酒場にて
文字数 1,988文字
ひとめ惚れというのは異性に対するものだけじゃなくて、洋服や靴など身につける物にもあるし、飲み屋にもある。
およそ十年前、磯部新 が初めてこの店の暖簾をくぐったのも、店構えにひとめ惚れしたからだ。昭和を思わせる細い路地に、くすんだ赤い暖簾と格子戸を見かけたとき、居心地が良さそうだなと直感した。しかし、飲み屋に一見 で入るのは磯部にとって敷居が高いものだった。常連さんしかいない空間に余所者 が誤って紛れ込んだときのバツの悪さといったらない。できれば避けたいものだ。とはいえ、朝から蒸し暑い一日だったこともあり、喉の渇きと流れる汗に耐えられず、勇気を出して格子戸を引いた。
それから十年。数え切れないほどこの店で飲んだのだが、しばらく休業するとの噂を耳にして、およそ半年ぶりに顔を覗かせた。磯部は半年前に引っ越したことで路線が変わり、足が遠のいていたのだ。
「いらっしゃい。おっ、イソさん。しばらくです」
「どうも、お久しぶりです」
磯部はバツが悪そうにカウンターの右端に腰を降ろした。L字型のカウンターが八席、二人掛けのテーブル席が二席のこじんまりとした店だが、この狭さが妙によかった。
先客の益子 さんに生ビールのグラスを掲げて乾杯した。磯部は二人揃っているなと安心した。二人はある日、鳥のから揚げにレモンをかけるか否かで言い争いになった。二人が付き合う前の話だ。益子さんがかおりんのから揚げに勝手にレモンをかけたことで論争が勃発した。かおりんが整った眉をつりあげて「イソさんはどっちの味方なんですか?」と巻き込まれたので、よく覚えている。ただ、このことがきっかけで二人は飲み歩くようになり、現在 に至るというわけだ。
磯部が焼酎に切り替えたところで、長濱 さんが現れた。長濱さんは日本酒通で、利き酒師の資格も持っている。暇ができると各地の酒蔵まで足を運ぶほどの通なのだが、初対面のときに磯部がうっかり日本酒の話を持ち出したことで、延々と聞き役に回り何十分も尿意を我慢した苦い思い出がある。しかし、おかげで日本酒と味噌の絶妙な味わいを知ることができた。焼き味噌の香ばしさとねぎの風味や、甘味のある白味噌をちびちびと頂く贅沢は、長濱さんと出会わなければ知らなかった。こうして世界が広がることが、磯部が飲み屋通いをやめられない理由のひとつだ。
「イソさん元気でした?」
と、ジョッキを片手に永ちゃんが隣に腰を降ろした。
「永ちゃんこそお元気そうで」
そう返しながら磯部は、永ちゃんの近況が気になった。矢沢永吉命の永ちゃんは熱い男だ。あるときからスパイシーカレーにどハマりし、自ら何十種類ものスパイスを使ったカレーを作るようになり、常連が試食に付き合うようになった。
「美味しい!」
「深みがある」
「店出せるよ」
こうした賞賛の声を真に受けた永ちゃんは、大手企業のエンジニアの職を捨てて退職金を突っ込みカレー専門店をオープンしたが、二年で閉店するに至った。スパイスに凝りすぎて採算が合わなかったのと、なによりカレーというレッドオーシャンは、生半可では厳しかったのだ。
磯部は内心では、店を出してやっていけるほどの味かなと思う節もあったが、正直に伝える勇気がなかった。それがずっと心に引っかかっていた。
今はタクシーの運転手で生計を立てている永ちゃんに、
「最近どうですか、景気は?」と訊くと、
「まあぼちぼちかな。それよりも最近蕎麦打ちにハマってね」と、笑顔で返されて、次は正直に言おうと心に決めた。
気がつけば店内は満席で、店の外で立ち飲みしているお客さんもいた。
「みなさんこの店好きなんだね……大将、早く良くなるといいね」
隣の長濱さんの言葉に、磯部は「えっ?」と聞き返した。
「ガンが見つかったらしいよ。三年前に奥さん亡くしてから元気なかったけど、人生色々だね……」と、長濱が声を落とした。
