第1話

文字数 26,553文字

「あなたって、結構、おしゃべりな人だったのね」
 藪から棒だった。朝方、睡魔と闘いながら、読みかけの小説を捲っているときのことだ。コックという仕事柄、帰宅するのはいつも晩く、深夜の電話も珍しいことではなかったが、それでも午前四時には稀だった。
 寝るまでの貴重な時間を裂かれて苛立ち、嫌味の一つも言おうとした瞬間、それを見透かしたような女の声が先手を打った。
「誰だ」
「誰って、朝の四時に電話する女が、あなたには何人もいるってことなのかしら」
 耳に響く声の切っ先が、さらに鋭くなっていた。
 美鈴だとははじめからわかっていた。ただ、龍介にはその美鈴の怒りの理由が何なのか、まったく掴めていなかった。
「容ちゃんが言ってたわよ。あなたが容ちゃんたちと呑みに行った夜、調子にのってしゃべったことの洗いざらいを」
「洗いざらいって、俺は何もーー」
「言い訳なんか聴きたくもないわ。もう沢山。男ってみんなそう。寝るまでは一端の男を気取っているくせに、一度寝ちまえばもう自分のモノのように……。いや、自分のモノだと誰に対しても認めてくれる男なら、まだいいわよ。女にも多少の嬉しさはある。だけど、あなたのように遊んだ女の手柄話みたいに、他人にへらへら言われたんじゃ、言われたあたしはたまんないわよ。とくにその相手があたしと同じ店で働く容ちゃんだなんて、正直言って、今度という今度はあなたを見損なったわ」
 鋭い錐がいっときに飛び道具に変わり、機関銃のような早口が耳を射抜いた。
 弁解する余地も与えず、怨みつらみをとうとうとまくしたててくる。そんな美鈴の息遣いを受話器越しに測りながら、ここは沈黙に徹することにした。
 美鈴の誤解ではある。けれど、容子というホステスと、二、三日前、深夜から朝方まで遊び呆けたことは事実だった。苦笑しつつも、煙草に火を点けながら、勢いに疲れたのか、そろそろペースダウンしはじめた、美鈴の声を愉しみはじめていた。
 おそらく容子が、その夜のことをオーバーに言い触らしたこととは察しがつく。しかし、敢えて、弁解しようとはしなかった。
 少し冷静さが戻ってからでも遅くない。そのときのことをきちんと説明すれば、理解するはずの相手でもある。
 美鈴と容子は、ともに夜に生きていた。同じスナックで働いている。
 以前、通いつめていた赤提灯の店のママが、
「今度スナックはじめたのよ。龍ちゃん、近いうちに絶対来るのよ。すぐそこだから」
 久しぶりに出会った路上で、自転車のサドルから尻を半分ずらせて片足立ちのまま、誘ってきた三日後の夜、その店に顔を出した。
「龍ちゃん、その女(こ)隣りに坐らせてあげて」
 ママが手招きするよりも早く、微かな香水の香りが鼻をくすぐり、その香りを追いかけるように近づいて来たのが、容子だった。
 〇時を過ぎたあたりから、どこからともなく客が湧くように群れ集まり、十五坪ほどの狭い店内は、アルコールに尻押しされた客たちの笑い声と、煙草のけむりとで眩暈さえ覚えるほどだった。
 龍介の坐るカウンター越しに、扇風機のように忙しなく顔を左右に向けながら、ママが客たちの冷やかしや遠慮のない言葉の嵐に、眼だけで笑い、口では凄まじい毒舌を撒き散らしていた。
 容子は龍介の余りの無愛想さに白けたらしく、すぐに椅子から腰を浮かしかけた。
「あ、容子、他の客なんか放っといていいから龍ちゃんの傍にいて。あたしの古い知り合いなのよ、その人は」
 と無愛想な龍介を睨み、
「ほら、龍ちゃん、あんたもちょっとぐらい笑顔見せてやったらどうなのさ」
 旧い馴染みなだけに遠慮のない言葉をぶつけてくる。
 相変わらず歯に衣着せないママに苦笑していると、
「あたし、容子でぇす」
 機を巧みに捉えた、ひところ流行った尻上がりな声と口調が、龍介の眼をはじめてそのほうに向かせた。ナリは若く見えた。だが、可愛さだけが似合う年代とは思えなかった。切れ長の眼。その眼の中で絶えず動き回る茶色っぽい瞳。そして、肩を隠すほどの長い癖のない髪。その黒髪が、時折見え隠れする、襟足の白さを際立たせていた。
「ねぇ、何かいただいていいかしら」
「ん?」
 応えも待たず、
「ママぁ、グレープハイ、龍ちゃんから」
 そのタイミングのよさに唖然とする。スナックともクラブともつかない店の雰囲気に、多少の戸惑いを覚えながら、龍介はいよいよ喧騒になってきた店内を見回していた。
 ボックスの大小が三席。ぎっしりとすし詰めになった客たちの間に挟まれて、飛び回ることも出来ない夜の蝶が四人。
 自由に原色を着飾り、絶え間なく飛び交う酔っ払い客の怒号のような笑い声の渦の中に浮遊していた。
「ねぇ、龍ちゃん」
 初対面とは思えない口調だった。
「龍ちゃんって血液型、何型かしら」
 容子は甘く見つめてくる。
「A型」
 やっと周囲の熱気にも馴れ、むしろ、その人いきれが自分の肌にある種の心地よい、リズムさえ与えはじめていることに気づいたころ、悪戯っぽい瞳が忙しなく動き回る容子という、ホステスに対しても、興味を持ちつつあった。
「ふうん……」
「A型じゃいけないのか」
「ううん、そんなことない」
 容子はフルーツの種の浮いた、呑みかけのグラスを両手に包み、何か思案しているようだった。すると突然、
「お仕事は何かなぁ」
 目まぐるしく変わるその表情に、さらに興味が増し、
「コックだよ」と応えると、
「ほうら、やっぱりね……。A型の特徴なのよね」
「何がだよ」
「A型わねぇ、仕事と遊びははっきりと切り離している人が多いの。遊んでいるときは全然仕事も私生活の匂いを感じさせない。逆に仕事に入ると前の晩に遊んだ店も、相手をした女の顔さえ忘れちゃう、という、ちょっと冷たい型なのよね。そういう人なんでしょう、龍ちゃんも」
 他愛もないことだった。苦笑するしかなかった。たしかに過去にも初対面の相手には、職業を見破られることはなかった。また、完璧に仕事と遊びとを切り放すことは不可能でも、それに近い割り切り方はして来ていた。だが、それは自然に身についたことであり、まさか血液型がそうさせているなどとは、いま指摘されるまでは、夢にも思わなかった。
「緻密で繊細で、ものごとの白黒をはっきりさせる性格ーー」
「へぇ……。血液型にだいぶ詳しいみたいだね。生きる道を間違えたんじゃないのかい」
 混ぜっ返した。自分が緻密であるかどうかは疑わしい。けれど、小心が繊細という意味を含んでいるならば、そうとも言えるかも知れない。容子は得意そうだった。
「当たってるでしょう。あたしね、最近、血液型でみる性格判断に凝ってるのよね」
「容子ちゃんはどうなんだ」
「あたしはねぇ」
 表情に艶が含まれた。顔を見上げてくる。
「そう、その容子ちゃんのいつも落ち着きのない瞳と、豪快な呑みっぷりをつくっている血は、一体何型なのかな」
「あたしはO型」
 チロッと舌で唇を舐めながら、容子は子猫のように首を竦めた。一つ一つの表情がとても新鮮だった。
 細いがはっきりとした眉が、気の強さを描いている反面、いっときも休むことなく動き回る瞳が、年齢のわりに未成熟な女の、弱さと過去の軌跡をあらわしているようで、興味深かった。
「龍ちゃん、一曲唄いなよ」
 カウンターの向こう端から、客と掛け合いをしていたママが、その笑い声の延長のようなけたたましい声を放り投げてくる。
「まだ唄うほど酔っちゃいないよ」
 手のひらを振り、その声を左右に散らす素振りをすると、
「それじゃ、あたしが唄っちゃおうかな」
 言うが早いか、容子はセンセイと呼ばれているギター弾きの隣りに立っていた。
 カラオケのない店だった。常連なのだろう。拍手と野次がテープのように投げられるなか、容子はギターを待たずに唄いはじめていた。少し後れて、ギターのコード演奏が追いかける。巧い。少し古いが、一時期流行った、「男と女」。
 容子はハスキーな声で器用にこなしていく。先に唄に入る。ワンテンポ後れてギターが追う。途中で二人の息がぴったり合う。いつも唄っているのだろうか。それぞれが身勝手にしているようでいて、双方が見事に調和していた。
 間奏。ギターがメロディを奏でる。わざと枯らした弦の音。ピックがメロディを唄いながら、残りの指がコードを探る。この弾き手もよかった。アドリブ唱法の目立つ容子の唄を、ギターの音色が掠れた歌声の肩を抱くようにフォローする。
 龍介は思いがけない手錬れな弾き手と、唄い手とのハーモニーを耳にし、何となく得をしたような気分で、水割りを口にしていた。
 唄が終わり、盛大な拍手を受けた後、容子はカウンターに戻るまでの三、四歩の間に、テーブル席の客に腕を掴まれ、その席に倒れ込むように坐った。
 その姿を眼の端に捉えながら、龍介はカウンターの中をこま鼠のように駆け回って客の相手をする、ママの様子を愉しんでいた。
「あたしのこと何ジロジロ見てんのよ。あたしって、そんなに綺麗?」
 と洒落るママにぷっと吹き出し、視線を振って何となく見上げたボトルキープ用の棚の上に、ポツンと置かれた、古びた時計の針が、午前二時を指していた。
 磨きあげられた洋酒棚にはどう見ても不似合いな旧式の時計がおかしく、苦笑いしていると、何がおかしいのかしら。いつ戻ったのか、耳元に甘えた容子の声が、唄う前よりはだいぶ酔っていた。
 龍介が目線で示すと、
「あ、あれはねぇ、三時になるとジリジリと鳴りはじめるの。それで本日の営業はお仕舞いってこと。ママの指がこの薄暗い店内の灯をパッと明るくして、それでも居座ろうとしているお客さんたちを追い出すの。だから、あの時計、このお店の獰猛な番犬みたいなものなのよ」
「何か言ったかい、容子」
 耳聡いママの笑いに、容子は肩を竦めて唇を舐め、龍介の顔を見つめて右目を瞑った。
「あたしねぇ、刺青彫ってんのよ」
 唐突に話題の跳ぶ容子の顔を、龍介は不思議そうに見た。
「刺青って、あのーー」
「そうよ。刺青よ。紋々のことよ。背中と太腿の奥のうんと卑猥なところに、天女と薔薇。龍ちゃん、見たい?」
 尚も唖然としていると、さっとワンピースの裾を捲り上げた容子の股間に、赤と青の色が見えた。覗き込もうとした瞬間、素早くワンピースの紺色がそこを遮った。
 図柄は一瞬のことではっきりとはわからなかったが、たしかに白い太腿の奥に蠢く、刺青を見た。

