青と黄色とサラバンドじいさん

文字数 2,178文字

 7月中旬のある日。都内のとある駅前で、1台のストリートピアノが、私の目に留まった。
(これがうわさのストリートピアノか…)
 もし私が中高生だったら、「エリーゼのために」とか「乙女の祈り」をこの場で演奏したかもしれない。駅近くを通る人たちも、誰かが弾くのを待つかのようにそのストリートピアノを眺めたり、チラ見するにとどまっていた。

 そうしていると、青い服を着た恰幅の良い老人が、バイク運転用と思われる手袋を外して胸ポケットにしまうと、ピアノの椅子に腰掛けた。通行人たちは、「えっ?」と言うような顔をして、その老人を不思議そうに見つめた。何と、彼はゲオルク・ヘンデルの「サラバンド」を演奏し始めた。メロディーの感じから判断して、曲の後半だろう。それでもしっかりと曲になっている。その外見からは想像できないほど上手に演奏する彼の姿が珍しいのか、聴衆は次第に増えていった。
「えっ、やば」
「おじいちゃん、すごくね?」
 小声ながらも、ギャラリーはその高齢の演奏者を口々に褒めた。スマホで動画を撮る青年や、恋しているような眼差しを送る女性二人組も居た。
 私?私はと言うと、勝手に撮るのは失礼だと考えて、演奏を聴きながら、彼の両手と顔を見つめていた。彼は左手に青色と黄色のシリコン製のリストバンドを着用しており、それぞれに「Pray for U」と書かれていた。また、今日会ったばかりの人のことは何も分からないけれど、二重まぶたと厚めの唇から、この人も昔は美男だったのかも…と想像した。
 それはともかく、彼の演奏はメロディーの強弱が絶妙で、緩やかでありながら荘重、そしてどこかドラマチックな雰囲気を感じる。
(このおじいさん、若いときから「サラバンド」を弾いてたのかしら…)
 そんなことをぼんやり考えていると、クレシェンドと同時にリタルダンドになり、曲は静かに終わった。

 青い服の老人は鍵盤から手を離すと立ち上がり、右、前、左と向きを変えながら3回ほど軽いお辞儀をした。私をはじめ聞いていた人々は、「あなたの演奏を聞けてよかった」という気持ちを込めて大きな拍手を送った。
「いいもの見たわ~」
 私は自分にしか聞こえない声でつぶやき、一人でふふっと笑った。

 ― しかし数分後、和やかな空気はもろくも崩れ去ることになる。



 私が向かっていた方向から、誰かの叫び声が聞こえた。
(え?今の声は何?)
 私は突然のことにあっけに取られていると、瞬く間に一カ所に人だかりができた。私も取りあえずそこに行ってみると、衝撃の光景を見た。
 何と、先ほどストリートピアノで「サラバンド」を弾いていたあの老人が、地面に両手を突いていたのだ。さらに悪いことには、彼の背中が数カ所焼けただれており、シャツの背中に穴が開いていた。私は思わず細く甲高い叫びを上げた。
(なぜ…なぜ…)
 青い服の老人は、キャスケット帽を被った小太りのおじさんに話しかけられており、何度かうなずいていた。私はその二人を遠巻きに見ながら、
(あのおじいさんが大変な状態だというのに、私は何もできない…。あのおじいさんが、このまま動けない体になって、二度とピアノを弾けなくなったら…)
 などと考えているうちに涙をこらえきれなくなり、避難するように近くの建物の中に入った。
(なぜ…なぜ…素晴らしい演奏を披露してくれた人が、あんな残酷な目に遭ってしまったの…?)

 この悲劇は、その日のうちに全国ニュースで報道された。被害者のあの老人が一命を取りとめたことを知って、私はひとまず安心した。そしてSNSを見ると、「トレンド」欄には「サラバンドじいさん」と言うのんびりワードのほか、「アシッドアタック」と言う物騒なワードが載っており、「じいさん相手に、ひでえなこれ」とか、「これ、後ろから何発もやられたのに近いからなぁ。防ぎようがないよ…。怖い」などという書き込みがちらほら見られた。さらにバズっていたのは、事件の起きる前、ストリートピアノで「サラバンド」を演奏する被害者を撮った動画だった。私は胸が締め付けられるような感じがして、すぐに画面をスクロールした。
 ベッドの中に居た間、ずっと涙が止まらなかった。私は当事者じゃないはずなのに。


 さらに数日後、事件は予想外の展開を迎えた。あのとき「サラバンドじいさん」を襲った犯人が一人の男子大学生に横方向から薬品をかけたところ、別の通行人に通報され、そのまま逮捕されたのだ。何と彼は、現在進行形で内戦下にある国の出身者だったのだ。そしてその動機は、誰もが耳を疑うものだった。

「東欧ノ国バカリ応援シテ、私ノ国ヲ応援シテクレナイ。気ニ入ラナイ」
「青色ト黄色ノ物ヲ身ニ着ケテル人、気ニ入ラナイ」

 この話は即座にマスコミやSNSに拡散され、多方面の著名人がコメントを出した。その大多数が、東欧の国への嫉妬に駆られた加害者を非難するものだった。私も犯人の動機をテレビ経由で知って、あることを思い出し、背中がうすら寒くなった。

 「サラバンドじいさん」は加害者に襲われた日、青色と黄色のシリコン製のリストバンドを着用していたのだ。

 私は部屋で一人、絞り出すようにつぶやいた。
「そんな理由で、人を苦しめるの…?」



※この物語はフィクションです。登場人物は全て架空の存在であり、実在のものとは一切関係ありません。……多分。
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