第1話

文字数 5,945文字

1.榊原幸子の日記

1941年4月11日

お姉さまはすごいお方だ。私はいつだって思っている。さすがは華族出身と言えばいいのか、動作の一つ一つに気品があふれていて、私みたいなぽっと出の新興の商家上がりの娘とは大違いだ。格が違うとはまさに、お姉さまと私のような人間の間に使うのがふさわしいのだろう。そこまで考え、私はぶんぶんと頭を振る。いけないいけない、そんなことを考えていては。お姉さまはこんな私の僻みにも似た考えなんて、簡単に見抜かれてしまう。そして悲しそうな微笑みを浮かべながら決まって言うのだ。

「それは違いますよ、幸子さん」

と。

「かつて諭吉は言いました。『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり』。人は努力次第で何者にもなれるのです。ですからそんな悲しいことをおっしゃらないで」

そして私は赤面するしかない。いつだってそうだ。お姉さまは私にひどく優しい。私ごときが妹を名乗るのが申し訳なるぐらいに。お姉さまは学園でも凛と咲く1輪の百合のごとく一際人気のあるお方だ。料理、裁縫、音楽、何だって出来て、お姉さまの妹になるためなら大枚をはたいても惜しくはない生徒などざらにいるだろうに、それでもお姉さまは私を妹に選んでくれている。

私はそんなお姉さまに心底憧れてて、敬愛していて、そしてほんのちょっぴり、苦手だ。

1941年5月11日
お姉さまはすごいお方だ。お姉さまは美貌にだって優れている。その英知にあふれた瞳はくりくりとしていて麗しく、鼻梁もすっと通っている。桜色の唇はいつだってぷりぷりとみずみずしく、烏の濡羽色のごとき御髪はさながら絹糸のごとく細く艶めいている。

お姉さまは美貌に優れるばかりではない。お姉さまは多芸に秀でている。オルガンを弾けばあのちょび髭の外国人教師よりも見事な音色を奏で、裁縫の針をとれば実に見事な刺繡を瞬く間に縫い上げる。薙刀をとらせればそれこそ天下無双で、この間なんかも私たちを女学生と侮った酔いどれ三人を瞬く間にのしていた。それは最近流行りのトーキー映画のごとく。

だが何といってもお姉さまの秀でたるところはその頭脳だろう。古今東西の和書、洋書に通じ、その内容をわかりやすくかみ砕いて教えてくださる。その教え方はこの学園のどの先生方よりも上手なのではと思わせるほどで、正直お姉さまが全科目で教鞭をお取りになればいいのにと思う。そうすればもう、誰も私たちのことを東京女学園に行けなかった落ちこぼれと笑うことはないだろう。

とは思うものの、お姉さまはそのようなことをご承知になられることはないだろう。お姉さまは人前で知識をひけらかすことを嫌う、謙虚なお方なのだ。それに第一、毎夜ごとのお姉さまの個人授業を楽しみにしている私がいる。二人きりの寝室で、お姉さまの熱を感じながら受ける授業を失うのは、今の私にはいささか耐え難い。

1941年6月18日
お姉さまはすごいお方だ。古今東西の学術本に通じているばかりではなく、小説にも造詣が深くていらっしゃるとは。「だって学問ばかりじゃつまらないじゃない」、そうお姉さまは言うけれど、あれだけの学識を持たれながら小説にまで通じていらっしゃるのはすごいことだと思う。それに今日の個人授業と言ったら!まさか鴎外の「舞姫」にそのような読み方があるだなんて夢にも思わなかった。

お姉さまは言っていた。

「鴎外も悪くないけれど、私は鴎外よりも漱石の方が好きね」と。

「特に『吾輩は猫である』。猫を主人公に据えるという斬新な着眼点もさることながら、あの皮肉たっぷりな切れ味鋭い語り口が、私、堪らなく好きなの」

そうコロコロと笑うお姉さまがあまりに可愛らしく見えて、しばらく見とれてしまったのは私だけの秘密だ。

1941年7月1日
お姉さまはすごいお方だ。私どものような女学生と言ったら世俗に疎いのが常だが、まさかあれほどまでに世俗に通じていらっしゃるなんて。「偶には外に出ないとだめよ」と、今日はお姉さまに東京観光に連れ出していただいたのだ。

お昼ごろ女学院を出た私たちは、まず資生堂パーラーでお昼ご飯を食べた。資生堂パーラーとは銀座にある洋食屋のことで、そこで食べたオムライスの柔らかさたるや!ほっぺが落ちるかと思ったほどだ。思わず両手で頬を抑えた私に、「そんなことしなくても、ほっぺは落ちないわ」と笑ってくださったお姉さまの笑顔がとても印象的だった。

また私は恥ずかしながら、そこで初めてパフェなるものを食べた。パフェとはアイスクリームや沢山のフルーツの乗った洋菓子のことで、とても冷たく、そして大きかった。さすがに一人では食べきれなかったので、お姉さまと半分こして食べた。お姉さまと食べるパフェは、何倍も甘露に感じた。