「ねぇ、聴いてるの。眠ってるんじゃないでしょうね」
 美鈴の長すぎる電話も、途中からは気にならなくなり、後半は相槌も打たずに容子との出会いのころを思い浮かべていた。その美鈴の声が、追憶の画の後ろに流れるBGMとなりかけたころ、半ば呆れ、同量、苛立ちを含んだ声が、龍介を現実へと連れ戻した。
 枕元の時計が、午前四時半を振り切ったところだった。美鈴はもう、三十分も一人で、しゃべり続けていたことになる。
「ちゃんと聴いてるよ」
「嘘」
「嘘は言わないよ」
「それじゃ、あたしが何言ったか、言ってみてよ」
「……」
「ほら、言えないでしょう。やっぱり上の空だったのね。どうせ、容ちゃんのことでも思い出していたんでしょう」
「いや、そんなことないけど、ただ、刺青のことを少しーー」
「何よ。それじゃ本当に容ちゃんのこと考えていたってことじゃないのよ。刺青は容ちゃんにあるのよ。あたしにはそんなもの、ございませんからね」
「おまえが悪いんだ」
「何言ってるのよ。あたしのどこが悪いって言うのよ」
「おまえが容子容子って一つ覚えの鸚鵡のように繰り返すからだろう」
「だってそうでしょう。容ちゃんと呑みに行ったことをあたしに話して面白がるんならまだ話はわかるし、少しは赦せるわよ。でも、あたしとのことを容ちゃんにしゃべるなんて、それって逆じゃないのよ。あたしはお酒の席に出る肴程度ってことじゃないの」
 安易な応えに、美鈴は鎮まりかけていた気持ちを、再び昂ぶらせているようだった。多少の弁解は必要なのかも知れない。
「俺は誰のことでも、他人に言い触らす趣味はないつもりでいるけどね」
「本当かしら」
「本当も何も、俺はあの夜、ホストといちゃつく容子を見ていただけなんだから。それなのに何故、そんな莫迦げたことを言わなければならないんだ」
「だって……」
「だっても何も、おまえはいつもそのように単純だから、くだらない誤解をするんだ。容子の口癖じゃないけど、一度おまえの血液型の性格分析でもしてやろうか。激情型で、まったく左右が見えない性格。単純なくせにひどく疑り深く、そして暗い。そんなおまえのことを占ってみようか」
「放っとていよ。何よ、あたしがあなたをいじめてやろうと電話してんじゃないのよ。これじゃ逆じゃないの。余りいじめないでよ。哀しませないでよ。そりゃ、あたしは単細胞で、あなたから見れば莫迦な女かも知れないけれど、でも、それだって誰の前でもそうというわけじゃないのよ。あちこち気配りするのはお店の中だけで沢山なの。せめてあなたにぐらい、気の済むように愚痴ったっていいじゃないのよ。単純に人の言うことを信じ込むってあなたは言うけど、あなたが容ちゃんと朝方まで一緒に呑んでいたことは事実じゃないの。相手は容ちゃんなのよ。知ってる人が見れば、あなたとの関係を疑われても当然なんだから」
「そりゃ、そうだけどーー」
 一瞬、美鈴の勢いに押された。
「愉しいのかしら」
 不意に口調が変わった。
「ホストクラブなんて、男でも愉しいのかしら。あそこは女の遊び場よ。それも陽の光に縁のない、あたしたちのような夜の女や、それでなければ、もう旦那にさえ見放された小金持ちの女が夜に春の陽を求めて来る場じゃないの」
「おまえは行ったことないのか」
「あるわ。でも、つまんなかった。何故毎晩のように、容ちゃんたちがあんなとこに入り浸っているのか、あたし、いまでも理解出来ないの。ううん、わかってはいるんだわ。でも、やっぱり、わからない。わかりたくもない。何度かしつこく誘われて行ってはみたけど、あたし、どうしても好きになれなかった。仕事が終わってまでもお酒なんか呑みたくもないし、お金使ってまで男にチヤホヤされたいとは思わないもの」
「それは俺も同じだ。だけど、一度や二度は、話のタネに行ってみたっていいだろう」
「あなたは何にでも、一通りの興味を持つ人なのね。以前は容ちゃんの刺青に夢中だったし、今度はホストクラブ。それともまだ、容ちゃんその人に関心があるのかしら」
 チクッと刺してくる。が、声からはついさっきまでの憤りは消えていた。もうこうなれば安心だった。
 それからさらに数十分ほどの会話の中で、美鈴の勢いは少しずつ後退し、ついにはまだ微かに半信半疑のようでも、一応、龍介の押しの強い言い訳に渋々土俵を割った。
「女って、厭な人種よね」
 耳を刺激する、ため息混じりの一言は、あることないこと吹聴する、同性への批難とも思えたし、こうした電話をした、自分自身の大人気ない行動への、悔恨のつぶやきのようでもあった。
「朝、起こしてあげるわ。こんな時間まで眠らせなかったお詫びにーー」
 そして、
「ごめんね。あたし、変なことばかり言っちゃったね。でも、嫌わないでね」
 媚びるような美鈴の声に安堵しつつ、電話を切ろうとすると、
「ねぇ、本心は、あたし以外の女と、夜、出歩いたりしないでほしいの」
 また蒸し返しそうな美鈴の声だった。
「莫迦」
 そう言う龍介の一言から逃れるように、電話は美鈴のほうから、切られていた。

