アレカヤシ:ヤシ科の植物の一種

文字数 1,985文字

 植物はビルの35階でも光合成できる。

 でも水や養分は園芸サービス会社の人が週イチで適度にやっているのだ、と同僚で一番仲のいいハルコさんが教えてくれた。
私の職場は、この地方で一番規模が大きいメーカーが所有する50階建てのビルだ。ここにはその企業の「地方本社」(こういうところは普通「東京本社」が別にある)のほか、メガバンクや通信事業者の地方支店が入っている。
つまりここで働くのは、リスクをマネジメントして、タイムとコストのハイパフォーマンスを維持できるビジネスパーソンばかり。

 というわけではない。

「聞いたか? 資材調達部からまた一人若いのが辞めたって」
「ああ、東大くん。かなり出来るって話だったのに、あいつもメンタル系?」
「違う。『自分が働くことで、社会を支えている実感が欲しいんです』って、ベンチャーに転職したんだと」

 こういう奴が出ないよう、今まで通り俺らの後輩だけ採れよ人事、という嘲笑が煙に交じって漂っている。
私は10分ほど前から喫煙ルーム横の窓掃除をしている。盗み聞きをしているつもりはない。二人は観葉植物の影にいる中年女に気づかず、防音されていない場所で大声のお喋りをしていて、それがたまたま私の耳に入っているだけ。
 ここで働いているのはご立派なビジネスパーソンだけではない、ということに彼らは気づいていない。

 私がバケツに水を足そうと窓際から離れたのと、彼らが喫煙ルームから出るタイミングはほぼ同じだった。煙の臭いがした。懐かしさで鼻の奥が痛んだ。

「お疲れ様です」

 こちらが立ち止まって発した挨拶に返事はなかった。遠ざかってゆく二人は、もし私に夫がいたら、大体これ位の年齢で背格好なのだろうという、つまり見本のような中年男性だった。
 雇用初日に渡されたマニュアルには、オフィス内の企業の社員とすれ違ったら挨拶をするようにとある。地味な中年男性だろうが、お堅いお局さんだろうが、溌剌としたイケメンだろうが、キレイなお嬢さんだろうが、挨拶を返す人は返すし、返さない人は返さない。だから無視をされても、愛想良く世間話をされても、思うことは何もない。おそらく相手もそうであるように。

――でも物事にはいつも例外がある。

「あの喫煙ルームの横の観葉植物、何て名前なんですか」

 少し前のことだ。人懐っこい顔の若い男の社員にそう声をかけられた時、真っ先に浮かんだのは「面倒だ」の一言だった。前の職場にいた頃とまるで変わっていない自分が嫌になった。
だから、その問いかけにいつもより丁寧に応じたのだと思う。

「ごめんなさい、分からないです。観葉植物って良く見かけるものでも名前が分からないもの、多いですよね」
「え、あなた、仕事への意識低くないですか?」

 思わず目が点になった。シゴトヘノイシキヒククナイデスカ。似たようなことは今まで山ほど他人には言ってきたけれど、言われたのは初めてだった。

「だって、自分が世話をしている植物の名前が分からないなんて、自社製品の名前が分からないようなものじゃないですか」

 ああ、と彼の言い分は理解できた。

「私はビル清掃業者の者で、観葉植物の管理は別の業者さんがなさっているそうなので、そういったことをお尋ねされても困りますねー」

 質問に答えることは面倒に感じたが、予想外に飛び出した失礼な言葉にはさほど腹が立たなかった。暗に業務範囲外だ、と返しながらも、ここでその問いかけ自体をなかったことにするのは惜しい気がした。

「でも、私も気になったので調べておきます」

 にっこりと笑いかけると、若者はわずかに顔を赤くしてからモゴモゴと「失礼なことを言ってすみません、僕も自分で調べます」と頭を下げて去っていった。

 その観葉植物の名前は、アレカヤシといった。原産地は熱帯地域で、10メートル以上伸びるらしい。そう知って、その姿を見てみたいとふいに思った。例えばビルの地上の敷地の一角に巨大な温室を作って、アレカヤシを植える。どの街路樹より大きく伸びるだろう。でも、オフィス街の隙間で大きくそびえ立った異国の植物が、人々の注目を集めることができるのはきっとほんの一瞬のことだ。

 あの真っ直ぐで、失礼で、でも筋の通った若者とは、あれきり一度も会っていない。彼は私のように逃げ出したのだろうか。煙草に頼ってストレスを発散し、男社会の中でがむしゃらに働いて、ある日突然何もかも嫌になり、ローンを払い終えてしまったマンションに引きこもった私のように。
 いや、たぶん違うはずだ。彼がもうここにいないのであれば、それは自分の置き場所を変えただけのことだろう。
 今の仕事に就いてから、私の中で変わった所もそうでない所もある。ビルの35階でも、地上の熱帯雨林でもアレカヤシそのものは変わらないように。
 私はそっとアレカヤシの葉に触れた。それは地面の遠さを感じさせず、瑞々しい。
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