第1話

文字数 11,949文字

 其の神、未だ嫁がぬ娘を食らひけり。

 話に興味をそそられ、男は縁側でかしこまっている翁を見つめた。庭先の犬たちが耳を立て、黒曜石のように光る目を注ぐ。それらの赤や黄、黒といった毛色は、よどんだ雲間からの陽でくすんでいる。翁は垣根の外をうかがい、声をひそめて続けた。
 それによれば、この村の神社には、猿の姿をした神が祀られているという。
 猿神は、かつて祀られていた蛇神を追い出し、数多の猿を従えてこの国を我が物としている。そして毎年の祭りの日には、白羽の矢を立てられた生娘を捧げなければならない。これを拒もうものなら、小川の水が涸れ、田畑が干上がってしまう。かつて生け贄が駆け落ちしたときには、村中が飢え死にしかけたと伝えられている。それゆえ、この村は昔から猿神の言いつけを守り続けてきたそうだ。
 そしてこのたびは、翁の一人娘が選ばれてしまった。昨年の祭りの日に白羽の矢を立てられたのだ。翁は自分の後ろに控える、泣き濡れた媼をちらと振り返った。
 いつかはと恐れてはいましたが、いざそうなると目の前が真っ暗になってしまいました。大した家柄ではありませんが、なにしろ大事な一人娘、名のある殿方に嫁がせようと大事に育ててきたというのに……しかし昔からの決まりですから、あきらめるより他ありません。そう言い聞かせて養ってきましたけれども、一月経ち、二月経ち、祭りの日が近付くにつれて無念でならないのです。
 なるほど、と男はたくましい腕を組んだ。
 縁側に腰かけたこの男は、よその国からの狩人で、たくさんの犬を飼ってそれらに猪や鹿などを食い殺させている。身の丈は六尺ほどの、がっしりとした体つきで、ひげ面のまなざしにはどことなくただならぬものを感じさせる。猟のためにこの村を訪れ、獲物のことで家々を回っていたところ、このような話を聞くことになったという次第だ。
 それは、なんとも災難なことです。
 男は、気の毒がってみせた。そのような悪神がいるのならば、狩りにも差し支えるかもしれない。とくに猿たちの縄張りだという山には足を踏み入れない方がいいだろう。いずれにせよ、長逗留はできそうもなかった。ところで、神に生け贄として選ばれるとは、一体どのような娘なのであろうか。
 とそのとき、家の中から草鞋をつっかけてきたものがある。
 男は、縁側から腰を上げた。犬たちが目の色を変え、尻尾をぴんと立てる。
 凜と立つ、鮮やかな影が目に焼き付いた。
 雪を欺く肌で、すらりとして、黒髪の滝が肩に掛かっている。年の頃は十六、七くらいだろう。くっきりとした目が斜にこちらを見ていた。着ている小袖が唐衣のように感じられる。男は一目で察した。これまであちこちの土地を巡ってきたが、こんな田舎の、この翁媼の子とは思えなかった。
 ふと男は、かつて仕留めた雌鹿を思い出した。珍しく白い毛をしていて、同じようにまぶしかった。犬たちをけしかけ、どこまでも追ってとうとう息の根を止めた。あのときの肉の美味は言葉に表すことができない。わいた唾を飲み込み、男は娘を見つめた。飢えてでもいなければ人を食するつもりはないが、はたしてこの娘はどのような味なのだろうか。
 犬たちが騒ぐと、さっと娘は駆け出していった。男は思わず後を追いそうになった。犬たちをとどめ、その姿が森の方に消えていくのを見て、落ち着き払って腰を下ろす。
 あれが当家の娘でございます。
 ため息をつき、翁はそう言った。その後ろからすすり泣きが聞こえる。
 手習いに飽きたのでしょう。ああしてすぐ森に行くのです。たったひとりの娘をなぜ奪われるのか、どのような因果だというのでしょうか。