それで痩せて見えたのかと、磯部は腑に落ちた。元々この店は奥さんと二人で回していたのだが、奥さんが病気で亡くなってからは大将ひとりで切り盛りしていた。しかも、折り合いが悪かった一人息子とも、奥さんがいなくなったことで益々疎遠になったようだと噂で聞いていた。
磯部がしんみりと店内を見渡すと、磯部の心持ちとはうらはらに、みな笑顔でほんのり顔を赤らめて心から楽しそうだ。そこかしこから笑い声が漏れ聞こえる。
「大将、今日は何時まで?」
磯部が尋ねると、「みなさんが酔いつぶれるまでですかね」と、目を細めた。
「大将、ゆっくりされて、いつかまたお店を……」
と、磯部が言いかけたとき、カラカラと格子戸が開いて若い男が入ってきた。
「おまえ……」
驚いたような大将を他所目 に「親父、手伝うよ」と、息子。
「とりあえず洗い物 ?」
お互いに目を合わせない父子を肴に磯部は冷酒をちびりとやり、やはり居心地がいいなと微笑んだ。
およそ十年前、
それから十年。数え切れないほどこの店で飲んだのだが、しばらく休業するとの噂を耳にして、およそ半年ぶりに顔を覗かせた。磯部は半年前に引っ越したことで路線が変わり、足が遠のいていたのだ。
「いらっしゃい。おっ、イソさん。しばらくです」
「どうも、お久しぶりです」
磯部はバツが悪そうにカウンターの右端に腰を降ろした。L字型のカウンターが八席、二人掛けのテーブル席が二席のこじんまりとした店だが、この狭さが妙によかった。
先客の
かおりん
と磯部が焼酎に切り替えたところで、
「イソさん元気でした?」
と、ジョッキを片手に永ちゃんが隣に腰を降ろした。
「永ちゃんこそお元気そうで」
そう返しながら磯部は、永ちゃんの近況が気になった。矢沢永吉命の永ちゃんは熱い男だ。あるときからスパイシーカレーにどハマりし、自ら何十種類ものスパイスを使ったカレーを作るようになり、常連が試食に付き合うようになった。
「美味しい!」
「深みがある」
「店出せるよ」
こうした賞賛の声を真に受けた永ちゃんは、大手企業のエンジニアの職を捨てて退職金を突っ込みカレー専門店をオープンしたが、二年で閉店するに至った。スパイスに凝りすぎて採算が合わなかったのと、なによりカレーというレッドオーシャンは、生半可では厳しかったのだ。
磯部は内心では、店を出してやっていけるほどの味かなと思う節もあったが、正直に伝える勇気がなかった。それがずっと心に引っかかっていた。
今はタクシーの運転手で生計を立てている永ちゃんに、
「最近どうですか、景気は?」と訊くと、
「まあぼちぼちかな。それよりも最近蕎麦打ちにハマってね」と、笑顔で返されて、次は正直に言おうと心に決めた。
気がつけば店内は満席で、店の外で立ち飲みしているお客さんもいた。
「みなさんこの店好きなんだね……大将、早く良くなるといいね」
隣の長濱さんの言葉に、磯部は「えっ?」と聞き返した。
「ガンが見つかったらしいよ。三年前に奥さん亡くしてから元気なかったけど、人生色々だね……」と、長濱が声を落とした。
それで痩せて見えたのかと、磯部は腑に落ちた。元々この店は奥さんと二人で回していたのだが、奥さんが病気で亡くなってからは大将ひとりで切り盛りしていた。しかも、折り合いが悪かった一人息子とも、奥さんがいなくなったことで益々疎遠になったようだと噂で聞いていた。
磯部がしんみりと店内を見渡すと、磯部の心持ちとはうらはらに、みな笑顔でほんのり顔を赤らめて心から楽しそうだ。そこかしこから笑い声が漏れ聞こえる。
「大将、今日は何時まで?」
磯部が尋ねると、「みなさんが酔いつぶれるまでですかね」と、目を細めた。
「大将、ゆっくりされて、いつかまたお店を……」
と、磯部が言いかけたとき、カラカラと格子戸が開いて若い男が入ってきた。
「おまえ……」
驚いたような大将を
「とりあえず洗い
お互いに目を合わせない父子を肴に磯部は冷酒をちびりとやり、やはり居心地がいいなと微笑んだ。