第1話

文字数 8,173文字

 全てのものの最期は、完全な球体なのではないか。
例えば、川底で流れにさらされた小石は角を無くし、美しい球体へと変貌していく。水の流れが激しければ激しい程、きっと美しく形作られていくのだろう。
 全ては、そういう事なのではないだろうか。
 水に弄ばれた小石は削られ、自らの最高潮に達して完璧な球体になった後はその美しい姿を変えることなく、夢の微睡の名残を引きずる様に、そのまま小さくなって消えてしまう。
 いや、どんなに小さく分解されたとしても、消えはしないのだろう。目に見えない程になっても、きっとそれはそこに在り続ける。
 小石が砕けて半分になり砂になる。その砂粒がさらに砕けて塵になる。その塵一粒がその半分に。そしてさらにその半分。半分。半分。
そう数えていくと永遠が見えてくる。
 ともすれば、この世に完全なる消失など無いのかもしれない。
 始まりは、一つの細胞が分裂し膨れ上がり増殖していった。
 しかし、完全な消失が無いのなら、この世界はいつか、溢れ返るのだろうか。
細かく粉々になった全てのものの成れの果て、その美しい球体が、世界の其処此処に音も無く入り込む。
どんな些細な亀裂も見逃さずに。
一分の隙も、無い程。

 あら、何か月ですの。
私の膨らんだ腹部を見て品の良い老婦人がそう声を掛けてきたのは、まだ風に初々しさの残る初夏の終わりの昼下がり。
 どうぞお席をお譲りしますわ。
 いえ、そんな。お気遣いなく・・・。
 ご無理をなさると身体に障るわ。さあ。
あまり断りすぎるのも気が引けて、では、お言葉に甘えて・・・と、小さく会釈して譲って頂いた。
罪悪感が、ちょうど電車の窓から見える雲の様に心に膨れ上がる。けれど、その罪悪感は少し心地良かった。窓の外の透き通った青と白の美しい対比は、それを見つめる私の瞳にも澱む事無く映っているのだろうか。そうであれば、と思う。
 これからどちらへ。
にこやかに老婦人は尋ねてくる。綺麗に纏められた白髪が、窓から差す午後の陽を浴びてきらきらと輝いている。
 ・・・お参りに。
少し言い淀んでしまったが、老婦人は気に留めることもなく、あら、素敵ですわね。安産でありますように。と言って、微笑んだ。
ありがとうございます、と答えた時、ちょうど電車が駅に止まりドアが開いた。老婦人は会釈して降りて行った。ドアが閉まり、再び電車は何事も無かったかの様にゆっくりと滑り出す。私はほんの少し息を吸い、ふうと吐き出した。
 あの老婦人の瞳は、青と白の景色を映していた。私はどうだったのだろう。私の瞳は、何かを映しているのだろうか。
 時々、自分のしていることが間違っているのではないかと思って、恐ろしくなる。けれど、私はもう手放すことはできない。こんなにも愛おしいのだから。
 電車は一定のリズムを刻みながら進んでいく。
 平日の昼下がり。郊外に向かうにつれ、人がまばらになっていく。
 燦然と差し込む午後の光の中で、思い思いに暇を潰す人々は、皆、私の事など気にも留めない。光にその輪郭を縁取られて、景色との境が淡く滲んで見える。表情もすべて陽にとろかされ、現実味を欠いている。
 それは、永遠に続く一瞬を切り取った、美しい絵画を見ているようだった。
 私以外が全て額縁に収められ、私だけがただ一人、額に入ることもできずじっと眺めている。
 それを幸ととるか、不幸ととるかは、私次第なのだろうけど。寂しさが無いと言えば、嘘になる。けれどこの絵を見ることができたのは、きっと幸福なことなのだと思う。
 がたん、と大きく揺れて、電車は暗闇へと吸い込まれた。陽の光はたちまち消え失せ、味気ない蛍光灯の白い光に取って代わられた。
 額縁の中の人々は、許しがなければ動くこともままならない囚人の様に、微動だにしなかった。恐ろしいものがすぐ傍にいるけれど、それを悟られないようにひた隠しているようにも見えた。
 青白い光に照らされ、正面の窓に浮かび上がる、神経質そうな顔。
 膨らんだ腹に手を置き、目ばかり大きく見開いている。
 私は目を閉じた。とろりとした黒が視界を占領する。その中に、光の残像がちらちらと現れる。まるで暗闇で踊る踊り子の衣装に付けられたスパンコールが、ほんの僅かな光を見逃さずに反射させて煌めかせている様だ。
 私はしばらく、その今にも闇に飲まれそうな少女の舞台に魅入る。これもきっと、私しか見ることの無い舞台だ。
 ああ、でも、踊り子の顔は、見えない。
 突如、私の瞼の裏の世界を、光が満たした。電車がトンネルを抜けたのだ。少女は光の洪水に流され、消え失せた。
 私はそっと目を開ける。闇に慣れた目には眩しい。人々はまた、幸せそうに額縁の中に納まっていた。
 電車が山に沿って高台を走っているので、トンネルを抜けると電車の窓の下には町が広がっている。結構大きな都市、という訳でもないのに、地平線の向こうまで立ち並ぶ住居の群れやビル群を見ると、言い知れぬ恐怖を感じる。太古の昔、地球の表面を覆っていたのは緑だったというのに、今や灰色の人工物が蔓延っている。
 流れていく景色をじっと見つめる。店の色褪せた看板、窓ガラスの向こうの花瓶のくすんだ風合い。ベランダで風に揺れる洗濯物。玄関扉の横の花壇とじょうろ。古びた自転車・・・。全てが西日に照らされ、静かにたたずんでいる。
 そんな見知らぬ人間の生活の匂いを見て、それがずっと遥か先まで続くことに恐れを抱きながらも少し安心するのは、私も人間だからなのだろう。
 どんなに人間の築き上げた社会が生き辛くても、私はそこで生まれてきたのだから、どうしたって生きながらそこから離れることはできないのだ。
 赤ん坊がへその緒で母体と繋がっているように。
 けれど・・・。
 私は、私の腹を撫でる。いや、腹の中のものを。
 この子だけは、この子達だけは、そんな軛を負わせたりはしない。

