蛇足

文字数 3,311文字

 この街は既に事切れている―――曇天の下で、そんな風に思った。
 玩具屋、和菓子屋、洋服屋、雑貨屋、八百屋、魚屋に肉屋。皆、シャッターを締め切っていて、まるで、霊園に立ち並ぶ墓石のようだ。人はいない。張り詰めた静寂に響く僕の足音が、なんだかとても気恥ずかしい。
 灰色の空に雨の気配はない。それはただ、苦しそうに、天蓋に圧し掛かるばかりである。風もない。およそ躍動といえるものは何もない。停滞の空、なんて言えば仰々しいけれど、なんのことはない。単なる棺の蓋である。

 僕が街を歩き回っているのには理由がある。理由、というよりむしろ要因といったほうが正確かもしれない。この彷徨は、そんなに理性的なものではないのだから。
 これは、一つの消化である。神経の消化である。
 地上はあまり清潔ではない。指折り数えてざっと三百年。僕の神経は地上の瘴気を吸い込み、膨れ、どんどんと重たくなっていった。竹の花を三度見る頃、神経の重さは夜闇さえ超越するほどになっていた。肉の内側が重みを帯びた時、僕は決まって街をさまよい歩くのだ。歩き回ることで、僕の重さは徐々に悩みへと変わる。悩み、つまりは言の葉の定型に。そして、悩みは分解され、少しずつ、少しずつ、街の虚空へと溶け出してくれる。そう。これは、一つの消化なのだ。

「まったく、たまったもんじゃないぜ」
 どこからか声がした。少年のような、少女のような、無邪気でとげとげしい声。
「そうやって、溶け出した悩みはどこへ行く?街の虚空は無限じゃない。お前みたいなのが不法投棄するから街は死ぬんだ」
 声の主は猫だった。猫は玩具屋と洋服屋の間、路地裏の入り口に置かれたごみ箱の上で丸まっていた。
「いやでも、それはおかしいよ。僕が悩みを捨てに来たのは、この街が死んでいたからだ。順序が逆だよ」
「順序?まさかお前、この世界で、時間が縦方向にしか進まないとでも思っているのか」
 ははあ、そりゃ、重くなるわけだ―――と、猫は心底退屈そうに大きな欠伸をした。
「ともあれ、ここでそんなもんを撒き散らされちゃあ、おちおち居眠りもできねえ。ここを進んだ先に辛気臭え爺がいる。お前、そいつから切符を買いな」
 そう言うと、猫はこれ以上話す気は無い、とでもいうように耳をぺたんと折り畳み、居眠りの続きを始めてしまった。ここというのは、後ろに伸びる路地裏のことだろう。
 入り口に近づくと、不愉快な匂いが鼻腔を貫いた。生ごみというにはあまりに暗く、黴というにはあまりに苦い。髄が拒否するこの匂いは、どうやら死臭であるらしい。路地裏には霧が立ち込めている。霧は奥に行くほど濃く、黒くなっている。わけもなく、大動脈を想像した。
 ふう―――と息を吐いて、一歩、足を踏み入れる。途端、背中を何者かに押されたような気がした。猫か、と思い振り返ってみたけれど、そこに猫の姿はない。否、猫の姿だけではない。さっきまでいた、あの事切れた街、墓石のようなシャッター群さえ見えず、ただ深い闇がこちらを見つめているばかりである。仕方がないので前に進む。一歩、また一歩。足音が反響しない。全て闇に飲み込まれているのかもしれない。
 四か月ほど歩いただろうか。突然目の前が明るくなった。男がいる。禿頭で、額には深く皺が刻まれている。喪服姿でパイプ椅子に腰かけている姿は、成程、確かに辛気臭い。
「いらっしゃい。一枚だね」
 新聞紙を潰したような声だった。
「……ええ」
「兄ちゃん、持ち合わせは」
「絡新婦と古本が二冊。それからからの酒瓶が一つ」
「なら、大体百年って所だね」
「百年?」
「そう。百年だ。戻りたいんだろう、あの日々に」
「……」
「その背中…」
 背中に手を回す。ふわりとした感触がする。
「そりゃあ猫の毛だ。あんた、猫に言われて来た口だろ。あいつはあんたみたいな連中の心を読むのが得意なんだ。あいつにここに案内されたっつうことは、つまりは、戻りたいってことだろう。まあ、戻ったからってあんたのソレが軽くなるわけじゃあないとは思うがな」
「……一枚」
「毎度」
 懐の中身をすべて男に渡す。古本二冊。どちらも表題が擦り切れて、何の本だか判然としない。酒瓶。確か、琥珀色の酒が入っていたと思う。甘たるい光沢がまだかすかに残っている。絡新婦。逃げ出そうとするその足を、男は手際よく引きちぎる。
「足はどうせ、またすぐ生えるからな」
 男はにたりと笑う。
「さて。ホームはこの先を真直ぐ行ったところにある。なあに、半月も歩きゃあ着く。別に遠くねえ」
 ただ、と前置きをして男は付け加える。
「あんたにはちと霧が濃すぎるかもしれねえ。くれぐれも迷うなよ。ホームにたどり着けないようじゃあ、あんたはいよいよ終わりなんだからな」
 ホームだ――ホームにさえたどり着きゃあいい―――男は呟く。
「んじゃ、いってらっしゃい」
 一歩、霧へと足を踏み入れる。