その後はお姉さまとトーキー映画を見た。正直私にはその映画はあまり面白くなかったけれど、お姉さまが楽しそうにしていたから私は満足だ。

浅草の雷門も見た。噂に聞くよりも大きくって、人も多かった。人ごみに酔ってしまった私の額に「大丈夫?」とあててくださった手の柔らかかったこと!やはりお姉さまはお嬢様なのだと思った。

その後は牛鍋を食べて帰った。「まるで明治の女学生ね。」そう言ってて口に手を当てて微笑むお姉さまはやっぱり美しかった。

1941年7月28日
お姉さまはすごいお方だ。昨今の国際情勢についても通じていらっしゃる。

この間など複雑怪奇なる欧州情勢についてわかりやすく解説してくださった上、今後の欧州情勢の展開の予測まで教えてくださった。

お姉さまによると、ナチスのヒトラーはこれまで快進撃を続けてきてはいるものの、イギリスを陥落させることは困難で、おそらくは攻撃目標をソ連に変えることになると。そしてアメリカの支援を受けたソ連を落とすことはさすがのドイツにも不可能で、何年後かはわからないが物量差の前にドイツは敗北するとの見解を示してくださった。そして昨今の我が国の国策を見るに、我が国はアメリカと戦争になるかもしれないとも。

私は正直ゾッとする思いがした。お姉さまのおっしゃることをすべて理解できたとは思わない。だがその予想がもし正しいのなら皇国はドイツ抜きの単独でアメリカ、ソ連という二大国を相手にすることになる。支那事変も片付いていないこの情勢下でだ。我が国が負けるとは思わないが、相当厳しい状況にはなるだろう。どうすればいいのかとお姉さまに聞いた。お姉さまはただ微笑むばかりで答えてくださらなかった。

お姉さまは言っていた。そこから先はあなた自身で考えることよと。殿方は女が学問なんてと言うけれど、私はそうは思わない。いつか女性にも学が必要な時代が来ると。だからあなたはどんどん学んでいきなさいと二冊の本をくださった。マルクスの資本論と、J・S・ミルの自由論だった。

流石の私も知っている。この二冊が禁書にあたることを。誰かに見つかればただではすまい。でもお姉さまからの贈り物だ。大切にすることにした。

その晩届いた号外を見て、お姉さまがお顔を真っ青にされているのが印象的だった。号外には「皇軍、南部仏印に進駐」と書かれていた。

1941年9月8日
お姉さまはすごいお方だ。ただ最近のお姉さまは少し何かに焦っているように見える。文通の量が明らかに増えているし、夜遅くまで電話で何事かを話されている姿もたびたび見かけるようになった。私としてはともにお過ごしできる時間が減っていることが少し寂しい。また、鴎外や漱石についてのご意見を伺いたかったのに。

でも私に、お姉さまの邪魔をすることなんてできない。それに夜の特別授業で沢山お話しできるから私は満足だ。

でも少し、ミルはまだ私には難しい。

1941年10月12日
お姉さまはすごいお方だ。それだけに最近のお姉さまの様子は気がかりだ。ボーっと物思いにふけられるお時間が増えておられる一方で、文通やお電話の量はますます増え、とてもお忙しそうにされている。お肌も少し、荒れていらっしゃるようだ。

夜の特別授業もこれからしばらくはできなくなると言われてしまった。その代わりに私のまとめたノートを見てもいいからと。お姉さまの努力の結晶であるノートを拝見できるのは素直に嬉しい。だけど本当は、お姉さまともっとお話していたかったのに。

だがそんなことを言える雰囲気ではなかった。

ああお姉さま。お姉さまは一体何をなさっているのです。

1941年11月8日
お姉さまはすごいお方だ。でも最近のお姉さまはやつれているように見える。正直、かつての輝きを間近で見ていた私としては、見ていられないほどに。

私に何かできることはありませんか、と聞いた。私、お姉さまのためなら何でもしますと。それこそ命だって捧げますと言ったら、馬鹿なことを言わないでと引っ叩かれた。すぐにはっとしたように私に謝ってくださったけれど、あそこまで感情をあらわにするお姉さまを見るのは初めてだった。

やはり、何かがおかしい。私は神様にお祈りする。神様、どうかお姉さまの苦悩の種を取り除いてくださいと。

そのためならこの命、惜しくはありません。

1941年11月30日
特高警察がお姉さまを逮捕した。私のところにも出頭命令書が来た。何かの間違いだといった。私のところに来た特攻の刑事は首を振っていった。君のお姉さまには大逆罪の容疑がかけられていると。君にも聴取したいことがあるので出頭されたしと。足元が崩れていく感覚がした。私はどうすればいいの

1941年12月1日
今日から取り調べが始まった。マルクスの資本論とミルの自由論。その二冊の禁書はお姉さまから受け取ったものだなと問い詰められた。拾ったのよと答えると、嘘をつくなと頬を張られた。女子供に手を上げるなんてこいつらには人の心がないのかと思って睨んだら、もう一度殴られた。

