第1話

文字数 18,074文字

 相変わらず、色彩の洪水だ。
 ドアを開けた瞬間、くらりと眩暈がした。私の少ない社会人経験の中で、このオフィスが一番、色が溢れている。洗練された色彩ではなく、無秩序で、調和がない。
 長くバイトしていたコールセンターのオフィスとか、派遣社員として働いた何件かのオフィスは、どことなく四角くて、灰色で、落ち着いていた。目につく色といえば、淡いピンクや黄色のポストイットとか、壁際の棚に整然と並んだファイルの青い背表紙とか、女子社員の椅子の背に掛かった控えめな色の膝掛けとか、その程度だった。
 この会社はどうだ。こぢんまりとした室内の壁を埋め尽くすように、アニメや漫画のポスターが貼られ、共用のカウンターの上に置かれた段ボールには、色とりどりのキャラクターグッズのサンプル品が乱雑に詰め込まれている。フィギュアや食玩が所狭しと並んだデスクもあれば、フルカラー印刷の資料が、塔のように積みあがったデスクもある。社員の服装だって、パンク、リンネル系、ボヘミアン、一年中Tシャツ、などと様々だ。
 おまけに、オフィス最奥の壁際にはテレビが置かれ、業務時間中は音が消してあるものの一日中付けっぱなしで、ものすごい数の色を放ち続けている。社長のデスクがテレビのすぐ手前にあり、社長は暇そうなとき、というかオフィスにいるときはほとんどいつも暇そうで、キャスター付きの椅子ごとテレビの方に身体を向けて眺めている。
 めちゃくちゃだ。チカチカする目を抱え、自分のデスクに向かう。ユニクロで五千円せずに買ったネイビーのジャケットを椅子の背もたれにかけ、シワになりにくいポリエステルのシャツと、黒のカーディガンの形を整える。
 キャン!と甲高い声がする。前の席の、金髪で顔中ピアスだらけの黒岩さんが、ニコニコしながら犬を抱え上げ「今日、次郎来てるよー」と言う。黒岩さんの腕に抱かれた次郎という名前の雑種犬は、フリル満載の衣装を身に纏い、ご機嫌に舌を出している。犬にそれほど興味はないが、空気を壊したくないのでニコニコ笑って、わあ、とか嬉しそうに声を出しておいた。
 次郎は社長の飼い犬である。この会社は、社長が所有する、六階建てのテナントビルの一階に位置している。最上階は社長家族の自宅になっているから、社長はよく、自宅から次郎を抱えて出勤してくる。もう、何だってアリだ。近所の公園の、次郎池という池の前で拾ったからというだけで、メスの犬に次郎って名前を付けるのだってアリだ。
 パソコンが立ち上がるのを待ちながらテレビをぼんやり眺めていたら、天気予報に「今日から十二月!」とテロップが出た。それを見て、私がこのめちゃくちゃな会社で働き始めて、二ヶ月が経ったと気付いた。
 つまり、売れない役者をやめてから、もう一年になる。
 
 二十八歳になってしばらくして、プツッと何かが切れる感覚があった。ああ、もう無理なんだ、と身体全体で察知した。
 それまでの三年間、自分でもよく頑張ったと思う。運良く中堅どころの芸能事務所に所属することができて、今しか無いと、がむしゃらに活動した。アルバイトと稽古に駆け回り、オーディションを受けまくった。これまでよりは大きめの仕事をもらうことは出来たけど、「売れる」と言うには程遠く、頑張りの方向が正しいのかも分からず、やればやるだけ不安は増した。そのうちコロナが流行り始め、仕事が恐ろしいほどの勢いで消滅した。恐怖と焦りでろくに眠れず、でも立ち止まるのも怖くて、私はボロボロのまま走り続けるしかなかった。
 事務所を通してあのオーディションの話が来たのは、そんな頃だった。ネット配信の恋愛リアリティーショー。どこかの離島まで行って、男女で共同生活を送るという、陳腐な内容だった。演技の仕事では無いけれど、仕事があるだけで御の字なんだから、と事務所の人に説得され、私は渋々オーディションへと向かった。
 ピカピカのオフィスビルの中の会議室。がらんとした空間で形式的な自己紹介が終わると、ディレクターを名乗る男から、実はオーディションとは名ばかりで、ほとんどキャストは決め打ちなのだと打ち明けられた。そこからはしきりに「崖っぷち感を出せるか」と聞かれた。崖っぷち女優、安定か成功を、この番組で必ず掴もうとしている女。一番人気がでそうな男性がこの人なので、アタックを仕掛けて欲しい。色仕掛けでもいい。若くて可愛い女の子に喧嘩を売って、空気を悪くして欲しい。あなた年齢はいってるけど、見た目も綺麗系で迫力あるから、見せ場になるよ。スタイルも悪くないし、ちょっと露出なんかも入れていこう。絶対に名前が売れるから。