 宝を奪われるかのごとく、翁は口惜しがった。
 娘御は逃げたりしないのですか。
 男が問うと、翁は身震いしてかぶりを振った。
 そのようなことは考えたくもありません。娘にはよく言って聞かせております。これは村のしきたりであって、従わなければみんながひどい目に遭うのだと。それゆえ分かってくれてはいるようです。
 また腕組みをして、男は考え込んだ。そして重々しく口を開いた。
 この世に命にまさるものはなく、親にとって子にまさる宝はないでしょう。大切な一人娘をなますにされるというのは、どれほどつらいことかわたしには想像もつきません。
 男はちらと、娘の影を思い浮かべた。
 娘御をわたしにいただけますでしょうか。
 翁は理解しかねて、男の顔を見つめた。男はそれを見つめ返した。
 わたしが娘御をお守りしましょう。その代わりと言ってはなんですが、娘御をもらい受けたいのです。あれほどの宝、むざむざくれてやるのは実に惜しい。食われるさだめにあるならば、わたしに任せてくださっても損はありますまい。
 そんな、そのようなことを言われましても。
 翁は戸惑って、いっそう声をひそめた。
 お話ししましたように、娘を捧げなければ村がひどい目に遭うのです。どうしてあなたの嫁になどできましょうか。
 あなたにとっては、娘御はかけがえのない宝ではないのですか。
 詰めるように、男はたたみかけた。
 生きていれば、孫という宝をたくさん産むことでしょう。このようなことは、やめさせなければなりません。わたしに考えがあります。
 一体どうするおつもりなのですか。相手は神なのですよ。ああ、恐ろしい。
 それならば、あなたは娘を食われても構わないのですか。どれだけつらいことかとおっしゃっていたではありませんか。災いくらいなんですか。一人娘を奪われる以上の苦しみがあるのですか。
 陰で媼が泣き伏す。翁はそれをとがめ、しわの寄り始めたこぶしを膝で固めた。
 しかし、あなたに娶らせたと知られたら、村の者からどのようなそしりを受けるか分かりません。
 それについては伏せておいてください。ことが成就した暁に、晴れて夫婦となりましょう。
 本当に、うまくやっていただけるのでしょうか。
 男は自信ありげにうなずいた。
 悪いようにはしませんよ。それでは、わたしは犬たちとこの屋敷で厄介になります。村の者たちには、借り入れを手伝ってもらうとでも言ってください。
 翁は引き込まれ、娘が助かるならばと承諾した。おぼれる者は藁をもつかむ。大事な宝を、さらなる宝を生む宝を奪われるくらいなら、男に賭けてみてもいいと思ったのだ。それにこの男は一角の人物のようだし、村の土臭い男どもと比べても婿として悪くなさそうだった。
 その日の晩、翁は娘に男の妻となるよう言った。
 正座をした娘は、それを黙って聞いていた。
 柱の陰からうかがっていた男は、娘が口答え一つしないことに満足した。一言二言あるかと思っていたが、夫婦となることに異存はないらしい。
 そして娘は寝屋に来た。威儀を正して褥のそばに座り、あぐらをかく男と向き合った。灯りに赤々と照らされ、娘の陰影はいっそう濃くなっている。両の目では小さな火が燃えていた。
 わたしは、あなたの妻になったと聞きました。
 うむ。
 口元を引き締め、男は威厳をもって答えた。一回りは年が離れているのだし、夫らしく振る舞わなければならない。
 社の神から救ってくださるとのこと。
 そうだ。おれのこの命を賭して果たそうぞ。
 男は胸を張り、恩を売るように言った。
 お願いがございます。
 お願い?
 わたしには、お触れにならないでください。
 うん?