そんなことはまあ正直どうでもいい。お姉さまは無事なのか、お姉さまはどこにいるのかだけが気がかりだった。

酷い目に合っていないと良いと心から願った。ただ本格的に取り調べられていない私にすら平気で手を上げるケダモノどもだ。お姉さまがどんな目にあわされているかを思うと不安で不安で、その夜は一睡もできなかった。

1941年12月2日
翌日も早朝から呼び出された。私がお姉さまからどんなことを教えられたかを白状するよう迫られた。

あなたたちに教える義理はないといったら木刀で腕を力いっぱい殴られた。痛くて痛くて私は泣いた。それでもお姉さまにどんな容疑がかけられているのかを私は知らない。でも私の漏らした情報が原因でお姉さまがひどい目にあうことになったら。それに比べたら私が殴られることぐらいなんだというのだろう。

そう思って黙っていたらお腹を何度も殴られた。何度も何度も。私が気絶するまで、ずっと。

1941年12月3日
ケダモノどもは私がだんまりを決め込むとみて作戦を変えたらしい。いかにお姉さまが酷い女で私を誑かしているかということを滔々と説いてきた。

馬鹿めと言ってやった。この4月に入学して以来、お姉さまとは一年にも満たない短い付き合いでしかないけれど、お姉さまを最も身近で見てきたのがこの私だ。お姉さまがそんな女じゃないことは、この世界で一番よく私が知っている。

お姉さまを馬鹿にするなと言ったら、皇軍を女学生風情が愚弄するかと言って殴られた。どうやら今日は憲兵による取り調べだったらしい。お姉さまは一体何に関わっているのかと、ちょっと不安になった。

1941年12月4日

おねがいおねえさまをなぐるのをやめて なぐるのならわたしにして どうか おねがい

1941年12月5日

連中はまたも作戦を変えてきた。私が白状しないとみて私の隣の部屋でお姉さまを取り調べることにしたようなのだ。お姉さまの殴られる音とお姉さまの悲鳴が耳にこびりついて離れない。

私は耐えきれず全部喋ってしまった。お姉さま、ごめんなさい、お姉さま。どうか神様、この愚かな女に報いを。どうかこの私を裁いてください。どうか。どうか。

1941年12月6日
私たちの裁判が始まった。私は大逆罪の従犯で重禁錮5年の判決が下った。そんなことはどうでもいい。私で重禁錮ならお姉さまはどうなるのか。

お姉さま、お姉さまさえ無事でそれでいい。弁護士の先生からお姉さまの裁判は難航していると聞いた。私は夜通し神様に祈った。どうか神様、いらっしゃるのならどうかお姉さまをお救いくださいと。

1941年12月7日
お姉さまの裁判が確定した。判決は死刑。銃殺刑の執行は明日の朝だと。そんな。うそだ。

1941年12月8日
久々にお会いしたお姉さまは、体の見える部位のあちこちに青あざをこしらえていたけれど、それでも凛としていて美しかった。

特別に立ち合いを許された私に気づくと、お姉さまは「こんなことに巻き込んでしまって、ごめんなさいね」と謝ってくれた。謝るのは私の方だった。私が白状しなければお姉さまは死刑にならずに済んだかもしれないのに。

そう泣き崩れる私の頭を抱いてお姉さまはううんと言ってくださった。「悪いのは全部私よ」と。

私は言った。お姉さまが死ぬのなら私も舌を噛んで死にますと。お姉さまの居ないこんな世の中で生きていたくなんかありません。

お姉さまは「馬鹿なことを言わないの」と私を叱った。あなたは生きて、この国の行く末を私の分まで見届ける必要があるのだと。しっかり勉強して、私の分まで生きるのと。

私はただ子供のように泣き崩れることしかできなかった。

時間だと告げ、刑務官が腕を引っ張ろうとするのを断り、お姉さまは自分の足で銃殺台へと歩いていった。銃殺台に結わえ付けられたお姉さまは目隠しも断わり、キッとした表情でそこに立っていた。それはまるで一枚の絵画のようだった。

憲兵隊長の合図で銃殺隊がさっと銃を構える。引き金がひかれる寸前、お姉さまが私に微笑んだ気がした。私は最期まで目を離さなかった。お姉さまは最期まで、凛とされていた。

どこかからラジオの音が流れてくる。

「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前六時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり……」

爆発的な歓声が聞こえてきたのが、印象的だった。

2.それから
榊原幸子はその後東京拘置所へ、のちに熊谷臨時刑務所へ移送。模範囚であったと記録されている。

なお、榊原幸子は1945年8月15日未明の熊谷方面への米軍機による大規模空襲によって死亡。享年19歳。微笑むような顔で息絶えていたのが印象的であったと当時の医務官の記録には残されている。

まるで懐かしい誰かに会えたような、安らかな死に顔であったと。
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