 そこで悪女というか、のし上がりたい年増女としての役柄をしっかり演じ切れれば、私にも「売れる」素質があったのだろう。
 でも私には無理だった。そこでプツッと、切れてしまった。私が大事に紡いできた、情熱とか、信念とか、そういうものが。
 演じることが好きだった。きっかけは、高校生の頃に参加した演劇のワークショップ。その年初めて行われた地元の町おこしイベントの一環で、高校生だけで舞台を作り上げるという企画だった。アドバイザーに地元出身のそこそこ有名な演出家を呼んでいたし、いくつかの媒体の取材を受けたりもして、結構本格的だった。純朴な少女だった私は、イベントが終わる頃には、すっかり演じることに魅了されていた。
 それから今まで、自分は演技の力を磨いて、それを売り物にしているつもりだった。容姿とか体型だとかは私の一要素だけど、一要素でしかないと思っていたのに。
 自分が差し出したもの以外で自分を値踏みされている、言葉にし難い気持ち悪さ、もうそこにすがるしかないのかという、絶望に近い落胆。オーディション会場の椅子の上で、私が感じたのはその二つだ。望まない形での注目も、望む仕事を手に入れるために利用してやる、と開き直れない自分の弱さも直視して、私はもう立ち上がれなかった。
 
 夢を諦めた私には、何も残っていなかった。職歴もスキルも金も安定も。社会に居場所が欲しい、働かなくてはと、最初は派遣会社に登録したのだが、職歴の無さとコロナ不況で就職は難航し、ようやく働き始めても、会社都合で数ヶ月で切られることが続いた。そうこうしているうちに二十九になり、三十という数字を目前に控えた謎のプレッシャーで、私はますます焦り、精神状態が悪化した。そんな私の噂を聞きつけた大学時代の演劇サークルの同期が、この職場を紹介してくれた。
 版権イラストを中心に扱う制作会社兼デザイン会社。そこの営業補助。期限二年の契約社員。
 版権イラスト、という言葉を聞くのは初めてだった。要は、世に出ているアニメや漫画やゲームの絵のことらしく、アニメ雑誌の折り込みポスター、おもちゃやお菓子のパッケージ、カードゲームなどの絵を、公式の代わりに制作するのが、この会社の仕事だった。同期は出版社に勤めていて、この会社と付き合いがあった。
 社長は恰幅のいい、いかにも細かいことは気にしなさそうなおじいさん寄りのおじさんで、誰かの紹介なら安心だから、とあっさり採用してくれた。
 イラストレーターが七人、営業担当が三人、営業補助は私とベテランパートの畑中さんの二人。畑中さんがおせっかいなくらい手取り足取り仕事を教えてくれるおかげで、二ヶ月経った今では、一人でもそれなりに仕事をこなせるようになった。見積書や営業資料の作成、進捗管理、伝票や書類の整理。それから、備品の補充、キッチンやトイレ含むオフィス全体の掃除、ゴミ捨て。つまり、イラストレーターや営業の人のやらない雑用全てが、私と畑中さんの仕事なのだ。
 ザ・事務のおばさんって感じの、こういう雑用、そんなに嫌いじゃない。それは自分でも新鮮な発見だった。決まりきっていて、誰がやっても同じで、きちんと作業をこなしていれば、居場所が与えられる。
 例えばお仕事物のドラマの、主人公たちが話しているバックで、何かしらこちゃこちゃと動いている、制服を着た女性たち。演じるとして、役作りも何もないようなエキストラの。それが今の私だ。視聴者がなんとなく思い描く、事務員っぽい人の型にすっぽりはまっていれば良い。そうすれば、そこにいる意味がある。価値がある。
何も持たず、不安に駆られて居場所を求めていた私には、うってつけの役割だ。
そんなことを考えながら、銀行振込の控えとかレシートを、なるべく日付順に並べてクリップでまとめる。サイズがまちまちなので、意外と手間取る。この会社には経理の人はいないので、会計事務所に細かい帳簿付けの仕事や税務処理を代行してもらっている。社長がざっくりとした帳簿付けを終えたら、毎月お金にまつわる諸々の書類をまとめて会計事務所に送るのも、私の仕事の一つだ。淡々と作業を進めていると、見覚えのない名前の書かれた領収書を二枚ほど見つけた。