 死臭が徐々に強くなる。霧は濃く、最早、闇と区別がつかないほどだ。足元の感覚と鼻を頼りに前に進む。進む。進む。進んでいるのだろうか。進んでいるはずだ。進んでいなければならない。
 肉体と世界との境界が曖昧になるほどの闇。物質としての感覚を失うほどに、神経の重さが増しているようにも思える。意識が内側に向いてくる。百年前といえば、僕は、いったい何をしていただろう。何を考え、何を思って存在していただろう。今と、大して変わらなかったようにも思える。もっと楽だったようにも思える。それとも、あの日々にはあの日々なりの苦悩があったのだろうか。わからない。わからないが、兎角、今よりもっと鮮やかであった。
 ああ、日々よ。あの日々よ。鮮やかなる日々よ。浮雲のような軽やかな日々よ。
 汽笛の音が聞こえた気がする。遥か彼方で。もう一度。ホームは近い。あの日々は近い。進む。汽笛の音。さらに微かな光。果てが見えたからであろうか。足取りが軽くなっている。進む。音が近づき、光が強まる。霧が晴れていく。足音が戻ってきた。悪い夢が終わったような気分だ。汽笛の音に交じって、車体が軋む音まで聞こえてきた。死臭はいつの間にか消えて、代わりに煙の匂いが立ち込めている。汽車の空気だ。
 視界が一気に開けた。瞼を開くように。ホームだ。汽車は、もう来ている。
 こぢんまりとしたホームだ。路線も一本しかない。車両の扉が、まるで僕を待ち受けているかのように開いている。他に乗客はいない。
 早く乗り込もう。戻るのだ。あの日々へ。
 しかしどうにも、足が動かない。何かが、足に絡みついている。これはなんだ。冷たくて、濡れている、この泥は―――恐怖か。僕は、戻るのが怖いのか。
 日々は美しく、彼方にて照り輝いている。そして僕は、こんなにも重い。この重さを、この悩みを、果たしてあの日々は受け入れてくれるだろうか。僕を受け入れてくれるだろうか。
「馬鹿々々しい。何をいまさら悩んでいるんだ」
「……」
「乗るなら乗れ!こっちも暇じゃあねえんだ」
「………」
「はあ。乗らねえなら置いていくぞ」
 過去は美しく、優しい。水と油のように、僕とあの日々は混じらない。 

「おかえり。汽車には乗れたかい」
首を振る。
「だろうな。あんたみたいなやつは何人もいたが、誰一人汽車に乗れはしなかった。お前らはあの日々ってやつを根本的に勘違いしてるんだ。あの日々は、『あの』日々になった瞬間に、あんたらを拒絶する。拒絶するから、してくれるから、あんたらはあの日々に戻りたがるんだよ。あんたらは、過去ってやつに恋してるのさ」
「なら、この重さは――――迷いはどうすればいいんですか」
「この迷い?いいや、『あの』迷いさ。あんたの迷いなんぞ初めからここにあるべきものじゃなかったんだ。さっきの汽車がなんで停まったのかわかるかい?あんたが勝手に持って行っちまった迷いを回収しに来たんだ」

「はなからあんたは大きな勘違いをしている。悩みは初めから悩みでしかないし、重さは悩みなんぞに変わらない。重さと迷いは別物さ。あんたは重さから逃れるために、適当なところからくすねてきた悩みに重さを乗せただけにすぎない」
「ならこの重さは」
「魂の重さ、さ」
ああ、ならば。
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