 美鈴は龍介がママのスナックに遊ぶようになって、一ヶ月ほど経ったころ、はじめて隣りに着いた。
 その夜は容子が無断欠勤らしく、ママの顔がそれにより鬼のようになった日で、龍介は三十分余り、ママの切れ味鋭い下町言葉を肴に、水割りのグラスを傾けていた。珍しく暇な夜だった。
「龍ちゃん、うちの店はこれからが勝負よ」
 腕捲りするママの威勢もから回りして、深夜の一時を過ぎても、客の数は減りこそすれ、一人として増えはしなかった。
「たまにはこういう夜もあるか。水商売だものね」
 まだ威勢を口調の輪郭に残すママの表情がおかしく、龍介はそっぽを向いて笑っていたそんなとき、勢いよくドアが開いて、美鈴が転り込むように入って来た。
「おっ、出が晩いからおまえも容子のように無断欠勤かと思ってたよ。こんなに晩いってことは、本業のほうが忙しかったということだな。それなのに、見てよぅ、このウチの暇さを」
 ママが店内をオーバーな身振りで示すと、美鈴は苦笑しながら、毛皮のコートを脱ぎはじめていた。
 走って来たらしい。弾む胸を二、三度擦りながら、コートをカウンター内のママの手にあずけた。十二月に入り、それまでは暖かい日もあったが、暦に合わせたように寒さが厳しくなり、深夜の路上は、身を切るような北風が吹いていた。
 美鈴はまだ、拳に握った手に息を吹きかけながら、空間だらけの店内を、戸惑い気味に見回していた。
「美鈴、龍ちゃんのことは知ってるよね。大して使いっぷりのいい客じゃないけど、隣りに坐って何かご馳走になれ。今日は珍しく暇だし、来てくれた客に頼らなきゃ、おまえたちの時給にもならないんだから」
 ママの冗談混じりの毒舌に苦笑しながら、美鈴は近づき、隣りに腰を降ろした。
「ママのように、龍ちゃんと呼んでいいかしら」
 うなずいた。
「龍ちゃん、このお店に来てからだいぶ経つのに、あたしが隣りに着くのって今夜がはじめてよね」
 巡り合わせの悪い相性だったのか、言うとおり、美鈴とは隣りに着くどころか、一度も言葉を交わしたことさえなかった。
「そうだな。こんな狭い店なのに、そんなこともあるんだな」
「そうね。不思議ね」
 面白そうに見つめてくるその眼には、龍介のどこかに潜んでいる、淫らさをふと引き出すような艶があった。
 目尻に刻まれた微かな皺は、年齢からだろうか、それともよく笑う性格からだろうか。だが、どことなく暗かった。隣に着くのははじめてなのに、目元の艶も口元の微笑みも、どこか暗すぎる過去を隠蔽する、精一杯の仕種に見えてならなかった。
 はっきりと描かれた目鼻立ちは、理知的でさえある。そして、見ているかぎり、よく笑う。しかし、彼女の全体を覆っている、靄のような陰湿さは何だろう。
 ゆったりと当たり障りのない話題を続けながら、話を誘導し、少しずつ、美鈴を観察し始めていた。
「あたしって、何の取柄もない女なの」
 話題が店で働くホステスたちの特徴に触れたときだった。笑みが消え、美鈴は石っころのように、無表情な一言を棄てた。
「何にもないの。ただ、毎晩、こうしてお客さんの相手をしているだけ。十七のときからずっとそう」
 顔だけは知っているとはいえ、その夜はじめて、言葉を交わす客への科白としては重すぎた。ホステスたちがこぞって押し売りする、サービス用につくりあげた、物語りとも違う響きがあった。
 興味に駆られ、じっと美鈴の眼を見つめて、次の言葉を待った。何にもない、と自分を卑下したつもりなのだろうか。
 だが、十七歳から今日まで、陽に背を向けるように生き続けてきた、という女の言葉は、私は他人には言えない苦労をし続けてきた、と何度も訴える女たちの百の言葉よりも数倍重く感じられた。
 美鈴の言葉の裏側に、ぎっしりと貼りついているだろう、身を砕くような過去を想像しながら、ふと、その夜無断欠勤しているという、容子の顔を思い出し、眼の前にいる美鈴と比べていた。
 ーー容子と美鈴ーー。
 一方は背中と股間に刺青を刻みながらも、まったく周囲に陰湿さを感じさせない女。そしていま、隣りで水割りをつくっている小柄な女は、何の取柄もない、という一言の中に、過去の鋭い起伏と陰影を見せていた。
 龍介はその夜、ずるずると閉店まで居座っていた。けれど、美鈴の笑顔の裏側にある、過去の欠片を寄せ集めることは、ついに出来なかった。
 
 それからも、週に一度はその店に遊んだ。
「よく呑むわね。大丈夫なの?」
 身体のことなのか財布の中身を指すのか、曖昧な微笑を向けるママと向き合い、一、二杯、水割りを呑む。
 そうしてカウンターの端っこに坐ってからの二、三十分を過ごすのがパターンだった。スナックと謳ってはいるものの、れっきとしたクラブ形態の店で、ホステスは当然、客の隣に着いて接客する。
 それでも連夜の忙しさに、ホステスたちもクラブというよりは居酒屋のノリで、客たちはむろん、龍介もクラブに遊んでいることを実感するのは、会計のときだけだった。
 
「終わったら、どこか、呑みに行こうか」
 そろそろ閉店が近づいたころ、容子を誘った。
「いいわよ。でも、刺青なんか見せないわよ」
「それは今度でいいよ」
「今度なんて永久にないかも知れないから」
 思わせぶりな容子の視線を遮るように立ち上がっていた。と同時に、洋酒棚の上に置かれている時計のベルが、店内に響き渡った。
 店を出てタクシーを拾う。
 タクシーの中での容子は、龍介の前ではじめて無口だった。これまでのイメージとはまったく違う女が、隣りのシートに悄然と坐っていた。
 背凭れに全身をあずけ、なにごとかを瞑想するように身動ぎもない。対向車のヘッドライトが、すれ違いざまに、容子の顔を真横に切り、一瞬、青白く揺れるその横顔には、どこを探しても、ついさっきまでの華やかさなど、微塵も見い出せなかった。
 目指す店までの間、通り過ぎる街の灯が、一つ、また一つと消えて、夜にへばりつく人々と、朝を起点に生きる人々とが入れ替わる間際の、空白な時間帯に入っていく。
 タクシーの中では萎れた花のように沈んでいた容子だったが、サパークラブの店内に一歩入った瞬間からは、顔一面に貼り付いていたはずの疲弊の色を、見事に消していた。
 そんな二面性に触れてため息をつく。
「どうしたのかしら、ため息なんかついて」
 茶化す容子は、いつも眼に馴れた容子でしかなかった。
 場末のさらに外れにある、サパークラブ。
 龍介は店内を見回していた。
「あたしの知ってる店でいいわよね」
 タクシーに乗る前の容子の一方的な口調の意味を知る。
 ボーイはむろんのこと、支配人や他の黒服たちも次々に挨拶に来る。どうやら形態はホストクラブのようだった。
 それに気づき、苦笑いする龍介にも、ボーイは恭しくおしぼりを差し出す。龍介を見るその眼は、容子のブレスレットやイヤリングでも値踏みしているような卑しさがあった。広いフロア。真ん中をダンススペースにとってあり、四方の壁を背にして、客席が配置されている。
 当然、女の客が多かった。水商売をはっきりと顔に描いた女。チグハグな化粧で顔をさらに台無しにしているのにも気づかず、真っ赤に塗った唇を極限にまで開き、出された料理を頬張っている女。
 白服を呼び止めて、ジルバに誘い、わざとステップを間違えて、ホストの胸に抱きつき、両腕の中に自ら男の腰を引き寄せようとする女。
 真向かいの席に、女三人に囲まれている一人の男の客が、龍介同様、雰囲気に馴染めないのか、ひたすらつくり笑いを浮かべていた。
 その男の妙におどおどした表情は、まるで自分を映す鏡のようだった。龍介は場馴れした態度で周囲を睥睨するような容子の横顔を見ながら、絶え間なく、煙草を喫い続けていた。たまらず、
「サパークラブじゃなかったのか」
「純粋のそれではないわね。でも、ホストクラブとも違うでしょう。それらしいことはしているけど」
 言葉を探す龍介に、
「何もそんなに大人しくしていることないわよ。どうせ龍ちゃんと比べたって、どうってことない男しかいないんだから。ほんと、この店って、ロクな男、飼ってないわ」
 銜えた煙草に火を点けながら、容子は慰めにもならないようなことを平然と言う。それでも眼は店内を隈なく探索しているようで、
「ねぇ、今日は吾妻くんの顔見えないようだけど、彼、どうしたの?」
 手をあげて強引に呼び寄せたボーイに喚き、そのボーイが、今日は吾妻はお休みをいただいております、と応えると、
「何だよぅ、せっかく来てあげたのにぃ、つまんねえな。吾妻くん以外はカスみたいな男しかいないんだからぁ、この店は」
 ボーイに辛辣に言い放つ容子には、隣りに無言で坐っている龍介への気配りなど、少しも感じられなかった。複雑な気分で、水割りを呑む龍介に、
「もう帰ろう。この店って最低」
 身勝手さもここまで徹底しているとさすがに怒る気にもなれず、容子の勢いに叩かれたように立ち上がった。
 容子をタクシーで小洒落たアパートまで送る。
「今度はうんと素敵なお店、案内するわね。さっきの店はほんと、最低。最近、いい男飼ってないんだもの」
 あくまでも自分のいっときの満足感を優先させる口ぶりに、唖然としながらも、
「また、ホストクラブか」
 龍介は興醒めしつつあった。
「そうよ。やっぱり場末は駄目ね。街のど真ん中が似合うホストでなければ、喰べてみる気にもなれないわね」
 容子はまったく龍介の皮肉に頓着していなかった。
「運転手さん、その角で停めて」
 まだ昂ぶっているのか、口調が激しかった。タクシーが停まり、ドアが開くのももどかしそうに、
「じゃぁねえ、龍ちゃん、また近いうちにお店に来てぇ。ご馳走さま」
 そう言うと、白く明けはじめた路を、飛び跳ねるようにして遠ざかる容子の後姿は、さながら、独り舞台の花道を、軽快に走る、名優のような強かさがあった。
 少しずつ距離を広げる後姿を見ていると、サパークラブへのタクシーの中で見せた、あの疲れきったような表情が、不思議でならなかった。
 凍てつく朝の路上を、子供のように跳ねてアパートに向かう後姿を凝視する龍介の眼には、まだはっきりとは見たことがない、背中や股間の天女の刺青が、思いっ切り長い舌を出して、嘲笑っているように思えてならなかった。
 容子の姿が四つ角を右側に消えた直後、龍介は不意に内臓を毟り取られるような苛立ちに襲われていた。
「行ってくれ」
 後ろから斬りつけるような龍介の声に、運転手は愕き、慌てて車を発進させた。