「畑中さんすみません、この、間宮さんって……」
 イラストレーターにも、営業にも、そんな名前の人はいない。目の前に座る黒岩さんがチラ、とこちらに目を向けて、すぐに顔を下げる。畑中さんは「あっそれね、あー、えーと」と分かりやすく狼狽え、「とりあえず気にしないでまとめといて。後で説明するわ、後で」と言った。いつも、質問しようものならしつこい程に細かく教えてくれる畑中さんの歯切れの悪さに、私は内心首を傾げた。

「パトロンやってるのよねぇ、社長が」
 いつものように、会議室でお弁当を広げながら、畑中さんが言った。黒岩さんはコンビニの袋から、野菜ジュースと菓子パンの袋を取り出し、ニコニコ頷いている。
「社長、元々は監督志望で、アニメ映画作ろうとしてたんですって。その道は諦めたんだけど、今でも映画は好きでね。若い才能を応援したいって、その間宮っての、どっかから連れてきたのよ。映画監督なんですって、新進気鋭の。新進気鋭ったってねぇ、そう言って連れてきてもう十年近くよ」
「私より長いっすもんね、間宮さん」
 黒岩さんはへらへら笑って、野菜ジュースを飲んだ。口元もピアスだらけで、よく穴だらけの唇からジュースが漏れたりしないものだな、といつも感心する。
「給料出してるらしーっすよ、給料」
「えっ、毎月ですか?」
「そう。別に出勤とかしないんだけど、うちでバイトしてるってことにして、毎月支援してるわけ。お給料関係って社長が処理してるから、誰も分からないんだけどね。そんな大した額じゃないらしいけど、それでも、ねぇ。よく、社長の愛人を社員にして給料払うとか聞くじゃない?そんな感じかしらねぇ」
「よく聞きます?あるんすか、そんな」
「えー、サスペンスドラマとかだと昔よくあったわよぉ。ま、とにかく、だから経費精算とかも出来ちゃって、たまに送られてくるの。今後も見かけると思うけど、ごめんね」
 畑中さんは眉根を寄せ、困り顔を作りながら私に言った。めちゃくちゃだなぁ、と思っていたら、「我が会社ながら、めちゃくちゃっすよね」と黒岩さんが朗らかに言った。
「めちゃくちゃよぉ、ワンマンよぉ。あんな自称映画監督に金出すくらいなら、ちゃんと働いてる社員の待遇良くして欲しいわよぉ」
「ほんと、それなー」
 黒岩さんは畑中さんにびしっと指を向けたが、畑中さんは全く動じず、反応もせず、ラップに包んだおにぎりに齧り付いている。この二人が、それなりに仲良くやっているのが不思議だ。
 黒岩さんはイラストレーターだ。イラストレーターの人たちは、外食や、デスクでお昼を取る人が多いのだが、黒岩さんだけは、いつも私や畑中さんと会議室でお昼を食べる。イラストレーターの人たちって無口な人多いから、一緒に食べたいみたい、といつか畑中さんが言っていた。懐っこいのよね。私の仕事もよく手伝ってくれてね、優しい子よ。ちょっと変だけど。
 ちょっと変と言われたことも知らないで、黒岩さんはご機嫌に菓子パンを咀嚼している。
「まあ、こんな会社だから、私みたいのも雇ってもらえるんすけど」パンを飲み込んで、黒岩さんは笑顔でそう言い、ピアスだらけの自分の顔を指差す。
「伊東さんみたいにちゃんとした社会人できないから、すげーって思います」
「えっ?私ですか」
「だって服とかも、毎日キチンとしてるじゃないすか。偉い」
 取り立てて特徴の無いシャツと綿パンツの私の服装を、黒岩さんはそう言って褒めた。
「そりゃ伊東さんはキチンとしてるわよ、あんたと比べるのも失礼よ」
 畑中さんが黒岩さんに言う。何て返して良いのか分からず、サンドイッチにかぶりついて視線を下げると、畑中さんが「あ」と声を上げた。
「さっき富永さんにシュレッダー頼まれたの、忘れてたわ」
「もー、そんなん自分でさせましょうよ、自分のことなんだから。そういうのだけじゃなくて、前から言ってるけど、掃除とかも持ち回りにしたらいいんすよ」
「いいわよぉ、別に。ずっとやってることだし。シュレッダーなんてすぐ済むんだから」
「じゃあ私手伝いますよ」
「だからいいわよぉ」
 二人が言い合う横で、私は急いで昼食を口に詰め込み、そそくさと会議室を出た。