 「―――○○駅、○○駅です。お降りのお客様はお忘れ物のないよう・・・―――」
 車内アナウンスの声で目的地に着いたことに気が付き、ゆっくりと立ち上がりドアに近づく。一歩外に出ると、じわりと熱い空気に包まれる。蝉の声が私の耳を塞いだ。

 暑いわね―――。

ええ、そうね。私は心の中で呟く。
貴女は夏が嫌いと言っていたけれど、眩む様な日差しの中で笑う貴女には、夏がよく似合っていたわ。

蝉の声が、彼女の声をかき消した。いや、蝉の声に隠れて彼女が現れたのかもしれない。
 あの人は、私と並んでは歩かなかった。いつも前にいて、私よりも先に道端の花を見て、私よりも先に木漏れ日をまとい、木々の陰に消え、そして時折私を振り返り、微笑んだ。置いていかれそうで不安な私とは違い、彼女は私がついてきていることに何の疑いもなかった。
私を見ていなくても、私が後にいることを知っているのだ。
 そう。私はずっと彼女の後ろを歩き、彼女を追っている。今も。
前よりも一層、彼女は振り返らず、先へ行ってしまうけれど。でも、見失いはしない。私と彼女の繋がりは、目に見えて鮮やかだ。

 私は日傘を広げ、駅から歩き始めた。懐かしい道。よく彼女と歩いた道だ。
 端の方のアスファルトは罅割れ、その隙間から小さな花が窮屈そうに咲いている。
 ここは坂の多い町。山に沿って家が建っている。高台に見える青い屋根の洋館も、曲がりくねった坂の上に見える神社も、何もかもがあの日のままだ。そこここに彼女が見える。
 私は、私の中のものを、そっとさすった。ほんの少し、蠢いた・・・気がした。

 月が出ているわ―――。

 本当?
 見上げると確かに白い月が、少し暮れかけた空に浮かんでいた。
 よく気が付くのね。心の中で呟くと、彼女はくすりと笑った。
 私は、この時間帯の空が好きだ。夕焼けになる前の空。これから何かが始まる高揚感を含んだ空。言うなれば、演奏が始まる前の紅い緞帳を揺らす厳かなAの音の様な。
 坂に差し掛かると、思ったより体が重くて苦笑してしまった。昔は何の苦労もなく上っていたというのに。そこまで考えてふと、今は一人ではないことを思い出した。この子達がいるのだから重いはずだ。守るように腹の下に手を添えて、私は歩き始めた。あともう少し。大切に、大切に運ばなくては。