 十二月も大晦日を明日に残すだけになり、街は閑散としていた。
 龍介の働くレストランは、正月休みに入っていた。久しぶりに時間を気にすることもなく、ベッドの中で愚図愚図していた。それでも午後二時にはベッドを抜け出た。
 居間に行き、少し窓を開けた。突き刺さるように飛び込んできた冷気に身を竦めた。寒さは厳しかったが、サッシの窓を額縁にした空は、抜けるように澄んだ青だった。
 綿を引き千切ったような雲が、宙に突き出た高層ビルの白壁に溶け、そのビルの最上部を茸のように変形させていた。陽は中央からゆっくりと西に泳ぎ、いま、時計の針は午後二時十五分だった。その日、龍介は美鈴と三時に会う約束をしていた。
 夜はともかく、美鈴と陽の下で会うのははじめてだった。昨夜龍介が誘ったとき、あたし、すっぴんで行くわよ、と億劫そうに言った後、
「あたし、お客さんと太陽の下で二人っきりで会うなんてこと、はじめてよ」
 多少、恩着せがましい言い回しに、少し厭な感じを抱いたけれど、それも一瞬で、会う約束をしてくれたことだけに満足していた。
 一言、お客さんとはね、と女々しく皮肉っただけだった。それに対して美鈴は、
「そんなつもりで言ったんじゃないわ」
 ありきたりの女の応えに、ありきたりの男のようにやに下がり、龍介は、遅れるなよ、と言葉にだけは男の見栄を含ませていた。
 声には女への追従が顕わになっていて、龍介はそんな自分に苛立った。
 
 やはり、自然に浮き足立っていた。
 待ち合わせ場所である喫茶店に、急いでいた。
 美鈴は喫茶店に約束した時間にあらわれた。ジーンズと無造作に羽織った毛皮が、妙に似合っていた。毛皮の内側に覗く、白と赤の縦縞のセーターも悪くなかった。
 俺は美鈴のいいところばかりを見ようとしている。龍介は欠点を探し出せなくなっている美鈴を見つめながら、印象が薄くなりかけている、容子の顔を思い出していた。
 その背中と股間の刺青に執着して、毎晩のように通ったのだという未練が、今尚どこかに居座ってはいるものの、いつごろからか、興味の矛先は、美鈴のほうに向いていた。
 そんな自分に気づいたのは、つい最近で、思わぬ偶然からだった。
 そうなると、それからの対象は美鈴だけとなり、げんきんなもので、美点だと感じていた容子のあらゆる部分が、醜く見えてくる。
 身勝手さもその一つなら、ひたすら揺れ動く、愛らしいと感じていたあの瞳にさえも、興味は遠い過去の風景のように薄らいでいく。
 それでも龍介がママのスナックに遊び、水割りを二、三杯呑み進んだころ、誰よりも早く、隣りに坐るのは、必ず容子だった。
「ママぁ、グレープハイ、龍ちゃんから」
 相変わらずの舌っ足らずの口調も、もう、白々しい。
 ふと、はじめて容子を誘い、ホストクラブのような店に辿り着くまでのタクシーの中で、萎れた花のように、シートに身体をあずけた容子の姿を思い出すことはあった。だが、それさえもいまは、プロのホステスがこれ見よがしに演じる創り芝居と決めつけ、刺青への好奇心は依然として微かに遺しながらも、引き潮のようにあっさりと、女としての容子への興味は消えていた。
 あと一度だけ、その容子と、彼女が日ごろ自慢にしていたホストクラブに付き合うことにしていた。
 おそらく、その夜かぎりで、刺青を見ることもなく、容子との遊びは終わるはずだった。
 ――そしていま、美鈴が眼の前で、テーブルに両肘をついて、まだ眠そうな眼のまま、坐っていた。
 じっと見ていると、何故か興味が失せたはずの、容子の顔が浮かんでくる。自分ながら呆れるほどに無節操ではあった。しかし、これは説明しようがない事実だった。龍介には、宝石の鑑定士のような眼で、二人を比較するような傲慢さがあるようだった。
 多少気心が知り合えたとは思っていても、それはほぼ、男の勘違い。
 所詮は夜の酒場の中だけでの戯れ。過去も現在も、肝心要のところは夜の闇の中に仕舞い込み、虚飾に満ちた言葉だけでの、男と女の化かし合い。そう思えば無難なのだろう。美鈴も容子も決して他人には明かせない秘密を、体内の奥深くに潜ませ、表面では損得だけの駆け引きを、毎夜繰り返している。
 そう思う。だが、いまこうして眼を細めて見つめてくる美鈴の顔は、とても素朴に見えてならなかった。
 すっぴんで行くわよ、の言葉どおり、化粧の匂いのまったく感じられない美鈴だった。龍介にはそれが嬉しかった。もともと厚化粧ではなかった。それでも夜の仕事用の化粧は、美鈴から若さを削っていた。
 眠そうだった美鈴の青白い顔に、血の色が蘇りはじめている。
「あたしって、低血圧だから、起きてすぐの行動は苦手なの。ごめんね」
 照れたように詫びる美鈴の顔を見て、龍介は満足だった。
 言うがままに歩いてみよう。すぐに帰られても仕方がない。
 スプーンでかき混ぜたコーヒーの小さな渦を見ながら、美鈴にこうまで甘くなっている自分を発見した。生じるのは、それ故の昂ぶりだった。
 体内の奥底で、辛うじて生き永らえてきた若いころの残滓が、この瞬間、狂ったように存在を誇示しようとしているようだった。
 冬の陽はごくあっさりと西のビルの背に沈み、二人が喫茶店を出るころには、街並みに夜の気配がしのび寄っていた。
 美鈴の気の向くままに歩いた。デパートを覗き、本屋の店頭で立ち読みし、家具屋に入る。疲れては喫茶店のドアを押したりと、行動には何ひとつ一貫性がなかった。
 たまらず、映画でも観ようか、と言う。美鈴は、ただ、歩きたいの、とどんどん前に進む。その足取りには夜に近づくごとに厳しくなる寒さを蹴散らすような勢いがあり、それが龍介の疲れた足をも曳いていく。
 そろそろ店仕舞いらしい小さなアクセサリー店の前を、通り過ぎようとしたときだった。美鈴は立ち止まり、店内の一点を凝視していた。
「あれを見てるのか」
 美鈴の目線を辿り、行き当たったところに、何の変哲もないネックレスが飾ってあった。
「いいの。見てただけ」
 そう言い、踵を返してその店を離れようとする美鈴の腕を強引に掴み、店に入った。
 迷わず店員に、その品物を包むように言う。包装を終えるまで、美鈴は龍介の腕の中にいた。
「いらないって言ってるのに」
 尚もそう繰り返す美鈴の手のひらに、その小さな包みを載せたとき、それまで駄々っ子のように、下唇を突き出して睨んでいた美鈴の瞳が耀いた。
 十歳の少女でも喜びそうにない、三千円の値札のネックレスを、大事そうに胸に抱き込むそのときの美鈴からは、夜に生きている女特有の匂いを、まったく嗅ぎ取ることが出来なかった。そう。美鈴は、龍介の眼には少女にしか映らなかった。
「今夜だけは、仕事、したくないな」
 信号待ちで佇みながらのつぶやきに似た一言だった。
 龍介は青紫にけむる夜空を見上げて、ため息をつく美鈴の後姿を、無言のまま見つめていた。空に闇が濃くなったぶん、原色のネオンがいよいよ華やかになった。