 歯磨きを済ませてデスクに戻る。社長はおらず、誰も見ていないテレビが音と光を垂れ流している。男女二人が司会のトーク番組。ゲストは連続テレビ小説出演中の女優。
――結構下積みが長かったとか?/そうなんです、ずっと舞台中心で/深夜ドラマの出演で、その演技力の高さに一気に注目が集まったそうですね/光栄です、お芝居で評価していただけるのは嬉しいですね/飯山さんは、主人公の師匠であり、保護者的な存在という重要な役どころを演じていらっしゃるわけですが……
 この室内で、番組の内容を情報としてキャッチしているのはたぶん私だけだろう。他の人たちは自分のスマホやパソコンモニターに夢中になっている。みんなのように無関心になりたいのに、テレビから目を離すことができない。女優の紅く彩られた唇が、蝶のようにヒラヒラとよく動いて、目が痛い。
 いま画面に映っている、飯山繁美という名のこの女優を、私はよく知っている。最後に会ったのはもう五年くらい前だから、知っていた、の方が正しいかもしれない。私がよく客演として出させてもらった劇団にいて、たぶんあの頃はちゃんと仲間だったし、友人だった。
 彼女をメディアで見る度、ドロドロとしたマグマみたいな熱い塊が、喉元まで迫ってくる。叫びだしたくなる。少しの間、彼女に近いところにいたせいで、自分にもこの未来が辿れたのではないか、なんて考えが頭でぐるぐる回り、痛みを生む。
 頭痛から吐き気を催して、薄っすら額に汗が滲んできた頃、ようやく社長が戻ってきた。のそのそと大きな体を揺らして席に着き、テレビを消音にする。私は女優の唇を見つめたまま、ようやく、ふっとため息をついた。
 
 帰りの電車で、コートのポケットからスマホを取り出す。もう癖になった動きで、ネットニュースを開く。私用にカスタマイズされたおすすめ記事には、芸能ニュースばかりが並ぶ。「恋愛リアリティーショー出演で話題のレイラ 初女優業で大胆露出」という見出しに、胸のあたりがギュッと締め付けられる。彼女は私が最後にオーディションを受けた、あの番組の出演者だった。番組内での打算的で我儘な振る舞いが多くの視聴者から反感を呼び、兎にも角にも一躍有名になった。
 ニュースサイトをさらにスクロールしていくと、「飯山繁美 インスタで抜群のプロポーションを披露『女神すぎる』と称賛の声」という文字が躍り出て、変な動悸がしてきた。
 容姿云々でチヤホヤされるのは全然羨ましくない、断じて羨ましくない、むしろ嫌なはずなのに、湧き出てしまうこの感情はなんだ。
しょうもない注目を浴びながらも、彼女たちは私が欲しかったものを手にしている。やっぱりあのとき少しだけ我慢すれば良かったのか。私は間違っていたのか。そんな問いを繰り返して、激しい自己嫌悪と、こういう女たちへの憎悪で心がいっぱいになる。
夢の代償が大きすぎる。自分の好きなことを真剣に追いかけた結果が、この嫉妬地獄だ。
どうしてこんな思いをしなければならないんだ。
 やり場のない怒りに震え、怯えながら、スクロールを続ける。画面の中に、自分の見知った名前が登場することを恐れているのに、止めることが出来ない。いた業界が業界だったから、知り合いをメディアで目にする機会は意外と多い。昔の昔に共演したとか、レッスンで一緒だったとか、大学のサークルの大先輩らしい、とか。その程度の関係でも、私の心は抉られる。
 これから一生、どこかで知り合いの顔や名前を見かけないか、ビクビクしながら過ごすのだろうか。
 ぞっとして、ようやくスマホをコートのポケットにねじ込み、窓の外を見る。駅のホームから滑り出した電車は、繁華街の色鮮やかな光の海を過ぎ、ビル街を抜け、大きな川に差し掛かる。川に沿う広々とした遊歩道に、整備された土手。繁華街の余韻はすでに無く、夜の闇の中、白い外灯の光が流れていく。
 川が終わる。巨大な直方体をコピーペーストして並べた、大型の団地群が現れる。どの直方体にも夥しい数の窓が規則正しく並び、そのほとんどが、一様に白い光を放っている。
 この灯りの一つになりたい、と思う。その下に暮らす人が、どんな生活をしているかなんて考えもしないような、無個性の光。名前の無い光。ドラマの登場人物の背景の、その他大勢の。
 昼間、黒岩さんに言われた「キチンとしてる」という言葉が、自分の中でしこりになって残っている。
