第1話

文字数 4,026文字

 寮の屋上の上には洗濯物がいくつか並んでいて、春の風に吹かれていた。遠くに太陽が沈んでいこうとしていて、オレンジ色の光に辺りが照らされている。どこか憂鬱な煙草の煙が空へと消えていく。僕は煙草の煙を吸っては吐いていた。家々が遠くまで連なっていて、この世界にはたくさんの人がいることを知る。そんな無数の人たちの中に僕がいると思うと、自分はちっぽけな存在かもしれないと思うのだった。風は冷たくて、ティーシャツ一枚しか上に着ていなかったので、もう少し何か着てくればよかったと考えながら、煙草の味を楽しんでいた。いつも見てきた風景なのに久しぶりに見るとなんだか印象が違うような気がした。
「ねえ」
 声がしたので振り向くと、そこには佐々木京子が黄色のポロシャツを着て立っていた。
「何?」
「いったいどこに行ってたのよ?」
 彼女は真剣に僕のことを見ていた。その目はどこか冷たい気がした。
「徒歩で旅行に行っていたんだよ」
「旅行?」
 彼女はポケットから煙草の箱を取り出して、煙草に火をつけた。僕は吸っていた煙草を地面に落として靴でもみ消した。僕らがこんな風に煙草をここで吸っているせいで、あちこちに煙草の吸殻が散らばっていた。
「徒歩で九州まで旅行していたんだ」
「一か月もいなかったから、病気か事故にでも遭ったのかと思った」
 京子は煙草の煙を吸い込んで吐き出した。僕は何となく気まずい思いをしながら、沈んでいく夕日を眺めていた。
「京子は春休み、何かしたの?」
「二週間、実家に帰ってたんだ。でも行く前も帰ってきた後もいなかったからさ。何度か連絡したんだけど」
 僕はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見ると、確かにいくつか連絡が来ていた。僕は別の考え事に夢中になっていたので、今まで気が付かなかった。
「携帯は見ないようにしていたんだ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」
「疲れているように見えるけど」
 僕は一か月間の旅行のことを思い出した。こうして帰ってきてしまえば問題はなかった。でも旅行の間、感じていたことはきっと誰にも話さないだろうなとも思った。
 京子は僕の側までやってきて、手すりにもたれかかった。僕はそんな彼女の様子を見ていた。
「なんか最近変じゃない?」と彼女は言った。
「そうかな?」
「あんまり思いつめない方がいいよ」
 彼女はそう言うと、階段に向かって歩いて行った。僕は夕暮れの街の景色を見ていた。

 一年半勤めていた会社を辞め、予備校の講師をしていた頃、季節は冬で、駅には雪が降っていた。今日は休日で、大きな本屋で参考書を買おうと思っていた。ホームに降り立つと、粉雪が舞っているのが見えた。僕はその時、大学生の頃に一か月の旅行をしていたことを思い出した。あの時、僕は憂鬱で、それを紛らわすために旅に出たのだった。しかし、会社員をやっていた頃も、その憂鬱が消えることはなかった。まるで足枷のように、それは僕にへばりついていた。だから会社を辞めることにして、比較的時間に余裕のある予備校の講師を始めた。給料は下がったが、仕事はおもしろかったし、僕には向いているような気もした。ただ予備校と住んでいるマンションを往復する毎日で、特に親しい人もいなかった。寂しさは感じなかったし、あの頃のような憂鬱もあまり感じなくなっていた。僕はここ最近になって、ようやく自分の人生に満足できるようになった。
 ホームから階段を下りて行こうとしたとき、見覚えのある人を見かけた。それは大学生の頃の友達の佐々木京子だった。僕が彼女の方を眺めていると、視線が合った。
「久しぶり」と僕は言った。
「久しぶり」
「まさか、こんなところで会うなんて」
 僕は久しぶりに彼女に会えたことがなんだか嬉しかった。大学を卒業してから、ほとんど連絡は取っていなかった。
「偶然だね」
 彼女はそう言って笑ったが、どこか表情はぎこちなかった。
「今日は仕事?」と僕は聞いた。
「ううん。休みだから、ここに来たの」
 僕も彼女も今日の予定は特になかったので、久しぶりに会ったということで、僕らはカフェに行った。店内はクラシック音楽がかかっていて、落ち着いた雰囲気だった。テーブル席に座ると、カフェラテを二つ注文した。外は相変わらず雪が降っている。
「圭介は今、何をしているの?」と彼女は聞いた。
「予備校で講師をやっている」
「そっか。私も会社を辞めて、今はバーテンダーをしているんだ」
 カフェラテが運ばれてくると、僕らはそれを飲んだ。客席は半分ほどが埋まっていて、多くの人が会話をしていた。
「なんか、少し疲れた顔をしてない?」と僕は聞いた。
「いろいろあったからね」
 彼女はやるせなさそうに微笑んで、カフェラテのカップに口をつけた。僕は窓の外の景色を眺めていた。雪はさっきよりも強くなったようだった。白い雪に辺りが包まれている。少しだけ幻想的な雰囲気に感じた。

