第1話
文字数 1,907文字
「ねぇ、ゆうこちゃんは春が来たら何したい?」
自宅で仕事に取りかかろうとノートパソコンを開いた瞬間、姉から電話がかかってきた。
「えー、何だろうな。」
面倒くさそうなトーンは出していないつもりなのに、相手の声の調子に人一番敏感な姉は言う。
「ごめんね、忙しいのに。もし、忙しければいいの。」
「大丈夫だよ。」
「ごめんね、じゃあ、できるだけまとめて話すね。」
こうして姉が、電話で気を遣うのは理由がある。ずっと昔、私がもっと余裕が無かった頃、更には、姉の病気への理解が無かった頃、一時期頻繁にかかってきた姉からの電話に対し、早く切りたいオーラを散々出していたからだ。
だから、私はパソコンの蓋を静かに閉じた。
自分に言い聞かせる。
切り替えろ自分。ここからはお姉ちゃんのための時間だ。
「大丈夫だよー。春がどうしたの?」
つとめてのんびりと訊く。
「あのね、今日病院へ行った時、看護師さんが春になったら何するか、って話していて。サキタさんは、あっ、サキタさんっていうのはね、」
「前に聞いた事あるよ。若いけどしっかりした看護師さんでしょ。」
「そうそう。サキタさんとは時々お喋りするの。サキタさんは、山登りしたいんだって。」
「へー、それは良いね。屋外なら安心だしね。」
「そうなの。それで、蛭田さんは何したいですか、って訊かれたんだけど、とっさに答えられなくて。適当に、映画観に行きたいです、言ったの。コロナなのに映画なんて、常識無い人だと思われたかなぁ。」
「そんな事ないよ。映画なら私も先月行ったよ。混んでなければ問題ないよ。」
「そっか。じゃあ、変じゃなかったよね。でもね、何かそういう楽しみがあると頑張れるかな、って思って。ゆうこちゃんは、春になったら何したい?」
「うーん、そうだなぁ。ピクニックとかは?サンドイッチとか持ってさ。あ、昭和記念公園行こうよ。ヒロキも誘うから。」
「あ、それ、すごいいいね。お正月にヒロキさんに会えなかったから、お母さんもきっと喜ぶと思う。」
年始は毎年夫婦で、実家に暮らす母と姉に会いに行くのが恒例だ。毎年母と姉は楽しみにしてくれているのだが、コロナ禍で今年は遠慮した。
姉が発病して20年。私も母も慣れてはいるものの、母は歳のせいもあり、最近は疲れた顔をする事が増えた。
春になると姉は毎年不安定になる。精神の病いは、そういう季節の変わり目に影響を受ける事があるらしい。3年前は、春先から数ヶ月入院した。
あの時、5年ぶりの入院に、「本当は入院したくないの」と電話越しに泣いた姉。「入院してもらわないと限界よ」と力なく呟いた母。
「春が来たら何がしたい?」という、たわいもない問いは、まもなく訪れる春を無事乗り切れるようにという、姉の想いが込められているのかもしれない。
私は明るい声を出す。
「ピクニックの時はさ、デパ地下でなんか美味しいもの買っていくよ。お姉ちゃん何が良い?」
「うーん、なんだろう。ごめんね、ちょっと今思いつかなくて。あ、でもこの間買ってきてくれたアップルパイ美味しかった。でも、あれ高いんだよね。」
「オッケー、アップルパイね。いいよ、覚えておく。それ以外はさ、またその時考えようね。」
「うん、ありがとう。ゆうこちゃんは最近お仕事忙しいの?身体大丈夫?」
「うん、まあまあかな。今は仕事あるだけありがたいよね。身体は調子よいよ。風邪もひいてないし。そういえば、散歩続いてるの?」
「散歩はね、少しサボっちゃってて。先週は具合悪くてずっと寝てたの。実は昨日、ようやく起きれたの。」
「そっか。調子良くなってよかったね。」
「うん。」
姉が寝込んでいる事は、母からのメールで聞いていた。「今回は長いのよ。夜に起き出してガタガタ音立てるから眠れなくて、、」と母はボヤいていた。ようやく起きれたんだ。母もホッとしているだろう。
そのまま15分くらいおしゃべりして、電話を切った。
お姉ちゃん、今日は調子良さそうだったな。
ピクニックかぁ。
大丈夫だよ、お姉ちゃん。きっと行けるよ。今年こそ、一緒に桜見よう。
秋にコロナが落ち着いたら、一泊旅行だってできる。
冬には、前にヒロキが連れて行ってくれた牡蠣、また食べに行こうね。
今年の大晦日は皆でTVで紅白観よう。
あぁ、私は。
私は旅したいな。今年は無理でも、来年の春は、また一人旅できるかな。
きっと、できる。
春に来たら。いや、これまでだってこれからも。良い事、楽しい事、たくさんある。
人生って、ちゃんとバランスが取れるように、上手くできてる、って誰か言ってた。しんどい事がある人には、良い事もたくさん起きるんだよ。
ねぇ、お姉ちゃん。
さて、仕事だ。