 黒岩さんみたいに、自分の好きなことで社会に貢献できるだけの能力がある人はいい。他の人より突出しているから、多少のめちゃくちゃが許される。そういうものを持ち合わせない私は、キチンとしていなければいけない。普通の人でなければならない。選び取ったわけではなくて、めちゃくちゃさを許される資格がない。黒岩さんの無邪気な笑顔を思い出して、心の中で毒づく。こっち側の気持ちなんて、知りもしないで。また胸が、握りつぶされるような痛みを感じる。
 これからもずっと、今みたいな仕事をしていたい。社会でなんとなく形作られた、事務のおばさんって言葉にぴったりハマって、誰にでも替えが効く仕事を、何も考えずに粛々とこなす。そうやって、名前のない、どこにでもいる女として生きていきたい。隠れていたい。やり過ごしたい。
 この胸の痛みを感じなくなるまで。

 オフィスのインターホンが鳴り、エントランスに行くと、ブルゾンを羽織った小汚い男が立っていた。
「おう、社長に用だから、中、入れて」
 男はオフィスに通じるテンキー付きのドアを指差す。普段、来客はオフィスを経由せずに会議室に通すので、私は焦ってしまう。「おい、早くしろよ」と、男が苛立ちの混じった声を発したとき、中から畑中さんがドアを開けて、「伊東さん」と私を呼んだ。男は私と畑中さんをすり抜けて、ずかずかとオフィスに入っていく。畑中さんがドアを閉めながらヒソヒソ声で、「あれが間宮さん。来たらもう、こっち入れちゃって」と耳打ちした。
 社長が間宮に向かって、おう、と嬉しそうな声を出し、間宮は「出資者の方々に定期報告にまいりましてね」と、潰れた蛙みたいな声で言いながら、不在の営業担当の椅子を社長のデスク前に勝手に引っ張り、どかっと腰を降ろした。
 いやあ、撮影が押しちゃってね、から始まって、あの監督は大物と繋がってるから過大評価されている、日本の映画業界は終わっている、そんな中自分はどれほど業界に一石を投じる深い作品を作ろうとしているか、等々。愚痴と批判と自慢が入り混じった間宮の発言が、聞こうとしなくても耳から入ってくる。間宮の口調は熱っぽく、見なくても、その目がギラギラ輝いているのが分かった。こういう人、昔は周りに無数にいた。大学の演劇サークルで、売れない役者仲間で、バイト先の友達で。その頃は自分も、同じような夢の中にいたから、そのギラギラしたバカバカしい大言壮語に耐えられたけど、今は冷静だから、近くで聞いているのもきつい。
 社長はそんな間宮の話を有難そうに聞いている。正気かよ、と誰かに言いたいけど、言えるわけもない。
 畑中さんが、郵便局に行ってきます、と席を立つ。あ、良いなあ、私も何か席を外せる用事は無いかなと、キョロキョロ辺りを見ると、なぜか社長と目が合った。社長が、小声で間宮に何か言って、間宮もこちらを見てくる。へえ、とか、何とか言っている。書類を確認するふりをして視線を下げる。気持ちが悪い。
 気配で、間宮が近づいてくるのが分かった。隣の畑中さんの席にドサッと乱暴に腰を降ろし「よう」と言う。そちらを向いて「どうも」と返す。間宮はニヤニヤ笑っている。社長は完全に体をテレビの方に向けていて、こちらのことにはお構いなしだ。
「俺、間宮ってんだけど」
 やっぱり、小汚いな、と思う。着古したブルゾンの肩には、フケらしきものが散っている。彼が口を動かすと、ピチャとかペチャとか、粘ついた音がして、思わず顔を顰めてしまう。眼鏡の向こうの目が、線のように細い。
「女優、やってたんだって?」
 割と大きな声で、間宮は言った。何人かが、一瞬こちらを見た。私が曖昧に頷くと、間宮は一層笑みを深めた。
「俺、映画撮ってんのよ、映画」
「はあ、そうですか」
「そうですか、って」何がおかしいのか、ヒッヒッと笑い声を上げる。
「何、どういうの出てたの」
「いえ、そんな大したものは……」
「えー、結構年いってんのに」
 間宮は小馬鹿にしたように笑った。何だこいつ。イラっと来たのを、微笑んで誤魔化す。
「年いってるけどさ、俺が今構想練ってる作品で、使いどころが無いわけでも無いよ。まずな、海辺の街が舞台でよ、結婚間近の女のもとに、十五年消息が分からなかった父親が帰ってくるのよ」