 生け贄のことがある限り、あなたと契ることはもちろん、触れられることさえも猿神の怒りを買いかねません。
 確かに、それはそうかもしれんな。
 黒いひげをこすって、男はもっともそうにうなずいた。契りはしないにせよ、手を握るくらいはと思っていたので、ぶすぶすとくすぶってしまう。しかしそう釘を刺されなければ、手だけでは済まなかったかもしれない。それほどまでに娘には、食らいつきたくなるものがあった。
 そのようなつもりは毛頭ない。村のことを思えばこそ、おれは生け贄をやめさせようとしているのだから。
 ありがとうございます。
 娘は丁寧に頭を下げた。
 しかし、あらためて言っておくが、お前への気持ちにうそ偽りはない。お前ほどの娘にはそうそう出会えないだろう。あの獲物、かつて仕留めた白い雌鹿のように気高く、そしてなんとも美しい。
 恐れ入ります。
 娘は深く頭を下げ、灯火の彩りを黒ずませた。花にでもたとえればよかったな、と男は内心苦笑いをした。犬たちで狩りをする日々ゆえ、こういったことは不慣れだった。ともあれ、こうして仮の夫婦になることができた。生け贄のことが解決すれば、誰はばかることなく夫婦になれる。そのためにも猿神をどうにかせねばなるまい。
 翌朝、男は犬たちの鳴き声で目を覚ました。
 獲物に高ぶっているようでもあり、仲間とはしゃいでいるようでもある。急ぎ起きて縁側に出てみると、振られる尻尾に娘が囲まれていた。野の花のように微笑んでいる。こんな顔もあるのか、と男は見とれた。見れば縁側に父母もいて、娘と犬たちとをぽかんと眺めている。娘はまなざしに気付いて、かしこまって挨拶をした。
 可愛い子たちですね。
 自慢の犬どもじゃ。
 男はうなずいた。犬たちを褒められて悪い気はしない。
 どの子も傷が多いようですが、狩りに使っておられるのですか。
 そうだ。おれの代わりに獲物を追ってかみ殺してくれる。兎のようなものならともかく、猪相手となればこいつらも命がけよ。深手を負って命を落とすこともある。そうした修羅場を乗り越えてきた、頼もしい強者どもなのだ。
 かわいそう。
 犬たちを見ながら、娘はそうつぶやいた。狩りというものに眉をひそめているようだった。男はいささかむっとしたが、若い女子らしい感傷だと大目に見てやった。しかし自分の妻となったからには、いずれ狩りにも慣れてもらわなければならない。
 森を歩いてきます。
 そう夫と父母に言って、娘は草鞋を駆けさせていった。その後を、ふたつの影が追おうとする。とどめてみれば、双子の白い犬だった。犬たちの中でも一番若い、雄と雌である。好奇心の強い年頃ゆえだろう。娘の後ろ姿を目で追う男に、翁がためらいがちに話しかけてきた。
 昨夜は、間違いはありませんでしたでしょうな。
 男はにらんだ。翁は慌てて、言い訳がましく付け加えた。
 むろん、そのようなことはないと信じております。ところで、どうするおつもりなのか教えていただけませんでしょうか。
 生け贄のことですか。
 そうです。
 男は答えず、庭に下りて犬たちを集めた。若い犬から盛りの犬まで十数匹、毛の色も様々である。不具になったり老いぼれたりしたものはいない。その都度始末してきたからだ。一匹一匹を見ていって、男は先ほどの白い双子を選び出した。まだ若いけれども賢く、血気盛んで勇ましい。
 そして男は双子を従え、実り始めた稲穂を横目に村人から生け贄のことを聞いて回った。それによれば、祭りの日に生け贄の娘を長櫃に入れ、村にそびえる社に運び込むのだという。娘を捧げた家の者にも話を聞こうとしたが、昨年のことにもかかわらず、村人たちははっきりと覚えていなかった。
 ようやく突き止めて話を聞いたところ、昨年に捧げた父親は、娘は村のため尊い犠牲になったのだ、とかみ締めるように語った。今年の娘も立派に役目を果たしてほしい、とも言った。生け贄は古くからの風習であり、村の者みんなで負っていくべきだ、という口ぶりだった。一昨年捧げた家も探したが、これはもうどこの家なのか分からなかった。
 双子を後ろに男は、中干しの田のひび割れを目でなぞった。考えてみれば、ずっと昔から生け贄を捧げてきたのである。どこの家でも娘を出したことがあるのではないか。それももはや当たり前になって、いちいち覚えているほどではないのだろう。ひょっとすると、ああして嘆いている翁媼も来年には娘のことなど忘れているかもしれない。