 ワンルームのマンションの部屋の中で、ウイスキーを飲んでいた。僕の脳裏には何度も佐々木京子の顔が浮かんだ。ウイスキーの酔いで少し朦朧としていて、これまで感じたことのない寂しさがしていた。いったいなんで僕は生きているのだろうと改めて考えた。大学生の頃、周りにいる人々にわずかな恐怖を感じていた。世界は自分にとって怖い場所で、僕はどこにも逃れることはできなかった。どこかへ行けば、気分が紛れるかもしれないと、一か月間の旅行をしてみた。でも結局現実はずっと変わらなかった。ある種の落胆も感じたがとにかくそこを通り抜けるしかないのだとも思った。会社に入ってからも、大変な目に遭ってきたが、結局今になってなんだか解放された気がするのはなぜだろう。今まで僕を切り離した現実が僕を突如として受け入れたような感じだった。
 スマートフォンが振動していたので、僕は電話に出た。
「もしもし」と低い声がした。
 その声は大学生の頃の友達の中里修だった。彼は在学中からバンド活動をしていて、今はミュージシャンをしている。テレビなどに出るほど有名ではないが、一定数ファンがいるらしい。
「久しぶりだな」
 なんだか最近は昔の知り合いに会うことが多い。
「元気だったか?」と彼は聞いた。
「最近は元気にやっているよ」
「今度同窓会をやるんだ。正式なものじゃなくて、ただ友達で集まるだけなんだけどさ」
「予定が合えばいくよ。今は予備校の講師をしているから、夜が埋まってしまうことが多くてね」
「そうか。そういえば最近は何かあった?」
「佐々木京子と偶然会ったんだ。なんだか元気がなさそうだったけど」
 僕がそう言うと、中里は一瞬沈黙したような気がした。部屋の中は静かで、冷蔵庫の稼働音が聞こえるほどだった。
「いろいろあったみたいだよ」
 彼は深刻そうに言った。
「いろいろ?」
「付き合っていた彼氏が事故で亡くなったらしい」
 僕はその時、京子に元気がなかった理由がわかった。
「そうだったのか」
「高校生の頃からの恋人だったみたいでさ。そりゃあショックだよな」
 僕らはその後も話をして、電話が切れた。僕は京子に彼氏がいたことはなんとなく知っていたが、その人が亡くなったことは知らなかった。ウイスキーをもう一度飲み、自分の意識を感じる。京子は今どんな風に過ごしているのだろう。きっと僕の感じている寂しさとは比べ物にならないほど辛いのだろう。その時、ある音楽を思い出した。僕はその旋律を何度も頭の中で繰り返した。

 冬は静かに過ぎていった。そしてまた春がやってきた。僕は仕事をしながら、徐々に自分が楽になってきていることに気が付いた。空いた時間には資格の勉強も始めた。世界が暖かくなるに連れて、自分の心境もよくなってきた気がした。仕事が終わった日の夜に、駅の前には佐々木京子が立っていた。前日に連絡があって、話をすることになった。僕らは住宅街の道を歩いて行った。
「中里君から連絡があったんだ。同窓会の話」
「その日は行けることになったよ」
「私も行こうかなと思ってね。私の彼氏が亡くなったことは知っているでしょ?」 
 夜の街は静かで、街灯の光に地面が照らされている。僕はなんだか懐かしい気持ちになっていた。
「中里から聞いたよ。大変だったね」
「なんだか人生が終わってしまったような気がしてね。会社を辞めて旅に出たんだ。圭介が大学生の頃にしたみたいに。さすがに徒歩ではなかったけど。その間、ただ悲しかったの。私はその間、たくさんのことを考えた。でもどうやったって、彼は帰ってこないからね」
 僕は恋人を亡くした経験はなかったが、なんだかその話には不思議と共感できるような気がした。
「僕も旅をしたときは辛かったんだ」
「でも、時間が経って少しずつ前向きになることもできた。その時はそんな風に考えられなかったけど」
 歩いた先には大きな公園があった。夜だったので、中には人がいなかった。中心には芝生が広がっていた。僕らはそこに入り、ベンチに座った。空にはまばらに星が浮かんでいた。僕はそんな広大な光景を久しぶりに見た気がする。
「いろいろあるけどさ、なんとかなることもあるよ」
 僕はそう言って、背伸びをした。深呼吸をするとわずかに草の匂いがした。
「ねえ、中里君の曲、聴いた?」
「いや、まだ聴いてない」
「結構よかったよ。もしかしたら将来テレビに出るかも」
「そうだったらいいよね」
 夜の時間は静かに過ぎていった。月が淡い光を放ち、じっとこちらを見ているかのようだった。あの日、屋上で見た夕日の景色が何度も頭の中に浮かんでは消えていった。過ぎていく日々の中で様々なことを感じる。空を眺めていると、僕自身もこの宇宙の一部なのだろう。きっと塵のように些細な存在なのかもしれないが、でもそこには様々なことがある。京子は立ち上がり、背伸びをしていた。その目は少し潤んでいるように見えた。僕の脳裏にはまた音楽が浮かんできた。その音は僕の脳内からどこまでも広がっていくような気がした。
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