第1話 退任の日

文字数 1,874文字

 伊勢原教授は本日をもって、長年馴れ親しんだ大学を離れることになった。本来ならば、退任の記念講演を大学の講堂で行うことになっていたのだが、コロナウィルスの爆発的な猛威を振るい、なかなか収束する気配がない。
 大学側の判断により、三月の早い段階で中止が決まった。
 政治学者としてテレビにも度々出演する、人気のあった名物教授である。記念公演となれば卒業生が駆けつけただけでも、すぐに講堂がいっぱいになってしまうだろう。その記念すべき公園でクラスター感染が起こったら、目も当てられない。
 それでも伊勢原教授の研究室には、ゼミの受講生や大学院生、教授のもとで研究をしている准教授ら、十数人が集まってくれた。大学の規則として、研究室や教室での飲食は禁止になっていたが、特別な日だけあって、お酒やデリバリーで届いた料理が並び、テーブルの中心には「伊勢原先生、長い間おつかれさまでした」と書かれたプレートが乗ったケーキが置かれていた。

「先生のおかげで女性が政治に参加することの必要性を知ることができました。政治の世界では女性議員が少なく、未だに家父長的な価値観が大手を振って、すべてを決めている傾向にあるのは、嘆かわしいことです」
そう話すのは、卒業後に女性の権利と地位向上を目指し、平等な社会をめざすNPO団体「国会議員の半数を女性にする会」を立ち上げた鶴川女史だった。
「本当はボクのしている仕事が無くなるのが、理想的な社会なのですが、あまりにも現実は程遠く、年々相談者が増えているのが現状です」
演説調に力強く話すのは、学生時代から社会活動家として、一目置かれていた梅ヶ丘君だった。彼は、子ども食堂の開設、ネットカフェ難民の住居相談、母子家庭の就職斡旋など、その活動に衰えはみられない。直近ではコロナ禍で仕事を失った人々のために、生活保護の相談窓口を開いたばかりだ。

「みんな社会に出て、立派に活動していて、私は本当に嬉しいし、君たちを誇りに思う。ただ残念なのは、市民が積極的に社会参加して、より良い社会を形成していく。もしくは創生していく。理想型としては、欧州型民主主義社会になのだが、この国で社会参加の意識が国民に根づくのは、残念なことに無理だ。第一、政治に対する意識が低すぎる。この新型コロナウィルスの政策に対する世論調査を見ても、よく判るだろう。市民が為政者をしっかりと監視し、おかしなことには異議を唱えなければ、政治は暴走して歯止めが効かなくなるだけなのに。まるで他国で起こっていることのように、醒めた目で政治を見ている」
 伊勢原教授が問い続けた、政治と国民の在り方の持論を展開すると、一同は頭を垂れた。自らを祝ってくる席であっても感傷に流されることなく、しっかりと自己を貫き、発言すべきことは発言する。
 戦う政治学者の姿が、変わらずここにあった。

 そのあとはお酒の力も手伝ってか、教授と共に参加したデモや集会、市民フォーラムの思い出話へと移り、退任を祝う和やかな会になった。
「先生。先日、たいへん興味深いものを手に入れました。ぜひ、この良き日にご覧いただこうと思いまして持参しました」
 登戸准教授が年季の入ったカバンから取り出したのは、「啓蒙子ども新聞」という初めてきく子供向けの新聞だった。子供向けといっても、見出しと写真だけが並ぶ一般紙とは変わらないレイアウトで、かなり硬派な紙面づくりを感じられた。
 誌面のトップには、今自分がなりたい職業トップテンという見出しがあり、その下にアンケート結果が載っていた。新聞に目を近づけると、今まで定番となっていたサッカー選手やユーチューバーを抑えて堂々と一番に、政治家と記されていたのである。伊勢原教授は大きく目を瞠り、そして普段の苦虫を潰したような表情から笑みがこぼれた。

「私の教えは、君たち次世代を超えて、さらに次の世代になって、ようやく芽吹き始めたということなのか!」
興奮する教授の姿を見て、自然と拍手が沸き起こった。この記念すべき日。このような素晴らしいニュースに出会えるとは、神様も心憎い演出をする。いつまで拍手は鳴り止まず、何度も乾杯の盃をかわして歓びに浸った。

 ただ残念ながら、この歓喜の瞬間に水を差すようで申し訳ないが、読者に伝えなければならない事実がある。
 このアンケート調査があった前日、公職選挙法違反疑惑の渦中にあった政治家夫婦が、国会にも出席せず雲隠れしているというのに、満額の給料が(小学生の小遣いに換算すると、八〇年分にあたる)、毎月支払われ続けているというニュースが流れていたのだ。
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