 美鈴をホステスと見る眼を棄て、一人の女として強烈に意識しはじめてからは、まだ日が浅い。
 一週間ほど前のある夜、龍介は容子の桁外れに身勝手な言動に嫌気を覚えながらも、誘われて、それまでに二、三度付き合ったことがある、場末のホストクラブで呑んでいた。
 いい男飼ってないから、この店嫌いよ、と訪れるたびに喚き散らしながらも、容子は龍介と外で会うときには、いつもその店に連れて行く
 退屈しながら小一時間も過ごしたころだろうか。思いがけず、美鈴が姿をあらわした。客と一緒だった。ママのスナックで、何度も見かけた顔の男だった。泥酔していた。美鈴は近づいて来ると、
「この人にはいい加減まいってしまう。こんなに酔っ払っているのに、一軒付き合えってしつこくて。その挙げ句、言うことが決まってヤラセろ、なんだもの」
 その忌々しそうな顔に苦笑すると、
「けっこう通ってくれるお客だからそうそうは邪険にも出来ないし、どうせ付き合うならあんたたちが遊んでいるはずのこの店に来て、一緒に騒いでいたほうがいいと思ったものだから」
 言いながら、すでに首も据わらなくなっている、男の肩をポンと叩いた。その弾みで、男は操り人形のようにぎこちなく、ボックスに崩れた。
「もう、仕方のない男ねぇ。自分で誘っておいてこうなんだから。でも、このほうがあたしには好都合ね。ヤラセろ、なんてこんなとこで喚かれたらたまったものじゃないもの」
 いかにもうんざりした様子の美鈴を見て大笑いする龍介と容子に右目を瞑り、全身で舟を漕ぎ始めた男の耳をひっぱると、
「あたし、ちょっとこの男、タクシーに棄ててくるわね」
 うなずくと、
「ねぇ、もう帰るわよ。起きてよ。さぁ、ちゃんと起きてお勘定払わなければ駄目でしょう」
 叱りつける。
 薄目を開けた男は、好き勝手に毒づく美鈴を見上げて、どう勘違いしたのか、精一杯の愛想笑いをつくると、札入れを出し、数枚の一万円札を抜き取ると、美鈴の手に握らせた。
「預っておいて。すぐに戻るから」
 龍介に目配せし、男から受け取ったばかりの金を渡すと、美鈴は男を追い立てるように出入り口に向かった。
 その美鈴が席に戻って間もなく、偶然なのか、それとも約束でもしてあったのか、容子の知人だという女が二人加わり、座は益々姦しくなった。
「美鈴がこんなとこ来るなんて、珍しいわね」
 容子は不思議そうな顔をしていた。
「たまにはね。あの客に誘われなくても、今夜は何となく呑みたい気分だったの」
「ふうん、それにしても、珍しい」
 茶化すような容子の口調だった。
「悪かったかな。お邪魔しちゃって」
「べつに……。だけど、いつもはこんなところで遊ぶことじたい、信じられないって言ってたから、びっくりしちゃった」
 龍介は成り行きを見ていた。微かな棘を感じていた。店では自分以外はライバルなのだから、いつも神経は張り詰めているのだろう。
「そう言わないで。あたしがたまに呑みに来るぐらい、容ちゃんの読んでる本に比べたら、どうってことないでしょうよ」
「本?どんな本、読んでるんだ」
 容子と本。龍介の感覚からはミスマッチだった。
「苦しまずに死ねる方法、だったかしら」
 美鈴はそう言うと、集まる視線から逃れるように、フロアのほうを向く。
「洒落で読んでたのよ、あの本は。お客さんの話ってあちこちに跳ぶから、あたしだってあちこち跳んだ勉強してるってこと」
 少し慌てたような容子の言い訳を、龍介は何となく見過ごしていた。
 気取ったステップで、ホストと女たちがジルバを踊っていた。一組だけが社交ジルバで、他はテンポの早い、浜ジル(横浜ジルバ)だった。通い詰めているのか、いずれも滅法上手かった。
「ホストも、それに蟻のように群がる女たちも、大っ嫌い」
 BGMにかき消されるような、美鈴のつぶやきだった。
 それでもみんなの視線を集めるには充分だった。ざわめきが消え、全員が美鈴を注視した。あきらかに酔っている。龍介は美鈴の喘ぐような肩を見ながら、そう思った。
「ホストも客の女たちも、あたし、大っ嫌い。お互いに異性に異性を売ってるんだもの。ホストは自分のもっとも美味しい部分を切り売りしてるし、それを買いに来る女たちは、あの厚かましそうな口を目一杯開けて、男たちを自分一人だけで喰おうとしている。あたしたちも同じ。龍ちゃんだって同じよ。あたしたちだって、この眼の前の光景を毎晩繰り返しているだけなのよ。自分というものを棄てて、それに疲れてカサカサした気持ちと身体で」
 白けたように座が静まった。その沈黙を破り、鼻白んだ口調で、美鈴に挑んだのは、容子だった。
「美鈴、あんた、何しにここへ来たのよ。せっかくみんなで愉しんでいたのにさ。あんた、いつも言うことが暗いわよ。湿っぽいったらありゃしない。いいじゃないのさ。自分の魅力で勝負してどこがいけないのよ。何さ、自分だけが不幸みたいなこと言わないでよ。あんたなんか、このあたしと比べたら、幸せじゃないの。親だって兄さんだって妹だっているじゃない。あたしなんかーー」
 グイッと水割りを呷る容子を、美鈴は見据えた。
「あたし、そんな容ちゃんが羨ましい。あんたには自分の無節操さを難なく正当化出来る家庭的事情ってものがあるんだもの。何かっと言えば、すくあたしなんか、ってはじまるんだから」
「もう、止せ」
 これ以上言い合いが続くと、厄介なことになりそうな気がして、龍介は二人を割った。
「いまのは美鈴のほうがいけないな。美鈴が来るまでは、それなりに愉しかったんだから」
 そう言ったとき、チラッと見つめて来た美鈴の眼が寂しそうだった。が、すぐに表情を繕い、
「ごめんなさい。あたし、今日は何か、変」
 その後に続く言葉を呑み込み、美鈴は泣き笑いに似た表情で水割りを口に運び、しかし、それを口に含むことなくテーブルに置いた。
 そんな美鈴には、ついさっき自分の客を追い返したときの勢いはどこにもなく、龍介は急激に様子が変わる、女の特異性を改めて見直した。
 それからの美鈴は、何事もなかったかのように、普通に過ごした。容子も心中穏やかではないはずなのに、水に流したように、
「ねぇ、さっさと彼、呼べよ」
 ボーイに指示し、目当てのホストがあらわれると、
「ねぇ、今夜は美鈴の相手してやって。彼女、だいぶ欲求不満が溜まっているようだから、解消してあげて。女もねぇ、たまには男に抱かれなきゃ、駄目なのよ」
 ヒヤッとする洒落だった。美鈴を見た。
「あたしは遠慮するわ。この人、容ちゃんのタイプでしょう。あたし、今夜は龍ちゃんとスルの」
 シナをつくり、美鈴は龍介に密着してきた。
「あらぁ、龍ちゃん、意外ともてるのね」
 容子は思いっ切りつくった流し目をくれると、
「それじゃ、あなたはあたしの隣りに坐りなさい。可愛がってあげるから」
 困惑気味のホストの腕をグィッと引き、隣に坐らせると、
「ね、ね、ねぇ、龍ちゃん、この男、この店の中じゃ、ダントツでしょう。この男がいるから、この店、何とかやっていけるのよ」
 相変わらずよく動き回る瞳を耀かせながら、龍介に振り返り、返事も待たずに、もうその眼はホストの顔に向けられていた。