 初めて会った時、彼女は泣いていた。忘れ物を取りに戻った冬の放課後の教室は、もう夜と変わらない程暗闇が満ちていて、彼女の黒髪が夜に溶けていた。
 窓の傍に立ってじっと空を見つめていた彼女は、私が入ってきたことに気が付いて、涙を隠しもせず振り返って掠れる声で言った。
「月が出ているわ。」
その言葉で、私が窓の外に目をやると、ほかの星を消してしまう程眩しく満月より少し欠けた月が輝いていた。
「綺麗・・・。」
「そうでしょう?せっかく独り占めしていたのに見つかってしまったわ。」
悪戯っぽく笑った彼女を見ると、もう涙は消えていた。
「それはお邪魔様。」
「これからは二人占めね。」
「二人で月を見るの?」
「そうよ。」
彼女はまっすぐ私の目を見つめてそう言った。陶器の様に滑らかな肌を、月の光が照らし出す。長い睫毛を涙の名残がきらきらと飾っていた。その姿があまりにも美しくて、もう、目を離すことができなかった。
 それから私達はほとんど毎日、放課後月が上るまで一緒にいた。
 彼女はあまり自分の事を詳しく話さなかった。私は彼女がどこに住んでいて、誰が家にいて、両親は何をしているのか、そんなことは何一つ知らなかったけれど、その代わり季節は冬が好きだとか、朝焼けの中で熱い紅茶を飲んだり、雨の日に散歩をして傘に落ちる水滴の音を聴いたり、昼下がりの柔らかな陽の中で微睡んだりだとか、彼女の好きなことはたくさん知った。私達にとっては、それで十分だった。幸せだった。
 昼間に二人で出掛けることもあった。そんな時決まって彼女は前を歩き、時々振り返っては何気ない発見や小さな感動を伝えてくるのだった。
「あら、入道雲だわ。おおきい。あの中を飛んだらどんな風なのかしら。」
「一面真っ白じゃない?」
「それは少し寂しいわね。でもどうかしら。なにか隠していそうじゃない?」
「なにか?」
「ええ。虹の始まるところには宝物があるように。」
 時々思う。どうして私だったのだろう。そして、どうして貴女だったのだろう、と。
あの教室で出会わなければ、今頃はもっと違った未来を歩んでいたのだろうか。それとも貴女とはこうなると決まっていたのだろうか。問いかけても、当然答えなどあるわけはないのだけれど。
 
 腹の中のものがぴくりと動いた。もう少しだからね、と私は呟く。

「暑いわね。」
「もう七月だもの。」
「憂鬱だわ。」
「どうして?」
「夏は嫌い。」
「真昼の逃げ水も、蝉の声も、葉の緑も。どれも儚くて綺麗よ。」
「・・・。」
「やっぱり嫌い?」
「貴女となら夏も好きになれるかもしれない。」
振り返った彼女の瞳は、そこまで来た夏を宿して煌めいていた。瞳の中の青と白。
 じきに私達は学校を卒業し、大学へと進んだ。違う大学だったけれど、入学と同時に独り暮らしを始めた私の家に彼女は頻繁に会いに来た。
 夜になるとベランダに出て、満ち欠けを繰り返す月を眺めた。私達は月の周期を調べたりはしなかったから、私が満月だと思っても彼女にはまだ少し欠けているように見えたりその逆もあった所為で、私達が満月を見たことは一度もなかった。
 私と彼女は確かに繋がっていた。細い細い糸が、風に飛ばされないように、小さな振動でさえ震えることを恐れて、切れないように絡まり合った。
 その糸は私達の体に食い込み、手足を縛り、口を塞いだ。私は彼女が楽に息をできるように、締め付けてくる糸を引っ張り、噛み千切り抗ったけれど、逃れようとすればするほど糸は絡まり、強固になっていった。
 それでも貴女は静かに微笑んでいた。
 どうか糸を傷つけないで、私は大丈夫だから、と。