 おれは、そのようなことはないぞ。
 あれほどの器量の娘、妻を忘れられるはずがない、と男は、腰に差した狩刀の柄を握った。これまでに何度もとどめを刺してきた得物である。
 これで必ず、娘を守ってみせよう。
 そう決意を固くし、やはり、と男は思った。
 神を殺すより他なし。
 話し合うことなど、とてもできそうもない。取り引きをするにしても、あの娘の代わりになるものがあるだろうか。たとえうまく免れたとて、このならわしが続くとすれば、子や孫に白羽の矢を立てられるかもしれない。殺すしかないのだ。
 とてつもないことだったが、男の血はむしろたぎってきた。悪神を討てば、言い伝えにある英雄と同じく讃えられるだろう。悪しきものを退治したと語り継がれるのだ。翁媼はもちろん、村人たちもきっとおれをありがたがる。もう誰も生け贄にすることはない、水のことを心配することもないのだから。もし血迷ったとしても、犬たちがいれば手を出すことはできないし、いよいよとなったら妻を連れて村を出ればいい。おれが欲しいのはあの娘なのだ。柄を握りながらつらつらと考えて、娘が気になった男は森に足を向けた。
 まっすぐに伸びた木々の間はひんやりとして、おごそかですらあった。尻尾の後から草鞋で踏み入るほど、森の外が遠のいていく。なにやら寒気さえ覚えて、男は十重二十重の杉やヒノキに視線を巡らせた。どうもここは居心地がよくない。双子が一緒なのがありがたかった。翁によれば、娘は昔からよくここに入っていて、女子がこのようなところに、と叱りもしたそうだが、聞く耳を持たれないのであきらめたそうだ。そうした振る舞いは村人の間で気味悪がられ、変わった娘だとささやかれているという。白犬たちが尖った耳をそばだて、濡れた鼻をひくつかせる。
 どこからか草を踏む音がし、男は犬たちの後ろで狩刀の柄を握った。しかし白い毛は逆立ちはせず、尻尾はというと軽やかに振られている。
 現れたのは娘、その右手のものに男は目を見張った。
 蛇と見えた。一尺にも満たない小さな蛇。
 だが、瞬きすると短刀だった。白鞘に収まった、九寸ほどの刀。それを娘は小袖の懐にしまって、じっとこちらを見つめた。まなざしはいつになくくっきりとして、瞬きすらしなかった。その姿はまた、あのときの白い雌鹿とも重なった。
 それは、
 と男はただした。見なかったことにできるものとは思われなかった。
 その短刀はどうしたのだ。
 拾いました。
 どこで。
 この森の奥でございます。
 懐で短刀を握りながら、娘は答えた。嘘をついているふうではなかった。そうはいっても、このようなところに短刀が落ちているだろうか。ちらと見た限りでは、業物とは思われなかった。そのくせ、なにか容易ならざるものがある。
 その短刀を見せてくれないか。
 と右手を差し出したところ、短刀はさらに隠れた。そったまつ毛が瞳に被さる。強引にやろうとすれば、たちまち身を翻してしまいそうである。男は当惑し、さりとて手を引っ込めるわけにもいかず、慎重に近付くように言葉を継いだ。
 何も取り上げようというのではない。少し見せてくれればよいのだ。
 触れてはなりません。
 なに?
 これはわたしのもの。わたしの一部なのです。あなたはわたしに触れないとおっしゃった。ですから、触れてはなりません。
 きっぱりとしていて、男はあきれた。女子が短刀をどうしようというのか。
 なるほど。それはお前が見つけたものだし、お前のものなのだろう。しかしそれは、お前のような娘が持つものではない。危険な代物なのだ。おれが大事にしまっておくから、こちらに渡しなさい。
 これは、身を守るためのものでございます。
 娘はそう返した。
 あなたが腰に差しておられるように、わたしにもこれが必要なのです。野のけものに振るうのではありません。近くの山の奥には猿たちがおり、時折里を荒らしに下りてきます。あやつらは毎年毎年、猿神と一緒に娘を食っているのです。そのようなけだものと出くわしたときに得物がなければ、みすみすこの身を傷付けられかねません。
 もっともなことに思えた。男もこの村に来てから、猿のものらしい鳴き声を何度か聞いている。短刀くらいなら持たせておいてもよいのかもしれない。それにまだ正式な夫婦ではないから乱暴はできない。逃げられるような真似はしたくなかった。
