第1話

文字数 2,000文字

 人間の生活は大抵の場合、いくつものまとまりからなっている。例えば朝と夜、一年や一ヶ月、春夏秋冬、より身近なものでいえば、食事の時間、入浴時間、仕事に睡眠など、挙げればきりがないだろう。それら時間のまとまりは、生活にリズムを与えてくれる。心地よいリズムで過ごせれば健康だといえるだろうし、反対にデタラメなリズムを刻んでしまえば心身共に疲れてしまう。
 ところでどうしてこんな話を持ち出したのか、それにはとある原因と発見があったからだ。

 この夏、ぼくは落ち込んでいた。大学の頃から付き合っていた千穂、卒業後数年間の遠距離恋愛を経て同棲を始めた彼女との関係に終止符が打たれたのだ。五年近くの同棲の終わりはあまりに唐突かつ一方的だった。
 六畳一間がやけにだだっ広く感じられた。自分の呼吸さえうるさく聞こえた。彼女が出ていってから約二週間後、メッセージが届いた。
「ずっとがまんしてきたけど、わたし、煙草の臭いが大っ嫌いなの」
 それならそうと、どうして伝えてくれなかったのだろう? 千穂が嫌だというのなら、禁煙だってできたかもしれない。少なくとも彼女に配慮し、ベランダで喫煙するくらいのことはしたと思う。

 百害あって一理なし、しばしばそういわれる煙草に手を出したのは、就職してしばらく経った頃のこと。直属の上司に勧められたのだ。初めは嫌々吸っていたが、気づけば病みつきになっていた。朝起きて一本、家を出る前に一本、仕事に取りかかる前に一本、昼休みに一本、上司が帰る前に共に一本、仕事を終えて一本、家に着いて一本、夕食後に一本、合計八本の煙草が一日で灰になった。これもまた、ぼくにとってはそれなりに貴重なリズムだったのだ。

 千穂と同棲するようになったきっかけ、それはコロナ禍を受けて会社が採用したリモートワークだった。方針としてほとんど完全なリモートワークへの移行を目指した会社側から、国内であれば基本的に好きな場所に住んでいいとのお墨つきをもらったのだ。迷わず実家近くのアパートを借り、そこで千穂と始めた同棲。そう遠くないうちに結婚することも視野に入れていた。
 だが、ことはそう上手く運ばなかった。新たに取り入れられたリモートワークという生活スタイルに、なかなか馴染めなかったのだ。
 おそらくぼくは、他の人よりいくらかリズムにこだわる

なのだろう。一日中狭いアパートの中にいると、どうにも仕事に集中できなかった。要するに、生活のリズムが単調過ぎるような気がしたのだ。それに加えて千穂も千穂で働いている。お互いのリズムを調和させるのは簡単でなかった。

 ぼくが思うに、リズムとはまとまりと間隔の関係によって成り立っている。だが、リモートワークは生活のまとまりを曖昧にし、同時に間隔、言い換えれば隙間をふさいでしまった(もっとも、リモートワークという労働形態が悪い訳では決してなく、単にぼくの方が新しいスタイルに適応できなかっただけの話だが)。喫煙量が著しく増えたのも、この頃からだと記憶している。

 半年前まで寝食を共にした千穂、彼女の面影は今やほとんど残っていない。冷えきった室内に立ち上る煙草の煙がやけに染みる。

 千穂が残していった数少ない形跡、そのひとつが窓際の鉢植えだ。同棲を始めて間もない頃、千穂が持ち帰ってきた名前も知らない緑色。艶めく葉っぱを眺める度に、様々な思い出がよみがえってくる。
 そんな観葉植物は、ぼくの気持ちになどお構いなしといった調子でどんどん茎を伸ばし葉を広げていく。

「いつの間にこんなに成長するんだろうね」
 しばしばそう言っていた千穂。

 それはつい昨日のことだった。業務を終え、口に咥えた煙草に火をつけようとしたその瞬間、背後でぐぐぐ、と妙な音がした。振り返った先で目にした光景、それは例の観葉植物が大きく伸びをしている姿だった。
 くつろぐ様子を見られたのが恥ずかしかったのか、観葉植物は葉脈を使って微かに笑みを浮かべた。疲れているのだろうか? 初めはもちろん目を疑った。だが、部屋とキッチンスペースを区切るカーテンの隙間から何度か覗くと、確かに動いているのだ。それも、腕組みするようにふたつの葉っぱを絡めたり、足を揉みほぐすように葉っぱで茎の根本を撫でたり。それに加えて可愛いことに、ぼくの視線を感じ取ると、すぐまた微動だにしなくなる。やりとりはまるで「だるまさんが転んだ」のようだった。

 千穂、きみが残してくれたこの観葉植物、確かに生きているみたいだよ。いつ育っているのかもおおかた分かった。どうやらぼくたち人間の生活リズム、その隙間を狙って、裏で拍子を取るように成長しているみたいだ。それにちゃんと意識もあって、ユーモアさえ持ち合わせているらしい。この子の成長に悪いかもしれないから、ぼくは昨日で煙草をやめた。
 嘘だと思うだろう? けれど本当だ。だからどうか、確かめにきてくれよ。
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