「どうするんだ、これから」
 容子たちが若い暴走族顔負けの叫び声を、凍て付く朝方の街並に響かせながらタクシーを拾い、広い路の果てに点となった後に、冷気が這う路肩に、龍介と美鈴は佇んでいた。
「龍ちゃんはどうしたいのかしら」
「好きにするさ……、おまえの」
「だって、容ちゃんに悪いもの」
「まさか」
「まさかって……」
「変に勘繰るなよ。容子とは、ただのありふれた、客と店の女なんだから」
「そうかしら」
「疑っているのか」
「どうかな。だけど、何ひとつない関係のようにも見えないわね」
「考えすぎだ」
 顔を覗き込むと、視線から逃れるように、美鈴はいま出て来たばかりのホストクラブのほうに振り返り、
「容ちゃんって、本当はあたし以上に寂しがり屋なのよ。きっと哀しむわよ。さっきは言わなくてもいいこと言っちゃったけど、彼女、実際にマジで、自殺に関する本なんか読んでいる人なんだもの」
 美鈴はため息をつく。
 そうかも知れない。だが、記憶にある容子は、いつだって笑顔一色だった。唯一、あの夜、タクシーの中での容子は別人のように沈んではいたけれど、それもタクシーを降りるまでだった。
 容子と自殺。龍介にはどうしても、それは結びつかなかった。苦笑しつつ、美鈴を見る。すると、
「あたしといまから、寝るつもりなの?」
 美鈴は唐突に言う。
「厭じゃなければ」
「面白味の欠片もない女よ、あたしは……。こうして起きているときも、男と寝ているときも」
「それは相手が決めることだ。おまえが決めることではない」
「変わってるわ、あなた」
「そうかな」
「そうよ」
 無言でいると、
「あたしねぇ」
「何だ」
「あたし、三年前に、男とわかれたの」
「それで?」
「男と言うより、旦那ね」
 再び無言に徹した。
「そのとき、あの男、あたしから生爪を剥がすように、子供を奪って行ったのよ」
 尚も無言でいると、
「だから、男性不信。とくにあなたのように、偶然に等しい出逢いの夜に、ホテルへ誘う魂胆でいる男は信用出来ない。駄目でもとっこだと割り切っているような、女への馴れが感じられてならないもの」
「俺はねーー」
「何かしら」
「俺は八年前に女房とわかれたよ」
「ああ、そうなんだ」
「女性不信。とくに俺にとっては最初で最後かも知れないこういうチャンスに、ホテルへついて来てくれない女なんて、まったく信じられない」
 自分の言葉に吹き出す龍介に、おかしな人。美鈴はそう言って龍介の肩を、軽く拳で叩き、クックッと笑った。

 ラブホテルを出るころには、もう陽があった。
 冬の長い夜も、二人にとってはいっときだった。朝の七時はやっと眼醒めたような陽の色にも、力が感じられなかった。
「すぐ近くなのよ。恥かしいわ」
 美鈴はつぶやき、龍介の腕に寄り添う。二人はすっかり装飾の消えた朝の街を、ゆっくりと歩いていた。
「あなた、コックさんだったわよね」
「腕は余りよくないけどね」
「料理人って、手品師のようなものなのね」
「まさか」
「いいえ、手品師よ。言葉という手品で、あたしの理性を溶かしてしまうんだもの」
「人聞きの悪いこと言うじゃないか。俺は誠意が通じたと喜んでいるのに」
「また、茶化すんだから」
 美鈴は龍介の腕を力任せにつねった。大げさに飛び上がって痛さから逃れる龍介に、
「男って、いや、あなたって、そう簡単に会ったばかりの女を好きになれるのかしら」
 見つめてくる眼は真摯なものだった。
「時間をいくらかけたって、どうしてもフィーリングの合わないものは好きになれるものじゃない。げんに今日まで、俺はコハダと納豆だけはずっと好きになれずにいる」
「莫迦にしてるわぁ。あたしをそんなものと一緒にするなんて」
 そう言い返しながらも、美鈴は密着した部分を確かめるように、絡む腕に力をこめ、見上げてくる。
 陽は少しずつ、熱を増しているようだが、風は肌を刺すように棘々しい。
 まだ路上には人の姿は疎らだった。体と同じぐらいの大きさの大型犬に引っ張られながら、小柄な老人が、二人の前を通り過ぎて行った。
「あたしは腕の悪い料理人の、フライパンに焼かれるお肉ね」
「腕の悪い、とは、俺のことか」
「さあ、どうかしら」
「先を聴きましょう」
「きつい味をつけられて、そのくせ焼き加減はいつも半端。当然、全部は喰べてもらえないで、結局は持て余されて棄てられて」
「いまはじまったばかりの男と女の会話としては、感心しないな。それに俺は、そんなに勿体ない喰い方をするような男ではない」
「何度も言うけど、あたしはちっとも面白くない女よ。どんなときだって」
「そんなことはない。充分に堪能させてもらったよ」
「いやらしい言い方」
 美鈴は一瞬赤面し、
「でもあなたは、また容ちゃんと絶対に呑みに行く。そうすれば、必ずお上手を言うに決まってる」
 上目遣いに見る眼には、早くも嫉妬があった。が、その色をすぐに消し、
「いいわ。うだうだ考えたって仕方のないことだもの。それにあなたとのことは、大人同士がその気になってしたことだもの」
 笑顔をつくると、
「あたし、起こしてあげるから、携帯とお部屋の電話番号教えて。あなたの起きる時間に毎朝モーニングコールしてあげるから」
 あと二、三時間で仕事場に行かなければならない龍介のことを労わるような響きを声に含み、番号を訊き出すと、あたしのお部屋はあそこよ、と洒落た白い二階建てのマンションを指差し、小走りにそのほうへと走りはじめた。
 その朝を境にして、美鈴は約束どおり、毎朝電話をかけてくる。
 
「あたし、あのとき、凄っく頭に来てたのよ」
 自分の店とでも錯覚しているようなホストクラブに龍介を誘い、容子は席に着くなり頬を膨らました。
 年が明けて、一週間後のことだった。
 独り身のせいだけでもないだろうが、きちっとした人生設計もなく、日々流れに漂う浮き草のように過ごしている龍介は、その日も夜の街に彷徨う自分を、制御出来ずにあちこちに顔を出し、行き着く先はやはり、ママのいるスナックだった。
 口癖のように、龍ちゃん、最近呑み過ぎ、と言うママを無視して、ひたすら、グラスを傾けていた。
 店は喧騒という言葉が生ぬるいほどに、混み合っていて、その夜は隣りに坐る女はいなかった。
 たまにはあたしと呑もうか。カウンター越しに前に立ったママも、波のように絶え間なく押し寄せる客の顔に眼を耀かせ、やっぱり一人で呑んでて。儲けるだけ儲けるから。大声でそう言い、カウンター内を蟹駆けしはじめた。
 酔っ払いのリクエストでお馴染みのギターが鳴り出し、思わず頭を抱え込みたくなるような罅割れた声が、脳天を殴打する。ひどい客の唄の合間にギター弾きの巧みな演奏が入り、時間は雰囲気に呑まれて姿を消し、閉店までを短くした。
「さあ、端っこからお勘定いくよ。店の女の子はとっとと帰れ。おまえたちがいると客が帰らないからな」
 置き時計のベルを止めながら、伝法なママの下町言葉が響き渡る。客たちが帰りはじめたころ、ねえ、これから付き合ってよ。耳に唇が触れるような近さでの、容子の囁きだった。
 美鈴の視線が真横にあった。龍介はその視線の熱さを遮るように、右の頬を指で擦りながら、容子に付き合うことにしていた。
 連れて行かれた店は、あの場末のホストクラブと遜色ないように思われた。一目で安普請とわかる内装に、ソファだけが不似合いに重厚だった。
 エレキギターの生バンドが五人。いままさにノリまくっていた。日の目を見損なった鬱憤をすべて吐き出すかのように、マイクに齧りつく姿は、それが真摯なほどどこかに頼りない愛嬌が見える。
 容子はこの店でも顔だった。近づいて来たボーイに、目当てのホストの名前を告げ、さっさと呼ぶのよ、と高飛車な一言とともに、その目当てのホストの顔を捜しはじめる。
 広いフロアに、ホストと女客との世界が、どろどろと蠢いていた。
 客である女たちの年齢層はまちまちだった。ホストたちはほぼ若い。自分の子供といっても通るような、若いホストたちに群れる女たちは、いずれもその倒錯的状況に、睫をふるわせているようだった。
 一人だけ四十歳ぐらいの小柄なホストが、背の高い女の客に振り回されるように踊っている姿は、同性の眼には哀しく見える。
 同じホストでも、カリスマと呼ばれて寵児となっている有名ホストのように、時代を味方にする才能も煌びやかさもなく、眼の前の彼らは、女を巧く操っているようでいて、実は網の中の小魚のように、ジタバタしながら手錬れな女たちの蜘蛛の糸に、手繰り寄せられているような甘さが覗く。
 見ているかぎり、男としてのプライドを棄ててまで、それと相殺出来る実入りがあるとも思えなかった。四十歳ぐらいに見えるホストなどは、ズボンの折り目が消えていた。
 容子の指名したホストは、恭しくテーブルの前に片膝つき、変に畏まって龍介を見上げて、お世辞を一言言った後に、ちょっと待っててね、と容子の膝を仕事が見える女のような細い指で擦りながら媚び、他のテーブルに移動していった。容子はあからさまに悔しさを顔に描いて、遠ざかるホストの背を見据え、
「何さ、色男ぶって。せっかくあたしが来たってのにぃ」
 舌打ちし、返す刀で龍介が忘れていた、あの夜の美鈴の言動を斬りつけてきたのだった。
「遊び歩いてどこが悪いって言うのよ」
 急ピッチで水割りを呷り、鬱憤を束にした言葉をぶつけてくる。
「あたしのほうが美鈴の何倍も苦労してるわよ。これだってその一部なんだから」
 龍介が止める間もなく着ていたセーターを捲りあげ、背中を露出した。
 余り近すぎてかえって図柄は見難かったが、眼の前で天女がぼんやりと舞っていた。
 龍介は周囲を気にしながらも、その刺青から眼を放すことが出来なかった。天女の眉間の朱が、眼に染みた。
 一度見たいと願っていた彫り物を、妙なところで不意に目の当りにして、戸惑っていた。少しずつ冷静になった眼で見直せば、見たかった欲求が大きかったせいか、その画は粗末なものだった。
「気が済んだでしょう。前からしつこいほどに見たい見たいって、そのときだけ龍ちゃん、大きな駄々っ子だったんだから」
 拗ねていたはずが、急に笑い出し、
「あの男、ちょっと待ってて、なんて言って、何してんのかしら、遅いわね」
 再び愚痴を言いながらも、龍介に向き直ると、ホストが来るまでの間を持たせるように、淡々と昔話をする容子の声は、陰湿な話の内容のわりには乾いていた。