ノートパソコンを開き、私は顔をあげた。
おわり
自宅で仕事に取りかかろうとノートパソコンを開いた瞬間、姉から電話がかかってきた。
「えー、何だろうな。」
面倒くさそうなトーンは出していないつもりなのに、相手の声の調子に人一番敏感な姉は言う。
「ごめんね、忙しいのに。もし、忙しければいいの。」
「大丈夫だよ。」
「ごめんね、じゃあ、できるだけまとめて話すね。」
こうして姉が、電話で気を遣うのは理由がある。ずっと昔、私がもっと余裕が無かった頃、更には、姉の病気への理解が無かった頃、一時期頻繁にかかってきた姉からの電話に対し、早く切りたいオーラを散々出していたからだ。
だから、私はパソコンの蓋を静かに閉じた。
自分に言い聞かせる。
切り替えろ自分。ここからはお姉ちゃんのための時間だ。
「大丈夫だよー。春がどうしたの?」
つとめてのんびりと訊く。
「あのね、今日病院へ行った時、看護師さんが春になったら何するか、って話していて。サキタさんは、あっ、サキタさんっていうのはね、」
「前に聞いた事あるよ。若いけどしっかりした看護師さんでしょ。」
「そうそう。サキタさんとは時々お喋りするの。サキタさんは、山登りしたいんだって。」
「へー、それは良いね。屋外なら安心だしね。」
「そうなの。それで、蛭田さんは何したいですか、って訊かれたんだけど、とっさに答えられなくて。適当に、映画観に行きたいです、言ったの。コロナなのに映画なんて、常識無い人だと思われたかなぁ。」
「そんな事ないよ。映画なら私も先月行ったよ。混んでなければ問題ないよ。」
「そっか。じゃあ、変じゃなかったよね。でもね、何かそういう楽しみがあると頑張れるかな、って思って。ゆうこちゃんは、春になったら何したい?」
「うーん、そうだなぁ。ピクニックとかは?サンドイッチとか持ってさ。あ、昭和記念公園行こうよ。ヒロキも誘うから。」
「あ、それ、すごいいいね。お正月にヒロキさんに会えなかったから、お母さんもきっと喜ぶと思う。」
年始は毎年夫婦で、実家に暮らす母と姉に会いに行くのが恒例だ。毎年母と姉は楽しみにしてくれているのだが、コロナ禍で今年は遠慮した。
姉が発病して20年。私も母も慣れてはいるものの、母は歳のせいもあり、最近は疲れた顔をする事が増えた。
春になると姉は毎年不安定になる。精神の病いは、そういう季節の変わり目に影響を受ける事があるらしい。3年前は、春先から数ヶ月入院した。
あの時、5年ぶりの入院に、「本当は入院したくないの」と電話越しに泣いた姉。「入院してもらわないと限界よ」と力なく呟いた母。
「春が来たら何がしたい?」という、たわいもない問いは、まもなく訪れる春を無事乗り切れるようにという、姉の想いが込められているのかもしれない。
私は明るい声を出す。
「ピクニックの時はさ、デパ地下でなんか美味しいもの買っていくよ。お姉ちゃん何が良い?」
「うーん、なんだろう。ごめんね、ちょっと今思いつかなくて。あ、でもこの間買ってきてくれたアップルパイ美味しかった。でも、あれ高いんだよね。」
「オッケー、アップルパイね。いいよ、覚えておく。それ以外はさ、またその時考えようね。」
「うん、ありがとう。ゆうこちゃんは最近お仕事忙しいの?身体大丈夫?」
「うん、まあまあかな。今は仕事あるだけありがたいよね。身体は調子よいよ。風邪もひいてないし。そういえば、散歩続いてるの?」
「散歩はね、少しサボっちゃってて。先週は具合悪くてずっと寝てたの。実は昨日、ようやく起きれたの。」
「そっか。調子良くなってよかったね。」
「うん。」
姉が寝込んでいる事は、母からのメールで聞いていた。「今回は長いのよ。夜に起き出してガタガタ音立てるから眠れなくて、、」と母はボヤいていた。ようやく起きれたんだ。母もホッとしているだろう。
そのまま15分くらいおしゃべりして、電話を切った。
お姉ちゃん、今日は調子良さそうだったな。
ピクニックかぁ。
大丈夫だよ、お姉ちゃん。きっと行けるよ。今年こそ、一緒に桜見よう。
秋にコロナが落ち着いたら、一泊旅行だってできる。
冬には、前にヒロキが連れて行ってくれた牡蠣、また食べに行こうね。
今年の大晦日は皆でTVで紅白観よう。
あぁ、私は。
私は旅したいな。今年は無理でも、来年の春は、また一人旅できるかな。
きっと、できる。
春に来たら。いや、これまでだってこれからも。良い事、楽しい事、たくさんある。
人生って、ちゃんとバランスが取れるように、上手くできてる、って誰か言ってた。しんどい事がある人には、良い事もたくさん起きるんだよ。
ねぇ、お姉ちゃん。
さて、仕事だ。
ノートパソコンを開き、私は顔をあげた。
おわり