 わかった。お前の言うことももっともだ。
 男は、理解あるふうに手を引っ込めた。
 ただし、それは危ないものなのだから、滅多に抜いてはいけないよ。
 心得ておきます。
 いつのまにか、白犬たちがそばで娘を見上げている。娘はしゃがんでそれらの胸を撫でた。今し方までの緊張は消えていた。こうしたところは女子らしい、と男は和んだ。
 双子の白犬は、娘が世話することになった。
 朝と夕に食事を与え、目やにを拭い、毛繕いをしてやる。娘が森に行くときは、護衛として同行した。山での狩りにも娘はついてきたが、猪などを襲うときにはいとわしげに顔を背けていた。感じやすいものだな、ととどめを刺しながら男は薄く笑った。もっとも、血を見るのが好きという女子もぞっとしないけれども。娘は勧められても肉を口にせず、普段も玄米や麦、雑穀、野菜などしか食べなかった。
 ずいぶんと清らかな、と肉をかみながら男は思い、娘の白い喉元をうかがった。猿神から禁じられているわけではない。しかし結果として、肉を食わない方が臭みはないだろう。娘の味について、男はたびたび耽った。そしてそのたびに懐の短刀が気になった。あれから考えてみたのだが、もしかするとあの短刀は授かり物ではないだろうか。社にはもともと蛇神が祀られていたが、猿神によって追い出されてしまったそうだ。それがあの森に潜んでいるらしい、という村人もいた。もしそうだとするなら、蛇神が娘をあわれに思って授けたのかもしれない。あんなものでも猿神を傷付けるくらいはできるだろう。
 面白くなってきた、と男は心強くなった。
 意趣返しであれ、蛇神の加勢は猿神退治の助けになるはずだ。
 娘にもおのれの心づもりを話して、男は双子の訓練にいっそう力を入れた。山に入っては獲物を仕留め、娘が小川で双子の口元を洗って、そうして連れだって帰る日が続いた。双子はずいぶんとたくましくなり、熊の喉笛をかみ切ることさえできそうだった。娘が捧げられる祭りは、日一日と近付いてくる。男は仕上げに入ることにした。
 その日、男は他の犬たちと山に出かけた。西の空が赤くにじむ頃、犬の一匹に呼ばれて娘と双子が行ったところ、あの森の中に男がいて、犬たちとなにやら取り囲んでいる。それを見て娘は目の色を変えた。
 猿だった。
 縄で縛り上げられ、手拭いで口を塞がれた一匹が草上でもがき、必死に声を上げようとしている。懐に手を入れ、娘は尋ねた。
 これは、どうしたことですか。
 山の奥で捕らえてきたのだ。
 こともなげに男は答えた。
 群れから離れていたのが運の尽きよ。おれが狙うのは猿神の首。そのためには、手下の猿どもを存分にかみ殺してもらわなければならない。
 そう言って、男は双子を呼び寄せた。ここならば、誰に見られることもないだろう。そのような場所を男は他に知らなかった。とらわれの猿は死に物狂いになった。犬と猿とは犬猿の仲といい、どうした因縁なのか仲が悪いのである。
 お前は、向こうに行っていなさい。
 男は娘を下がらせようとした。この先を見せるのはよくない、と思った。猿はなんというか、四つ足のけものとは少し違う。毛むくじゃらで顔と尻は赤く、尻尾もあるとはいえ、やはり人間と似ているところがある。見れば見るほどそれが目について、人間の男が縛られているようにも見えてくるのだ。それで男は娘に言ったのだが、娘は懐中のものを握ったまま、草を踏みしめて獲物をにらんでいた。
 ここで拝見致します。
 しかし、見るに堪えないぞ。
 承知の上です。
 顔を背けるいつもとは違っていた。夕紅に染まるそれはかたきを前にした目つきで、懐の手は押しとどめているようでもある。たくさんの娘を食らってきて、今度は自分を食らおうというけだものなのだ。憎くないはずはないだろう。男はため息をつき、立ち会いを許した。
 猿は娘にいきり立った。目をつり上げ、顔を真っ赤にして手拭いをかみ締めている。自分たちが食うはずだったものに憤っているのか、女子に辱められるのが我慢ならないのか、いずれにせよその有り様は実に醜かった。日暮れが近いこともあり、早く終わらせようと男は双子をけしかけた。