 容子は父の顔を知らないらしい。ずっと母親の手一つで育てられ、その母も容子が十五歳の秋、突然、狂ったように女の部分を取り戻し、さっさと男をつくった。
 容子はそんな過去を、まるで他人事のように言いはじめた。歳相応のショックはあったらしい。十五歳の女の子が、種馬であっただけの父親を憎み、父で懲りているはずなのに、ある日不意に男を銜え込み、毒花のように艶やかになった母親を憎んだ。
 それらへの反発。もとはと言えばそこからなのよ。あたしは情けない境遇をいつまでも実感として覚え続けていくために、背中と股間に紋々を入れたのよ。容子は右手を背中に回し、その辺りを擦った。
 激しく身震いを繰り返す。そっとセーターを引き下げてやるしかなかった。容子はされるがままになっていた。
 ボーイがトレンチにアイスペルを載せ、前を無関心に通り過ぎて行った。エレキバンドがまだ、過激なアクションで唄っていた。
 龍介の眼の前で、セーターで隠された容子の背中が尚も、小刻みに震えていた。細い腰から末広に立ち上がるように、白い肌に刻まれた画。構図そのものは稚拙なものだった。しかし、それは龍介の官能を呼び起こすに充分だった。
「出来が悪いの。あたしのは半端。画もあたしと同じなのね。これからが仕上げだって、新米の彫り師が生意気なこと言ってたけど、お金も続かなかったし、それよりも何よりも、痛くって……。それで、止めたの」
 気を取り直したように自分で水割りをつくると、それを一気に呑み干し、
「ねえ、あの男早く呼べよ。帰るよ、もう」
 しゃくりあげた自分に照れたようにボーイに毒づく容子を見ていると、刺青を途中でやめたぶん、それから現在までの無節操な日々を針にして、残りの画を自分で仕上げて来たのではないか、と思わずにはいられない。
 容子にとっては、刺青の出来不出来などはどうでもよかったことなのだろう。背中を鏡に映し、股間に眼を向けるごとに、そして、夏のプールで、係員に刺青が理由で退場を促されるたびに、幼いころのことが蘇り、そんな自分の過去の背景に甘えたかったのだ。
 だから、昨夜も今夜も明晩も、意識的に夜を破滅に向かって疾走していく。
 あたしにはそれが似合っているのよ。そう自分に言い聴かせながら。
 けれど、突っ走ることが美しく耀いて見える年代は一瞬にして後方に流れ、維持することが不可能な女の旬が瞬く間に消失するのを自覚したとき、はじめて刺青が恨めしくなったと、妙にたどたどしく言いながら、容子は龍介の膝に泣き崩れたりする。
 そのときすっと自分の隣りに坐ったホストに一瞥をくれながら、
「女としての峠が過ぎたと感じたとき、あたしはそれでも、ツッパリ人生を貫くことに決めたの。二十九歳はいまではおばさんって言われるけどさぁ、こういう店に来ると、まだまだあたしは女王でいられるものね。ね、そうでしょう」
 傍らに傅くホストに畳みかけ、困惑したように龍介のほうを窺うホストへの、
「莫迦。あんたはただ、ハイって言ってればいいのよ」
 その口調には、はっきりと媚が滲み出ていた。
 その後の二時間余り、あれほど気持ちをぶつけて泣き崩れ、龍介の存在など忘れたように、ホストの耳元に囁くように何かを訴え続ける容子を辛抱強く待ち、龍介はボーイに呼ばれてホストが席を離れたのを潮に、容子を促し立ち上がった。
 一月の夜の明け際は異様に寒く、肌を射抜くような鋭い風が、ビルの谷間を吹き抜けていた。北風にどこからか運ばれてきた街路樹の枯葉が一枚、眠る場所を求めるように転げている。
「もうじき、あたしもこうなるのよね」
 その枯葉を足で受け止め、憎々しげに踏み潰す容子の横顔は、棄てられたばかりの飼い猫のようだった。
 一言が妙に気になり、送ろうか、とタクシーに手をあげる龍介を手で制し、前方に走り出す容子を見て、龍介は不意に湧いた不安に包まれながら、白みはじめた冬の朝の中に佇んでいた。
 容子は一度も振り返ることなく、まだ少しだけ、夜のほうが濃い街角に消えた。
 アパートへの道すがら、不安の量は少しも減らなかった。冷える一日のはじまりだった。携帯の電源は切っていた。おそらく何度も電話をかけ、アパートの留守番電話にもその回数が記録されているだろう美鈴の顔を思い浮かべながら、龍介はアパートに向かって、足早になっていた。

「容ちゃんが死んじゃったのよ」
 美鈴の嗚咽混じりの声で耳から全身を一撃されたのは、龍介が容子と、これが最後と決めて、ホストクラブに遊んだ一週間後の朝だった。
 あれから、懐具合と相談して、夜遊びの誘惑に辛うじて堪え、そろそろ麻薬の禁断症状のように、瞼の裏をネオンの彩が占領し、今日支給される給料を待ち望んでいた朝だった。
 もう、起きる時間か。
 そう思いながら、まだ半分夢心地のまま枕元にある時計を見上げた瞬間、眼醒ましのベルのように、黒電話が鳴り響いた。携帯は寝ている間に充電するので切っていた。
「寝惚けないでちゃんと眼を醒ましてよ」
 美鈴は呆然としたまま受話器を握り締めているのを知るはずもなく、苛立っているようだった。
「死んだって、何故」
 戸惑いを隠せなかった。尚も呆然としたままでいると、
「わからないわよ。店のママからあたしもたったいま、連絡を受けたばかりなの。ねえ、何故? わからない。何故、死ななければならないのか、あたしにはわからない」
 逆に訊き返す美鈴の声が、龍介の耳には遠く聴こえた。
 もうじきこうなるのよね。一週間前、朝の気配の濃い冷たい路上で、枯葉を踏み潰しながら、ため息とともに漏らした容子の寂しそうな横顔が蘇る。
 そして、出し惜しみしていたはずの、いま思えば最後の置き土産のように、自ら背中を捲って刺青を見せた行動。
 龍介は美鈴の声を聴きながら、あの夜の言動の一つ一つを、記憶の中から手繰り寄せていた。完全に眼醒めてはいたけれど、頭は依然として混乱したままだった。
「発見者が見つけたときには、二人とも駄目だったらしいの」
「二人って――」
 頭が益々混乱してくる。
「ママが言うには、男の人と一緒だったらしいのよ。その相手が誰かはまだママも知らないって言ってた」
「心中か」
「二人だってことは、そうなのだと思う」
「心中か」
 ため息とともに繰り返す。
「あたし、いまから出かける。お店のみんなも病院に駆けつけるころだから、あたし、行くわ。詳しいことは、今夜会ってから――」
 電話は一方的に切られていた。龍介の耳の中に、通話終了を告げる、無機質な音が、いつまでも鳴り響いていた。
 
