肉体は、徐々に年齢を遡っている。
 バスタオルを腰に巻いただけのコータが和室に寝転ぶ横で、すっぽんぽんの皓汰の髪を揉むように拭いてやる。
「伸びたねー。そろそろ床屋さん連れてってもらいな」
「すだちのサイダーってまだあった?」
「あるよ。冷蔵庫の、下の引き出しんとこ」
「よっしゃ!」
「茜、皓汰は水木さんに負けないサーファーになる」
「へー。そうなの?」
 皓汰は得意そうに笑ったが、五分後、服も着ずに眠った姿はたまらなく小さい。タオルケットを掛けて、座布団を半分に折って枕代わりに頭の下へ差し入れる。
「最近は鯉、鯉って言わないね」
「皓汰、今は海に夢中なんだ。鯉は海には棲めないからね」
 自分では説得力があるつもりなのがおかしかった。私は喉を鳴らしてサイダーを飲んで、その勢いのまま
「…私、年をとらなくなっちゃった」
 出かけたげっぷを飲みこんで言った。
 バスタオルにくるまれたままのコータは、きんぴかの笑みを浮かべて私を見ている。
「命あるものは平等にきれいです。でも茜は特別だ」
 やっぱりコータだったのだ。でもまあ、べつにいいか、と思った。私は母でも妻でもなく、コータの妹になり、娘になる。皓汰と同い年になるときが来るというのも、考えてみれば面白そうだった。でも私は
「ひとつお願いがあって。この子には、そういった細工はしないでほしいのだけど?」
「もちろん。皓汰はどんどん歳をとって、素晴らしい波乗りになる」
 コータはそう答えて、全身を覆っていた防水用の薄い皮膜を、脱皮するように剥がしはじめる。
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