第1話

文字数 1,997文字

 晩飯を食べている時だった。
「百合さん、ついに分娩室に入ったって」
 妻が受話器を置いて、俺の前に戻って来た。
 俺は生姜焼きと一緒に、白米を頬張った。
 優斗から最初の電話が来たのは、午後六時頃。ほんの一時間前のことだった。
「随分早いな。優斗の時は六時間くらいかからなかったか?」
 ほぼ忘れていた記憶を手繰り寄せる。それは優斗が生まれる時。強烈な陣痛が始まったので、深夜、病院に付き添ったのだ。
 だが、なかなか子宮口が開かなくて、陣痛室で永遠と待たされた。気付けば外は明るくなり、ようやく生まれた時には夫婦共に憔悴していた。テレビドラマで見る様な感動とは、やや違っていた事を記憶している。
 もう、三十年前も前の話だ。
「最初の電話で陣痛が十分間隔だ、て言ってたのよ。だからすぐタクシーを呼びなさいって叱ったの」
 遅過ぎよね、と言いながら、妻は眉をハの字に下げてキャベツの千切りを口に入れた。
 昔からどこかのんびりした息子だった。その性はこんなに時にも発揮したか、と我が息子ながら呆れてしまう。
「でもその優斗がいよいよ父親だぞ」
「本当にそうね……。あの子、肝心な所でいつも失敗するから、心配が絶え無いわ」
 そう言う妻の顔は、さっきからニマニマが止まらない。本当は直ぐにでも病院に行きたいのだろうが、分娩は二人に任せる、と最初から宣言していた。きっと百合さんに遠慮しているのだろう。優斗の仕事が在宅だ、というのもその理由に入っているに違いない。

 優斗が百合さんを家に連れて来たのは二年前。優斗が脱サラをして暫く経った頃だった。
 もともと彼女は、優斗と同じ会社の後輩だった。だが上司から酷いパワハラを受けていて、それを優斗が庇ったことから、二人の交際は始まった。
 これがドラマだったら、その上司をコテンパンにとっちめるのだろう。だが現実には、二人揃って左遷されただけだった。
 結局会社には居づらくなり、二人して退職。優斗は兼ねてよりの夢だった、翻訳の仕事を始めたのだ。
 収入は下がったが笑顔は増えた。独立も捨てたものではない。最初は心配で仕方がなかったが、最近は仕事も順調みたいだし、親としては見守って行くしかないと思っている。

 それはそうと分娩室に入ったという事は、いよいよもって出産だ。電話はまだかと時計の針が気になり始める。
「生まれる時ってあっという間だよな? もしかしてもう生まれたんじゃないか?」
 ほぼ空になった皿のキャベツをかき集めながら、俺は言った。妻はと言えば、既に食べ終えて食器をシンクに運んでいた。平静を装ってはいるが、その行動、いつもよりテキパキとしている。きっとのんびりテレビ、という気分になれないのだろう。
 事実俺もまた、いつもよりもそわそわしている。重ねた食器を桶に漬けたはいいが、いつもみたいに新聞に手が伸びない。
 夫婦揃って食卓に座って向かい合う。シンと静まり返った部屋の中では、時計の音がやたら大きく主張する。流石に緊張し過ぎだろう、と気晴らしにテレビでも点けようとした時だった。
 トゥルルルル
 突然、部屋の電話がけたたましく鳴り響いた。
「優斗じゃないかっ?」
「お父さん、落ち着いて」
 妻がテーブルに手を突いて立ち上がる。そしてそそくさと電話機へ向かうと受話器を耳に当てた。
「はい、斉藤です。……うん。百合さんは?……そう。おめでとう」
 それだけ言って、静かに受話器を置いた。俺は居ても立っても居られず、意味もなく立ち上がった。こちらを向いた妻の顔は、満面の笑みを浮かべていた。
「女の子。母子共に元気だって」
「そうか……っ」
 男の子しか育てて来なかった事もあり、何とも不思議な感じがする。孫は目に入れても痛くない程に可愛いと聞くから、今から逢える日が楽しみで仕方がない。
 気付けば涙腺が緩んでいた。妻の手前、恥ずかしいぞと、目をパチパチとさせて何とか誤魔化す。
 そしてリビングボードに視線を向けた。そこには、とっておきの日の為にと、ちょっと高価なお酒を飾っている。
「なあ、一杯やらないか」
「いいわね」
 そう言いうと、妻はあうんの呼吸でリビングボードの扉を開けた。そして一本のボトルを取り出した。
 優斗が生まれた年に取れた葡萄で作ったワインだ。
 前に飲んだ時は、優斗の二十歳の誕生日だった。あの時は優斗がいたが、今回は夫婦二人でそれを飲む。
 俺は食器棚からワイングラスを二つ取り出し、それをテーブルに置いた。トクトクと、瓶から注がれる瑞々しい赤色が、新しい命を祝福する。
 俺はワイングラスを手に取ると、それを掲げた。妻も同じ様にして俺を見ている。
「いよいよ、おばあちゃんだな」
「あなたこそ、おじいちゃんね」
 今まで色々な事があった。これからもきっと色々ある。そうやって、俺達は命を繋げていく。
 ご先祖様達が積み上げて来た想いを胸に。
 これからを担う新しい命に。
 ーーー乾杯。


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