第4話 悪を知らなかった私達(〜1992/3)と『邪悪な羊』の正体

文字数 2,774文字

 『羊をめぐる冒険』を初読した時の私は(恐らく同世代読者の多くも)、作品のセンスの良さに気を取られるあまり、作品の本質を見落としておりました。羊に託された『邪悪』という抽象概念の正体への深い考察が足りなかったのです。人間に入り込む特殊で邪悪な『羊』というものは、危険思想や非倫理的精神構造を象徴するものであり、それはアドホックで個人的な内面の問題と片づけておりました。物質的価値が人々の心を占拠しつつあったあの時代、弱い精神に入り込む『邪悪な羊』は精神面軽視の風潮に対する警告であり、それと向き合う勇気と弱い隣人に寄り添うことの大切さを教える物語として読んでいました。戦争もテロも天災を経験せずに大人になったその頃の私達(一九六〇年代生まれ)は、個人レベルの悪しか知らなかったのです。

 『邪悪な羊』が多くの人間に入り込み社会全体に脅威を与えうる悪、それも実存していたマクロ的悪であるという解釈があることを、最近になって川本三郎先生の評論(1)を通じて知りました。川本先生は『羊をめぐる冒険』が出版された直後に、邪悪な羊の正体について

 『一九六〇年代末期から七〇年代初頭にかけて、当時の若い世代をより非現実の彼岸へ押しやった革命思想、自己否定という観念ではないだろうか』

 と解き明かし、羊に入り込まれ自死した鼠についても「革命思想にひかれ死んでいった無数の……連合赤軍の死者達を思い出させるものである」と述べています。

 これには大きな衝撃を受けました。この解釈をもって『羊をめぐる冒険』を再読すると、物語は俄に別の様相を見せ始めたのです。アメリカ在住の私には、『鼠』が二〇二一年の一月、国会議員を殺戮しようと米国議事堂を襲撃した過激なトランピアンに重なりました。彼らの多くは、かつてアメリカ製造業を支えた勤勉な労働者であり、他国への生産拠点移動や移民流入により職を失った人々です。老いて他業種への転職も叶わず、グローバリゼーションがもたらした都市部市民との富の格差への怒りを抱えていました。自信を失った彼らの心に、『アメリカ・ファースト』を囁き、『選挙は不正に奪われたから国会議員を殺せ』というゼスチャーを送りこんだのが、『邪悪な羊』に見えてきたのです。自分を乗っ取ろうとする『羊』を消すために自死を選んだ鼠の勇気とそれに寄り添った『僕』に、バイデン政権下、分断から和解への道を歩み始めたアメリカが投影されました。

 この『羊=邪悪な何か』という 抽象的メタファー(換喩・他の何かを表すもの)(2) を巡って、いくつかの考察をしました。

 第一に考えたのは、本書が執筆された時点では、様々な理由により大学闘争に関わる暴力や殺人事件を題材にすることは極めて大きな危険を伴ったのではないかという時代背景です。言い換えれば、連合赤軍や特定のセクトといった固有名詞を出すリスクが大きすぎるなか、それを匂わせるギリギリの手法として使われたのが『羊』と『鼠』であった可能性です。春樹先生が在学中の早稲田大学第一文学部内で起こった内ゲバによる虐殺事件の詳細が、二〇二一年に出版された樋田剛氏のノンフィクション『 彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件』(3) によって明らかになりました。学内の暴力の熾烈さは戦場さながらであった事、またその当時の学生がいかに恐怖に怯えていたかを知るに至り、春樹先生が多大なるプレッシャーを感じながら『羊をめぐる冒険』を世に送り出したのではないかと想像したのです。

 また先生が『エルサレム賞』受賞スピーチにおいて、『壁と卵』の比喩を使って間接的にイスラエルのガザ侵攻を批判した事を考えても『羊と鼠』に何らかの切実なメッセージがあったと考えても不思議ではないような気がしています。

 次に考えたのは、メタファーという手法のメリットとデメリットです。川本先生は、特定の事例ではなく抽象的なもので本質的な価値観を表現できた場合、その物語は普遍的なメッセージを読者に送ると指摘なさっていますが、今回改めてその有効性を認識しました。一九八二年に本書を読まれた川本三郎先生は、連合赤軍事件や大学紛争の犠牲になった友人を羊や鼠に重ね合わせ、その四十一年後に再読した私は、アメリカ分断のなかでのトランピアンの苦境を思い起こしました。川本氏は『死と再生の物語』と述べられましたが、私はこの小説にアメリカにおけるエンパシー(相手を理解し寄り添うこと)の大切さを教えられました。

 こうした普遍性のメリットがある一方、私の初読の時のように、読者がメタファーに気づかない場合、作者が伝えたい事が十分に伝わらない、またコンセプトは伝わってもメッセージのインパクトが弱くなるリスクもあると思います。

 もっとも、この小説が大学闘争末期の傷をベースに書かれていることを示唆する記述は本書のどこにもない以上、春樹先生の意図はわかりません。先生は『書き上げた小説は読者のもの、どう読まれようと構わないし、書いた内容は忘れてしまう』とおっしゃっていますので、「読者が羊や鼠を何に当て嵌めようと関係ありません」と苦笑されてしまうかもしれません。

 先生が『デタッチメント(他人との関わりから離れた状態と個人の尊重)』を重視しておられた『 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(4)、『 ノルウェイの森』(5)、『 ダンス・ダンス』(6) までの時期においては、解釈は読者任せという形で何ら支障がなかったと思います。けれど、先生が重点を『コミットメント(他人や社会との関わりあいを重視すること)』へ移されてからは、読者が先生の意図を正しく理解することの重要性も増してきているようにも思います。

                            (続く)

_________________________________
(1) 川本三郎(1982/9)『「羊をめぐる冒険」を読む』ーー村上春樹の世界Ⅱ、文學界→『都市の感受性』、(『村上春樹論集成』2006若草書房に収録)
(2) ここでいうメタファーは比喩というよりも英英辞典によるmetaphor定義であるa thing regarded as representive (何かを代替するもの)or symbolic of something else, especially something abstract(何か、特に抽象的なものを象徴するもの)としてとらえる。
(3) 樋田剛(2021)『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件』文藝春秋
(4) 村上春樹の四作目の長編小説(1985新潮社)
(5) 村上春樹の五作目の長編小説(1987講談社)
(6) 村上春樹の六作目の長編小説(1988講談社)

 


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