 間宮は構想中の映画の筋を、べらべらと話し始める。ここのロケーションが要で、ロケハンに難航しているとか、どれほど高い文学性を持った作品なのか、とか、そういう余分な情報がちょくちょく入るものの、話の筋自体はよくできている。
 だが、どこかで観たことがある。確実に。
 間宮の声を聞きながら、記憶の中を探る。頭の中に、何度か客演で出演したことのある劇団の名前が、パッと浮かんでくる。あの劇団が、数年前に上演した作品だ。出なかったけど、観に行った。そのときの記憶が、ばっちりと蘇った。間宮の話す筋書きは、その作品にそっくりだった。
 こいつマジか。間宮の顔をまじまじ見る。間宮は、私が自分の話に興味を持ったと思ってご機嫌に話し続けている。
 確かに一般的にはあまり知られていないけれど、演劇好きには割と有名な劇団である。よく、誰も気づかないだろうと高を括れるな。アホなのか。アホなんだろうな。こんな奴に騙され続けている社長もアホだ。
「あの」
 調子よく喋っているところを邪魔されて、間宮が怪訝そうな顔をする。
「あの、私、長いこと舞台メインでやってて。劇団ナデシコさんにも、よく出させてもらいました」
 間宮を正面から見据え、察しろよ、と念じる。お前それ、ナデシコさんのパクりだろ。間宮のアホは、まだ意図が掴めないらしく、ポカンとしている。
「何度も出させていただきましたし、自分が出演する以外の公演も、欠かさず観に行ってました。欠かさず、観に行ってました」
 察しろよ。社長には言わないでやるから。察しろ。そして黙れ。私の念が通じ、ようやく話が飲み込めたのか、間宮の目は泳ぎ、「ああ」とか「ええ」とか声を出す。
「あれー、君、出てたっけ?覚えてないなぁ。俺もあそこの奴らとは仲良くてさ。演出とかもよく相談されてね」
 嘘つけ、と思いながら、キョドつく間宮の顔を睨む。しばらく間宮は目を泳がせながら、中身の無いことを喋っていた。ところが、急にその目が定まったかと思うと、またいやらしいニヤつき顔を私の方へ向けた。
思えばあれは、私への反撃を思いついた瞬間だった。
 ああいう顔を何度も見たことがある。小学生の頃、掃除をサボって箒と雑巾で野球に興じていた男子を注意したとき。ちゃんとやってよね、と掃除に戻ろうとした私の背中に、いきなり雑巾をぶつけてきた男子の顔。大学時代の飲み会で、男たちが下品な下ネタばかり話すのでたしなめたら、「ノリが悪い」「だからモテない」などと言った挙句、「お前って処女なの?」と言って更に下品な顔で笑った、あいつらの顔。
 自分を狼狽えさせた生意気な女に、一発食らわせようとする顔だ。
「へー、じゃあさ、繁美ちゃんとか知り合い?飯山繁美、いたよね、あそこに」
「ああ、はい。何回か一緒に出ました」
「うわー、差、ついちゃったね。今や朝ドラ女優だもん、あっちは」
 わざとらしく大きな声で言う。細い目が、私の身体をじろ、じろ、と上から下まで舐め回す。
「まあ、そんなもんか。あんた、面白味のない綺麗どころって感じだもんなぁ。記憶に残んないし、掃いて捨てるほどいるタイプ。辞めてよかったんじゃない?結婚目指した方が安泰でしょ。いいよなぁ、女は気楽で。必死で夢追う必要もないもんな」
 一瞬何を言われたのか分からなかった。私が動きを取り戻すより先に、間宮は立ち上がり、社長に「また」と声を掛け、出て行ってしまう。
 ようやく事態を飲み込むと、悔しさよりも恥ずかしさが襲ってくる。周りのみんなが自分を、憐れみの目で見ている気がして、顔を上げられなかった。
 どうしてこんな思いをしなければならないんだ。
 そのとき、次郎がキュンキュン鳴いてキッチンの方へ歩いて行った。キッチンには次郎のエサやおやつが置いてあり、彼女はお腹が空くと、自分からキッチンへ向かいアピールする。私は誰よりも早く「次郎、おやつだねー」と声をあげ、キッチンへと避難した。自分でも、上手く明るい声が出せたと思う。
 
 次郎はキッチンの床で、大好きなジャーキーを無心で齧り、私はシンクで、排水溝を磨いている。このままいくつか、キッチンで出来る雑用を片付けるつもりだった。しばらくデスクには戻りたくなかった。