 白い影は猛然と、男も驚くくらいの勢いでかみついた。雄より雌の方が、心なしか激しいようだった。牙を立てられ、かみちぎられて猿はもだえ、燃えるような形相になった。噴き出した血が白い毛を汚し、土に吸われていく。それは思ったよりも凄惨で、男は猿にあわれみすら感じたが、娘は懐のものを握り締め、目をそらすこともなかった。その刃めいたまなざしに、男はそら恐ろしいものを感じた。
 白い毛をずいぶんと赤くして、とらわれの猿はついに息絶えた。それを汚らしく離し、血に濡れた牙と舌をあらわにする双子。働きとしては十分すぎるものだった。男はずたずたのむくろの片足をつかみ、藪に放り込んで褒めてやった。
 汚れを落としましょう。そう娘が言って、双子を小川の方に連れていく。先ほどまでの凄みは薄れていた。男はその後ろ姿を眺めた。自分が食われるとなれば、女子といえどもあれくらい憎むだろう。狩人の妻となるのだから、これくらいの気性でちょうどいいのかもしれない。
 猿を殺したことは、すぐに返ってきた。
 収穫に向け、また田んぼに水を張ろうという矢先、小川が涸れてしまったのである。土の亀裂は深まって、畑にまく水にも事欠く有り様。村はたちまち大騒ぎになった。理由は分からないが、社の神がお怒りになっている。この頃あやしげな男と生け贄の娘のせいではあるまいか。村人たちは屋敷に押しかけ、翁媼はうろたえるばかりだった。藪に放り込むくらいでは隠しおおせなかったか。こうなっては仕方がない。男は縁側から、血相変えた者たちを見下ろした。
 猿を一匹殺したのだ。
 そう告げ、生け贄などやめるべきだと語気を強めた。しかし、どよめく村人たちは聞く耳を持たなかった。長年、社の神の望むままにしてきたし、これからもそうしなければならないといきり立ち、男につかみかかろうとしたが、犬たちに吠えられて後ずさった。しかしながら、これだけ大勢では男は折れるしかなかった。
 娘を生け贄に差し出そう。
 そう約束した。真っ青な翁も重ねて請け合った。それを娘は陰で聞いていた。
 神社で神職が祝詞を申し、生け贄は必ず捧げること、娘はふさわしく育っていると誓言を立てて、ようやく水は元通りになった。男はその日のうちに屋敷を出た。
 そしてとうとう、祭りの日になった。
 娘は沐浴し、白装束を着て、黒髪を整えられた。
 月さえも雲にかき消された宵、屋敷に宮司ら神職がやってきて、長櫃を寝所に運び込ませたうえで、ここに入るようにと外から娘に命じた。その様子を男は遠目にうかがっていた。
 まだ望みはある。
 男はそう踏んでいた。娘には蛇神がついているはずだ。だとすれば、まだ猿神を討つ機会はあるだろう。そう考えればこそ、生け贄に同意もしたのだ。
 まもなく長櫃が前後を担いで運び出され、嘆き悲しむ翁媼に見送られながら出ていく。鉾、榊、鈴、鏡を持った神職が先払いをするさまは、死装束の死者たちによる導きのようだった。
 そして一行は鳥居をくぐって、厳めしく腰を据えた社に着いた。急でそり返った檜皮葺屋根の神社は、爪の尖った両手を広げ、大口を開けて待ち構えているようで、その奥からは飢えた気があふれ出してくる。
 宮司が祝詞を上げ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、と御扉を開き、長櫃を結んでいた糸を切って、神前に供えて下がる。御扉を閉め、居並んだ宮司たちは、今年も無事に捧げられた、と胸を撫で下ろした。
 暗闇に乗じて忍び寄り、男は脇の隙間から中をのぞいた。
 長櫃が運び込まれた本殿には、七、八尺ほどの巨大な猿があぐらをかいていた。あの大猿が猿神らしい。歯は白蝋さながらに白く、血がみなぎったように赤い顔では、ぎょろりとした目が炯々としている。赤褐色の毛はつやつやとしており、生娘を毎年食っているからだろうか、と男は考えた。
 上座の大猿の左右では、たくさんの猿が赤ら顔で鳴き声をはずませている。ざっと見ただけでも百匹はいそうだ。それらの前には、人ひとり十分横たわれるまな板、同じく大きな刀が置かれており、さらには酒や酢といった調味料らしき平瓶もあって、人が鹿などを切り裁くときとそっくりだった。そのせいもあって男には、大猿たちがこれから宴会をする男どもに見えた。
 大猿は、長櫃に目をぎらつかせていた。中のものを思い浮かべているらしい、とそそり立った股ぐらで分かる。なにしろ一年越しの、待ちに待ったごちそうである。
 そうしてひとしきり楽しんでから、大猿はおもむろに立ち上がった。長櫃に近付いて、蓋に手をかける。他の猿たちも群がって、ともに開けようとした。
