第1話

文字数 1,979文字

 病床の天井、泣きじゃくる娘、手を握ってくれた夫、見慣れた点滴袋……。
 さっきまでそんなものが見えていたのに、次に私の目に映ったのは笑っている助産師の顔だった。私は大声で泣いていて、自分で止めることはできなかった。
「元気な女の子ですよ〜」
 助産師の言葉に、分娩台の娘は安堵の表情を浮かべていた。私もほんとうは「よく頑張ったね」と言ってやりたかったけれど、心にしまっておいた。

 どれくらい意識を失っていたのだろう——。
 まさか転生先が、自分の娘の子どもだなんて思ってもみなかった。記憶の中では、さっきまで大泣きしながら私を看取った大学生が、今や大人になり、今度は私に微笑んでいる。

 確か生前、生前というのが正しいかわからないけれど、最後に行った占いで「来世は餃子です」と告げられたのに。まさか人として誕生し、こんな身近なところでもう一度人生を始められるなんて、幸運にもほどがある。もしかしたら途中の記憶がないだけで、いちど餃子になり、短い生を全うしたのかもしれないけれど……。

「いい子でちゅね〜」
 娘の腕のなか、私は泣き止んだ。
「いないいない、ばあ〜」
「まだ早いって」
「え、じゃあ高い高いは?」
「早いに決まってるでしょ」
「ちぇ。練習したのに」
 娘の旦那はひょうきんな人のようだ。笑っている娘を見ると、仲の良さが伝わってくる。
「レオちゃん、お父さんだよ〜」
 私はそんな言葉に、少し微笑んでみた。すると二人に笑顔が広がった。私のネームプレートには『礼央』と書かれていたので、私の名前から一文字とったのだとすぐにわかった。

 新生児室からうちに帰ると、私の遺影の隣に夫のものも並んでいた。記憶より老けていたので、長生きしたみたいだ。私が染めたデニムのシャツを着ていて嬉しかった。
「お父さんお母さん、遅ばせながら、私もお母さんになりました」
 娘はそう言って、私たちの遺影に私を見せた。
「二人の孫の、礼央ちゃんです」
 私がまだ生きていたら、何て声をかけただろう。「おばあちゃんにしてくれてありがとう」とでも言っただろうか。

 そのとき、生前に近所の神社で『親に孫の顔を見せてやりたい 大文字恭子』と書かれた絵馬を発見したことを思い出した。これは娘が書いたものだ。彼女は仕事の傍ら、家族に内緒で小説を書いていて、そのペンネームが『大文字』だった。たまたま小さな賞を取ったときの封筒を見つけて知っていたのだ。
 私も願いを書き、娘の絵馬に重ねておいた。『孫の顔を見てやりたい 大原礼子』と——。
 それからの記憶はあまりない。入退院を繰り返しながら、病気と戦い、力尽きた。仕事を休んで病室に来てくれた娘や、いつも手を握ってくれていた夫には感謝しかない。

 娘の旦那は育休をとり、毎日世話してくれた。本気の『高い高い』も味わった。私が笑うと、みんなが笑った。娘に向けて「いい人見つけたわね」と、心の中で呟いた。

 それからハイハイを習得すると、色んな部屋に旅に出た。
 もともと私の部屋だったところには、そのまま私のコタツが置いてあった。今は誰が使っているのだろう。
 私はまだあまり力の入らない体でなんとか机の上によじ登ると、たくさんの本が積まれているのを発見した。『0歳から始める英才教育』『頭のいい子が育つ英語の歌』などの本には、少し恐怖を感じた。捨ててやろう、と一冊づつ本を掴み、机の上から放り投げた。
 4冊目を手に取ったときだった。その表紙には『夕立の朝 大文字恭子エッセイ集』と書かれていた。ああ。よかった。恭子、頑張ったんだね。夢が叶ったんだね。
 私は涙をこぼしそうになったけれど、まだ大声で泣くことしか出来ないので、なんとか歯を食いしばって耐えた。
 パラパラとめくってみる。それは私との記録のようなエッセイだった。来世が餃子だと言われ大笑いしたこと、絵馬を書いた数日後に私の絵馬を発見し驚いたことなど、細かく書かれていた。こんなに文章がうまかったとは知らなかった。
 驚いたのは、私の亡くなった朝に夕立が降ったと書いていたことだった。そんなことは記憶になかった。私は月のきれいな夜に、みんなに看取られて亡くなったはずだった。肉体だけがまだ生きていたということだろうか。そのとき夫は私に「来世も一緒になろうな」と泣きながら言い、私はかすかに頷いたらしい。

 そのとき「コジロウ、赤ちゃんだよ〜」と言いながら、小型犬を抱えた娘が部屋に入って来た。私の知らないあいだにチワワを飼い始めたようだ。
 私は娘の本を見ていたのがバレないよう、「あたあ」と叫び、机の上を荒らした。娘は「悪い子でちゅね〜」と言い、本を直し始めた。
 チワワは私のいるコタツの机によじ登り、「くうん」と鳴いたあと、鼻息荒く私のほっぺを舐め始めた。その体からほのかにインディゴの香りがしたような気がした。
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