 どうして貴女じゃなきゃ駄目だったのだろう。どうして貴女は私を選んだのだろう。
 私達は何一つ噛み合わなかった。凹凸も細胞も、何一つ。
 それでも私は貴女を選んだ。貴女は私を逃がさなかった。
 この世界で、私達は二人ぼっちだった。いや、そうなりたかった。そうであればよかった。
 でも、なれなかった。
 だから今、貴女はここにいない。
 
 「揚羽蝶。」
坂を上り、もう誰も入らない古びた登山道を進んだ先、朽ちかけた鳥居の下の陽溜まりで彼女が指を差す。
「どこ?」
「もう行っちゃった。」
後にはただ、風に揺れる葉の落とす木漏れ日だけ。音も無く蝶は消え去った。
 ここには、人の声も、電車の音も、何も届かない。
「ねえ、知ってる?蝶を産んだ女の人の話。」
「知らない。」
「その人は子供を産めない体だったんですって。でもある日、蝶を食べたらお腹が大きくなって、臨月を迎えた時腹の中から無数の蝶が飛び立ったの。」
「なぜ蝶を食べたの?」
「おまじない。」
「なぜ?」
「蝶の鳴き声は、胎児の声に似ているのよ。」

 貴女の声が景色のあらゆる場所に潜んでいて、地面を踏むたび、角を曲がるたび、影が揺れるたび、陽炎のように立ち昇る。
 だいぶ上まで来た。振り返ると急勾配の坂の下に駅が見え、線路が柔らかな曲線を描いて山の向こうに消えている。
 もう二度とあの道を歩くことは無い。
 額縁の中の人々はまだ西日に照らされて、先程よりももっと淡く溶けているのだろう。
 刻一刻と、私は世界の枠から消えていく。

 新月の夜、星が一際綺麗に見えたあの時、彼女は言った。
「もしも私が死んで誰かに理由を訊かれたら、こう答えてほしいの。私の頭上の遥か高みに一等星が煌めいたからだって。」
私は心臓を掴まれたような気がした。手が震えて、涙が次から次へと零れ落ちた。
「ごめんね。」
彼女は優しく笑って、私の頬を両手で包んだ。涙で濡れた私の瞳をじっと見つめた。
 きっとこの時、私の瞳の中に彼女が潜んだのだ。彼女は私に最後の印を残した。
「もしも貴女が死んだら私はきっと後を追う、と言ったら貴女は怒る?」
私が訊ねると彼女は目を逸らさず答えた。
「なぜ怒るの?貴女の命だもの。貴女の選択が正しいわ。」
「・・・。」
「泣かないで。もしもの話よ。」
そう言って私を抱き締めた彼女の、ゆっくりとした鼓動を覚えている
彼女は、淡い星の光にすらかき消されてしまいそうなほど小さな声で言った。
「でも・・・もし死後の世界でも一緒にいられるのなら、私は貴女を殺すわ。」

 彼女が消えた。花の蕾が膨らみ始めたころだった。彼女の両親は捜索届を出したけれど、彼女は見つからなかった。
彼女の部屋から、さようなら、と書かれた紙が見つかったので自殺だろうと誰しもが思い捜査の手はのろのろとしか進まなかった。
 彼女の両親は三日間泣いて、日常に戻っていった。初めて見た彼女の両親は、彼女とは似ていなかった。
 私の部屋に置いてある彼女の荷物の中に私宛の手紙を見つけたのは、彼女が消えて二週間がたった頃だった。丁寧な字で書かれた手紙にはまだ彼女の温もりが残っているように思えた。

 私がなぜ死んだのかと誰かに訊かれたら、一等星が私の頭上の遥か高みに煌めいたからだと答えてください。
もしくは、待ち望んでいた花がようやく咲いたから、とでも。
いいえ、金木犀の甘やかな香りに包まれたからでも構わない。道端の花の濡れた葉が艶やかだったからでも、青空の中の風が澄んでいたからでも・・・。
つまり、何かに悲観して死んだのではないということが分かればそれで十分なのです。
私が死んだのは・・・言葉にするのは難しいけれど、あえて言うなら、幸せだったからだと思う。
貴女ががんじがらめになって苦しまないように、私が本当の意味で貴女を手に入れられるように、そして貴女に私をあげられるように。