 その中から、やにわに白い影が飛び出した。
 それは双子の白犬だった。いつの間に入り込んだのか、と驚く男の視界で二匹は大猿にかみつき、どうと床に倒す。猿たちが仰天したところで銀蛇ひらめき、犬たちを振り払おうとしていた大猿の首筋にひたと差し当てられる。
 握っていたのは娘だった。いつもと変わらぬ小袖姿の娘。しかしそれは短刀ではなかった。脱皮をしたかのような二尺余りの刀が冷ややかに光っていた。
 お前は、こうして殺してきたのでしょう。
 大猿の後頭部、首筋を見下ろして娘は言った。
 同じように首を落として、犬たちに食わせてやります。
 大猿は顔を紅潮させ、歯をむいてわめいた。それはあらん限りの罵声に聞こえた。遠巻きにする猿たちもわめき声を上げたが、一匹として娘に近付こうとはしなかった。双子の牙が食い込み、うめいて歯ぎしりする大猿。尻も火がついたように真っ赤になっている。娘は氷の刃さながらの顔つきで続けた。
 お前は、長きにわたって食ってきた。この社で娘を食ってきた。だから今日、これから殺されるのです。下劣な神め。殺せるものならわたしを殺してみろ。
 差し当てた白刃から血がにじみ、首筋の毛を黒ずませる。毛むくじゃらの巨体は凍りついた。すると双子が大猿から離れ、騒ぐ猿たちに襲いかかっていく。
 猿たちは次々とかみ殺され、御扉を開け放ったものは木に登って、山に残っている仲間を呼んだものの、尋常ならざる鳴き声に怖じけたらしく、一匹として下りてくる気配はなかった。この騒ぎに宮司たちは何事かと驚き、中をのぞいて言葉を失った。大猿と、その首筋に刀を差し当てている生け贄の娘。どういうことなのか、どうしたらいいのか、皆目分からずおろおろするばかりだった。
 そのとき、それら神職のひとりが何かに憑かれ、奥歯をぎりぎりとかむ声を響かせた。
 我はもう生け贄を求めない。命を奪うこともしない。この娘はもとより、他の誰も殺さないと誓おう。だから、どうか助けてほしい。
 それは、猿神の言葉らしかった。御扉の方に回ってきた男は、それが自分にだと感じられた。確かに神憑きの目は男に向けられ、情けを乞う色を浮かべている。
 男は宮司たちと本殿に入って、血だらけの床と猿たちのむくろ、無様に刀を差し当てられている大猿を間近にした。双子は毛をまだらに赤くし、そこかしこに血色の足跡を残している。男の顔は苦みを帯びた。あるいは自分がこうしていたのかもしれないが、娘にやられてしまうとなんだか恐ろしいことに思われた。
 もういいだろう。
 男は娘に近付き、手を差し出した。
 神がこうして誓っているのだから、これ以上血を流すことはあるまい。
 それがこの大猿の言葉だと、どうしてお分かりになるのですか。
 娘が鼻で笑うと、白刃の下からうめき声が聞こえてきた。
 誓いは本当だ。もう二度と娘を食らうようなことはしない。
 ほら、と男はそちらに目をやった。
 そのように言っているだろう。さ、刀を引きなさい。
 神職たちは、そうするより他を知らないかのように祝詞を唱えていた。娘は男を見つめ、その後ろで騒がしい宮司たちに巡らせて、こうべを垂れている大猿に戻した。かすかなため息が聞こえた。
 分かりました。
 波一つない水面のごとく静かな声だった。白刃が毛深い首筋に沈んで、絶叫とともに噴き出した血が娘にもかかった。それは、これまでに食われた娘たちが解き放たれたようでもあった。刃は断末魔を断ち切って、どっ、と毛むくじゃらの首が落ちる。男は、思わず首をすくめた。
 あまりのことに宮司たちは半狂乱になり、ひたすら祝詞を唱えたり、気を失って倒れたりとひどいものだった。猿たちは木から飛び下り、わめきながらどこへともなく散った。血だまりに立ち、白い肌を毒々しく染めた娘は、刀を握ったまま男の脇を抜け、右往左往する神職たちの間を通っていく。男はようやく声を絞り出し、呼び止めた。
 どこへ、どこへ行く。
 これでもう、水を止められることもないでしょう。
 娘は肩越しに返し、ためらいなく出ていった。夜の闇に消えていくそばには、双子の白犬がぴったりとついていた。
 そして娘と犬たちは村を出ていき、今日に至っても戻ってはいない。
(了)
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