 キッチンの簡易テーブルの上には籠があり、自由に取って良い紅茶やコーヒー、ちょっとしたお菓子なんかが置かれている。在庫が心許なくなっていたので、この間ネット通販で大量に購入した。籠の中を補充して、余った分を作り付けの棚に仕舞い、段ボールを潰していると、マグカップを持った黒岩さんがやって来た。
 私が段ボールを何枚か抱えてそそくさと退散しようとすると、黒岩さんが慌ててシンクにマグカップを置いて、「手伝いますよ」と言った。
「あ、良いんです。私の仕事ですし」
「いやいや、気づいた人がやれば良いでしょ、こんなん」
 黒岩さんが、まとめちゃいませんか、と言って梱包テープを取ってきてくれた。黒岩さんが段ボールを支え、私がテープを巻きつけていく。私たちがわちゃわちゃと作業している間に、お腹を満たした次郎はどこかへ行ってしまった。
「申し訳ないです。全然今やらなくても良い仕事だったので。……ちょっと、オフィス戻るのが嫌で……」
「さっきの、ひどかったっすよね」黒岩さんが、真面目なトーンで言う。「すいません、何も助け舟出せなくて」
「いえいえ、無理ですよあれは」
「そうですよね?って言うのもおかしいんですけど、いやなんか、急でしたよね。急に、通り魔みたいにひどいこと言ってましたよね?何すかあれ」
 私は黒岩さんに、間宮のパクり疑惑を説明した。発表なんてしたら流石にすぐにバレるから、たぶんまだ何も撮ってないんじゃないですかね、と言い添える。
「マジすか?毎度毎度あんな偉そうに語って?まあまともに撮ってないんだろな、とは薄々勘付いてましたけど」
 段ボール、一緒にゴミ捨て場まで持って行きますよ、と黒岩さんが言うので、二人で外に出た。
「何もしねぇで金もらってるお前の方が気楽だろっていう。いやー、でもそんな奴にずっと投資してるって、うちの社長馬鹿すぎる」
 ドアをきちんと閉めた後、黒岩さんが言った。それから、そんな馬鹿に使われている私って、とがっくりと肩を落とす。
「社長に言ってやろうかな、と思いましたもん。こいつの話、全部嘘ですよって」
「気づかないもんすかねぇ。あ、薄々気づいてるけど、目背けたいのかも。もうだいぶ金出してるから、賭けるしかない、みたいな」
 うわ、やばーい、と言い合いながら、建物をぐるりと裏まで回ってゴミ置き場に向かう。
「そういえば、朝ドラ女優と一緒に仕事してたんすか?」
 はい、まあ、と言ったそばから、黒岩さんはすごい、すごいとはしゃいでいる。
「いやいや、そのときは向こうも全然売れてなかったですし。それに、私は結局、諦めちゃってるんで。何にもなってないんで」
「もう、一切やらないんすか?趣味とかでも?」
「やらないと思います。結構真剣にやってたんで、心が折れちゃって。全部遠ざけたい感じで」
「あー、それ、分かる気がします。私も結構、仕事で心ポキりかけるんすけど、そうするともう、全部見たくない!ってなりますよね。私、絵描くのも、漫画とかアニメも大好きですけど、仕事にしないでもう少し距離取ってた方が楽だったかなって思うこと、めっちゃありますもん」
「そうなんですか」
 ゴミ捨て場に着いて、鍵付きのドアを開け、中に入る。黒岩さんが指定の場所に、ドサ、と段ボールを置く。
「うーん、作品作り上げる達成感はあるし、それは好きなんすけどね。でも結局、この仕事で作った物って、原作があってこそじゃないすか。最初、絵を描き始めたときに憧れたのは、オリジナル側になることだったのに、この仕事だと、そっちには絶対行けない。むしろオリジナリティなんて要らない、みんなが求めているのは私の絵じゃない、みたいな。結構しんどいときはありますよ」
 ゴミ捨て場を出て、またドアを閉めた。ガチャ、とやけに大きな音が立つ。それまで自分の足元を見つめながら、真面目な顔で話していた黒岩さんが、その音ではっと我に返り、慌てていつもの笑顔を浮かべる。
「だからといって、私は他の仕事も無理だから、心がポキろうとも続けるしかないんすけど」
 財布か携帯持ってます?このままお昼買いに行っちゃいません?と黒岩さんが言い、二人で駅前のコンビニに向かう。またぐるりと建物を回って、会社の正面の並木道に出る。道は緩やかな下り坂で、下り切って左に少し行くと駅がある。
 街路樹はすっかり赤や黄色に色づいて、道路にその葉を落とし、落ち葉が私たちの歩みに合わせて、カサカサと乾いた音を立てる。少し先で、青い制服を着た清掃員のおじいさんが、落ち葉を箒でかき集めている。
