第1話

文字数 1,112文字

 「私の机の右側に」

 私の机の上は乱雑だ。趣味の手芸に使う道具や、筆記用具、それからなんとなく捨てられない書類たち。そんな物たちに溢れた狭いスペースで、パソコン作業もしている。そして、場所がないので、机の下に設置してある棚が定位置になっているそれ。それ、は「聖書」というもの。
 旧約聖書の創世記から始まり、マラキ書を超えて、新約聖書へと入る。福音書、書簡を経て黙示録まで。要するに私はプロテスタントキリスト教の信者なので、その薄いとは言えない書物をいつも机の右側に置いてある。ただし机の上ではなく、机の下にある棚の上に。もしかしたら微妙な位置なのかもしれないけれど、とにかくそこにいつもある。
 初めてこの聖書を手にしたのは、学生時代だった。友達に誘われて「キリスト者学生会」というサークルに参加したのがキッカケ。でもそれ以前に、コーランも邦訳だけれど読んでいた。コーランに出てくる、アブラハムがイサクを犠牲として捧げようとする話が、聖書にも出てきた。私はそこに神の普遍性と不変性を感じたのかも知れない。とにかく私は、21歳のクリスマスにプロテスタント教会で洗礼を受けた。
 信仰生活は波風なく進むものと思い込んでいた。けれど、そんなに甘いものでもなかった。ちょっとしたトラブルから私は精神的な病を発症した。これは辛い。統合失調症という病気で、珍しい病気ではないけれど辛く苦しい。そこから22年私はこの病を抱えている。中年になった今も。何度となく死のうとしたけれど、死ねなかった。教会に行けない日曜日もあった。連続して行けない時期もあった。私の信仰は、そんなに強いものではない。教会の人々との関係に苦しんだり。なぜか分からないけれど、礼拝堂にじっと座っているのが辛いこともあった。私の信仰は弱い。
 でもそんな私も聖書だけは読んでいた。信仰を与えられて23年目になる。私は変わった。良い方向にも悪い方向にも、うつろいゆく人間だ。でも聖書を読むと、信仰の初めに読んだあの言葉たちが、今もそこに変わらず息づいている。私の好きな言葉がある。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」、ペテロがイエスを否むことを予告された、あの時のイエスの言葉だ。この言葉も変わらない。私はいつも、ペトロのために祈ったイエスが、私のためにも祈ってくれていると思っている。「信仰だけはなくさないように」と。
 社会は変わる、人も変わる。でも私の愛するこの聖書は、神が変わることのない方であるように、昨日も今日も変わらない。私が変わっても聖書は変わらない。病を抱えつつ、感謝する。私の机の下にある棚の上。そこにずっとある、私の聖書に。
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