「今夜だけはさすがに、お金儲けのためには営業したくないわね。だから来てくれた客と大騒ぎして、あいつの通夜でもしようと思って――」
 無理につくった笑顔を振り撒きながら、やたらにウィスキーをボトルごと客たちに振る舞いながら、
「さあ、騒いでよ。呑んでよぅ。あいつ、寂しがり屋でさぁ、気の凄く小っちゃい女でさぁ、莫迦みたいに騒ぐのが大好きだったんだから。ねえ、みんな、お願いだから、唄って踊って騒いでよぅ」
 手酌で呑みはじめるママが泣いていた。龍介の前に来て、
「さっき通夜に行って来たんだ。店のみんなを連れてさ。莫迦だよ、あいつ、死に顔に笑みなんか浮かべてさ」
 泣き笑いのたびに、染みのように拡がる化粧の墨が、眼の下に哀れさを一層濃くしていた。客たちは噂で持ちきりだった。
「あそこのホストだってよ」
 憶測の飛び交う中に、訳知り顔の客の一言が、龍介を刺激した。
「ホストって、本当か」
 愕く龍介に、
「容子らしいわよね、最後まで」
 ママがカウンターに置かれた龍介の煙草を一本抜き取り、
「あいつらしいでしょう。やることがいつも突拍子なくてさ。ま、それでもこの街のホストとしては一番を張ってた男と一緒に死んだんだから、容子、多少は満足しているかも知れないね」
「あの、ホストか」
「そうなのよ。あたしも聴いたときにはびっくりしたけどね。龍ちゃん、一週間ぐらい前に容子とあの店に行ってたでしょう」
「ああ。あの夜が、容子との最後になったな」
「それじゃ、龍ちゃんは男の顔、知ってるんだね」
「たしかに、容子は熱をあげていたな」
 うなずきながら、深く喫い込んだ煙草のけむりを吐き出すママの眼は、焦点が定まっていなかった。龍介も苦い水割りを舐めていた。氷がグラスの中で鬩ぎ合い、カキンコキンと木魚のような音を響かせる。
「余り考えこんじゃ駄目よ、龍ちゃん」
 ママが他の客のほうに移って行くのを待っていたように、美鈴が近づいてきた。隣に坐る。
「いくら考えたって、もう、どうすることも出来ないわ」
 その声は不思議に冷静で、龍介を戸惑わせた。
「それはそうだ。ただ、どうしても信じられなくてね」
 それに応えて微かにうなずく美鈴の表情は、気のせいか、容子の死を肯定しているようにも見えた。
「終わったら逢って。話もあるし」
 龍介の耳に囁くのを耳聡く聴こえたらしいママが、
「おまえ、まさか容子のような莫迦なことはしないだろうね。厭だよ。もっとも相手が龍ちゃんじゃ、一緒に死んでって頼んでも笑い飛ばされるのがオチだろうけど」
 辛辣な言い回しに美鈴は肩を竦めて、じゃぁ、後で、と再び龍介の耳に吹き込み、他の席へと移っていった。
 弾き語りが、「禁じられた遊び」を思い入れたっぷりに弾いている。
「人間、死んじゃったらお仕舞いよ。ほんの三十センチ四方の箱の中にすっぽり納まってしまうんだもの」
 悪い酒になりそうなママの言葉に、その通り! 間合いのいい合いの手が、客席からカウンターに駆け上がってくる。
「ふん、容子に惚れて通っていたくせにさ」
 声のほうに毒づきながら、
「ひと月も経てば、もう誰も死んだ者の顔なんか忘れるものよ」
 今度ははっきりと龍介を見て言うママの眼には、身内同様に可愛がっていた者を、失った悔しさのようなものが見え隠れしていた。
「人なんて、誰だって寂しいものなのに。ねっ、龍ちゃんだってそうでしょう。だから、毎晩のように呑み歩く」
「ママの顔が見たくて来るんだよ」
「どうだかね。最近の龍ちゃんはわかったものじゃないわ。美鈴とは眼だけで話が通じるまでになっているようだし」
 寂しそうに微笑すると、二つ向こうの客のほうへ移っていった。

 美鈴と店が跳ねてから逢った。
 少し歩きたいわ、と言う美鈴に従い、両手をブルゾンのポケットに挿し入れ、並んで歩きはじめた。美鈴が足早になる。眼の前に小さな肩が揺れていた。そのか細い肩を見ながら、龍介はふと、俺と美鈴の関係は何なのだろう、と考えてみる。
 偶然が二人を近づけ、一度だけ他人ではなくなり、そしていまは、お互いに欠点を指摘し合い、遠慮のないほどに親しいはずなのに、それでも理解し合えない関係。
 いがみ合いながらも共通の仲間のようだった容子に死なれ、同じように嘆き哀しみながら、しかし、自分の落胆ぶりに比べ、どこか醒めているような美鈴。
 肩が震えていた。暗さを消し得ない女の肩だった。が、それだから惹かれる。分厚い毛皮のコートの内側に、少しの油断で風邪をひくような薄い心を包み、そろそろ見え始めた、女としての終着駅に向かって、歩きだしているような美鈴に、龍介は無性に惹かれていた。
「俺とおまえは一度っきりの関係しかないけど、何かずっと以前から他人ではないような気がするよ。たとえば、何十年も前からの夫婦のような――」
「前世では夫婦だったのかしら」
 美鈴は振り返って微笑み、しかし、一瞬にしてその微笑を仕舞い込むと、突然、
「他人よ。どうしたって、他人なのよ」
 冷えた声でそう言った。言葉を探していると、
「男と女なんて、たとえ身体で何万回確かめあったところで、所詮は他人なのよ。あたしはそれを身をもって知っている」
 強い眼で見据えながら言い切る美鈴の言葉の冷たさに微かにたじろいだ。龍介は沈黙したままだった。
 やはり俺は、美鈴のことは何ひとつ理解していないのかも知れない。そう思う。
「容ちゃんが可哀想。でも、何故か、羨ましい」
 真正面から吹きつける風に斜めに構え、身体から抜け出す温もりを惜しむように、毛皮の胸元をしっかりと合わせながら、美鈴は言葉を棄てていく。
 声は唄っているようにも聴こえ、泣いているようにも感じられた。
「ふとした弾みで夜に生きるようになった。夜の女になった理由はそれぞれに違うけど、入ってからの日々は例外なく同じようなもの……。棄てたはずの夢を持ち、その夢に向かってひたすら歩き、躓き、立ち上がる。そしてまた、性懲りもなく夢を持つの。でも、結局はコケるのよね。ママのように成功する人はごく稀。挫折の繰り返しの中で、どんどん夢の量は小さくなっていき、そのぶん、躓いたとき受けた疵だけが大きくなって、全身に膿を運ぶの。そして爛れ、ボロボロ。男はそんな女からでさえ、微かに残っている養分を抜き取ろうとする。そうされた女はどうなるのよ。子供まで一方的に盗られた女の行く末はどうなるって言うのよ。こうなるのよ。あたしのように、死んだ容ちゃんのように……」
「俺は、いまの痩せ細ったおまえに、ぞっこんなんだけどね」
 慰めにもならないことを言いながら、龍介は狼狽していた。
 夫とわかれた、とははじめての夜に告白されてはいたけれど、そうは深刻には考えなかった。けれど、以降、美鈴の身体の上を吹き抜けていった嵐の量は、想像以上に大きいようだった。
「送ってちょうだい」
 虚ろに響く、声だった。うなずくと、
「いや、いいわ。あたし、一人で帰る」
「しかし――」
「ううん、いいの。あたしの気まぐれ。心配しないで。大丈夫だから」
 尚も送ろうとする龍介を両手で制し、
「じゃぁ、ねっ」
 右手をあげて、美鈴は大通りのほうに歩きはじめる。
 龍介はその場に、呆然と立ち尽くしていた。少しずつ小さくなる、毛皮の後姿を見ていた。
 背を凝視していると、眼がぼーっと霞み、焦点が消えてくる。視界から美鈴の毛皮の後ろ姿が消えた。
 遠ざかる美鈴の背中が裸に見えた。幻を見ていた。白い裸の背中に、天女の刺青がはっきりと見えるのだ。身震いし、瞬きを繰り返す。再び眼を開けたとき、美鈴の背は、毛皮に覆われていた。
 得体の知れない不安を背筋に感じながらも、龍介は気を取り直し、ポケットから煙草を抜き取り、火を点けた。
 美鈴を見る。あと少しで大通りだった。佇んだままの龍介の頬の一点に、冷たく貼り付くものがあった。
 ひとひらの雪だった。
 身体が震えた。思わず駆け出した。
 美鈴の背を追った。
 靴音の響きに美鈴が立ち止まる。振り返る。抱き締めたかった。
 放したくない。そう思った。
 立ち止まったままの美鈴の眼が、見開かれていた。
 走った。雪が激しくなってきた。近づき、勢いのまま、抱き締めた。
 美鈴は何も言わなかった。ただ、胸に自ら顔を埋めてきた。
                            (了)
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