あなたの夢を見るために

文字数 1,076文字

 チャットアプリを終了させると、部屋の中が急に暗くなった気がした。時刻は二十四時五十分──深夜とはいえ、灯りは煌々と点いているのに。パソコンのデスクトップの画像は、青空を背景にそびえるエッフェル塔。勉強の合間に足を伸ばした、爽やかなパリの夏の気配を感じても良さそうなものなのに。
 窓の外の闇は濃く暗い。フランス第二の都市圏リヨンといっても、郊外になれば人家もまばらだ。多少田舎なくらいが勉強に集中できると思って選んだ留学先だけど、夜中にひとりきりなのに気付いてしまうと、この暗さと静かさは少し辛い。

 ついさっきまで、画面に映っているのは日本の朝の光景だったからだろう。

 サマータイムの今、日本とフランスの時差は七時間。こちらの深夜は、日本の朝だ。一日の始まり、出発前の慌ただしい時間を、彼は私のために割いてくれたのだ。
 日本にいた時は何度も遊びに行った彼の部屋。背景に映る家具や小物。漏れ聞こえる日本語のテレビの音声。彼が話題に出す友達の近況やコンビニの新商品、どんな店ができたとか潰れたとか何が流行っているかとか。日本にいたころは気にも留めなかった何もかもが、今はとても遠い。だからどうしようもなく切なくなってしまうこともある。

「メイク落として……シャワー、浴び直さないと……」

 わざわざ声に出して呟くのは、そうしないと涙があふれてしまいそうだからだ。自分で夢を追って旅立った癖に。SNSや、電話やメールでのやり取りでは、何よりチャットでビデオを繋いでいる間は、いかにも留学生活を満喫してます、って笑顔を装っている癖に。
 こちらは、街並みも綺麗だし食べ物もワインも美味しい。現地での知り合いや友人もできたし、学業も順調だ。私は、楽しくて充実した毎日を送っている──その、はずなんだけど。慣れない国、馴染まない言葉に取り囲まれて、祖国の人たちと違う時間で生きていることで、少しずつ心が削れていっているのかもしれない。彼の顔を見て声を聞いて。元気をもらうはずが、ホームシックを募らせるなんて世話はない。
 
「いってらっしゃい。……おやすみなさい」

 寝る支度を整えた私は、閉じたノートパソコンを撫でて、小さく呟く。彼との会話の終わりにも告げたことを。
 その気になれば、ほかの時間にすることもできなくはない。それでも私が深夜まで起きて、わざわざメイクをし直して彼との通話に臨むのは、この挨拶が好きだから、だろう。これから始まる彼の一日を、見送ってあげたい。これから眠りに就く夢の中で、彼の姿を見られれば良い。

 そうすれば、目覚めた後もまた頑張れる気がするのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み