 たったこれだけの手紙だった。
 彼女がいなくなって、ぽっかりと空いた場所には彼女との繋がりの残骸だけが散らばっていた。私はそれを握り締め喉が千切れる程泣き叫んだ。
 気付いたら朝が来て、夜が来て、そして朝が来た。何度繰り返したかわからない。
 けれどふと顔を上げた時、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が漸く目に映ったのだ。
 蝉の声が遠慮がちに空気を震わせていた。ゆっくりと立ち上がり、息を吸い込む。
 私は彼女を手放すことにした。
 ゆっくりゆっくり、時間を掛けて、固くがんじがらめになった私達の糸を、時には手を止めなぞりながら、丁寧に解いていった。
 そして私は、少し離れた町に引っ越した。彼女の匂いのしない、見知らぬ町。行き交う人々は皆慌ただしかったけれど、私の時間だけが現実味を欠いて遅く遅く進んでいた。
そこで私は働きながら、時々に彼女の影を見、声を聴いた。糸は少しずつ柔らかくなっていった。
 あれから二年。今はもう全て解き終わった。
 私は膨らんだ腹部を撫でる。
 彼女との糸の絡まりは解かれ、切れることなくまっすぐに私と繋がっている。

 古い登山道には枯葉や枝が積もり、踏むたびに軽快な音を立てた。陽が沈む。空は桃色の中に金を含んで頭上に広がっていた。音合わせを終えたオーケストラの、音の無い音楽が今まさに最高潮を迎えている。
 少しずつ、夜が来る。

 全てのものの始まりは、完全な球体なのではないか。
 細胞も、卵も何もかもが優しい球体をしている。

 彼女が消えて一年ほどたった頃の事だった。電車で席を代わった妊婦の腹を見ながら、そんなことを考えていた。
「何か月ですの?」
そう訊くと妊婦は嬉しそうに、
「もうすぐ産まれます。」と言った。
「安産でありますように。」
「ありがとうございます。」
その幸せそうな笑顔は、まるで遠い世界のお姫様を見ている様だった。
 ぼんやりと彼女の姿を見ていた私ははっと彼女の腹を見た。そこに蝶が留まっていたのだ。金縛りにあったように、体が固く動かなくなった。
 蝶は真っ青な羽の淵を微かに煌めかせながら飛び立つと、私の唇に留まった。
 蝶の鳴き声は胎児の声―――。
 あの時の彼女の声が鮮明に蘇り、涙が溢れてきた。彼女が私に遺した最期の印が漸く目覚めたのだ。
「あの・・・どうかなさいましたか?」
妊婦が突然泣き出した私を見て焦って問いかけてきた。
「ああ、ごめんなさい・・・。でもお気になさらないで。私、幸せなんです。ええ、とっても。」
 ちょうど止まった駅で、私は電車から駆け下りた。
 温かい涙は限りなく流れてくる。
 私は腹に手を当てた。確かに命が宿ったことを感じた。

 登山道を登るうちに、夜はすっかり辺りを包んだ。あと少しで鳥居につく。懐かしい。貴女が蝶を見つけた場所。あの時の蝶を、貴女はきっと捕まえていたのね。

 くすりと彼女が笑った。

 鳥居は朽ち果て、色褪せた木が散らばっているだけだった。それを月の白い光が柔らかに照らし出す。

満月だわ―――。

ええ、そうね。やっと月が満ちたのね。
 私はその光の中に横たわる彼女を見つけた。緑の葉が彼女を包んでいた。
 漸く、私達は一つになれる。手放した貴女は今、自由になって私を待っている。
 彼女の傍に横たわる。腹の中で目覚めたものは産まれる時を知っている。私の腹を破り、食い千切り、月光の中でその青藍の羽を震わせながら何十何百と飛び立った。
 木立も、朽ちた鳥居の木も、そして貴女の骨も、みんな青く澄み切った蝶の群れに包まれた。
 なんて美しいのだろう。私と貴女の最期は、こんなにも優しい。

 一度も満ちることの無かった月。
 貴女と私の血で染まった糸。
 見失った揚羽蝶。
 胎児の声。

 ああ、すべてのものの最期は、完全なる球体なのだろう。
 貴女と私も、小さく分解されて永遠の中でこの世界の隙間に入り込む。




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