 他愛ない話をする。近所で美味しいテイクアウトの店とか、次郎の散歩コースとか、黒岩さんの髪が染めすぎで、手触りがモールみたいだとか、そんな話。
 コンビニに入ったら、自然と別行動になった。おでんの濃い昆布出汁の匂いが充満していて、頭で考えるより先におでんの口になってしまう。匂いに引き摺られまいと、コンビニ内をくまなく歩く。雑誌売り場に置かれた漫画雑誌の表紙に「期待の新連載」という文字が踊っていて、こういうものが、黒岩さんの心をざわつかせるんだろうか、と考える。
私と同じなんだろうか。そんなこと聞けないけど。
 結局職場でおでんを食べる勇気はなく、いつも通りのサラダとサンドイッチとカップスープを手にレジ列に向かうと、一つ前に並んでいた黒岩さんが、ニコニコ笑って、レジ奥に貼られたポスターを指差した。近々発売になる、少年漫画のコンビニくじのポスターだった。
「あれ、うちの会社の仕事で、私結構メインどころ描いたんすよ」
 ほら、あれとか、とポスターを指す黒岩さんは嬉しそうで、私が勝手に膨らませた仲間意識は、しゅるしゅると萎んでいった。
 外に出た瞬間、コンビニで温もった身体に冷たい風がぶつかる。寒い寒い、ときゃいきゃい言い合いながら歩く。坂に差し掛かろうとしたところで、後ろから声をかけられた。外回りに出ていた営業の人だった。
「ちょうどよかった、伊東さんに頼みたいことがあって」
 取引先が今度、周年記念を迎えるので、贈り物を見繕って来て欲しい。予算はこれくらい。会社帰りに百貨店とか寄ってもらって、交通費精算していいから。営業さんは、伝えたいことをこちらの反応などお構いなしに浴びせかける。「そんなん、自分で行ったらいいじゃないすかぁ、自分のお客さんでしょー」と、黒岩さんがおどけた口調で口を挟む。
「いやー、こういうのは、女性のセンスに任せた方がいいじゃない。社長もそう言ってるんだよ。じゃ、後で詳細、メールで入れとくから」そう言って、足早に会社の方へと歩いて行ってしまう。
「ああいうの、すっげ嫌じゃないすか?」
 営業さんの背中を見送りながら、黒岩さんが苦々しい顔をする。
「女だからなんやねん、お前がやれよって思いません?そいうとこ古いんすよね、うちの会社。電話とかも、おっさんども、絶対に出ないじゃないですか」
 正直、電話の着信ランプが光ったら、コールが鳴る前に取るよう心掛けているので、誰が出るとか出ないとかはあまり気にしていなかった。でも言われてみれば、私や畑中さんが取り込んでいるとき、代わりに電話を取ってくれるのは決まって女性だった。
「掃除とかゴミ捨てとかも、伊東さんと畑中さんだけでやること無くないすか?みんな使うんだし。持ち回りにしたらって、畑中さんにも言ってるんですけど、畑中さんは気にならないみたいなんすよね」
「あ、すみません、私も全然、気にしてませんでした。仕事だ、って思ったらそんなに……」
「えー、そうっすかぁ?でも、伊東さんたちには、もっとちゃんとした仕事があるし、雑用がなければ出来ること増えるじゃないすか」
 黒岩さんの胸をざわつかせるものに、無自覚なわけじゃない。例えば、私の契約期間が終わった後、私の仕事を担うのは、また女の人だろう。来客にお茶を出したり、布巾類を消毒したり、そういう仕事をするのは、ほぼ確実に女の人なのだ。そこに嫌悪を感じる人がいるのも分かるけど、今の私にはそれに抗うエネルギーがない。むしろ、有難く流されていたいとさえ思っている。
「ま、私は勝手に手伝いますし、手が足りないときはガンガン言ってくださいね」
 いつもの明るい調子で言う黒岩さんに、ありがとうございます、と返しながら、ちょっと申し訳なくなる。女だからとあてがわれる役割にぴったり収まって、粛々とやり過ごそうとする私の生き方が、回り回って黒岩さんや、他の女の人たちを窮屈にさせているのかもしれない。その可能性を、申し訳なく思う。私が女として感じた面倒くささと、黒岩さんが感じる面倒くささは、少しだけ範囲がずれている。
 清掃員のおじいさんが、さっきより坂の上に移動していて、傍らに置かれたゴミ袋は、枯れ葉で満杯になっている。同じ木から落ちた、全部同じような形の葉なのに、袋の中は赤や黄や茶色の濃淡で彩られている。
 私たちにも濃淡がある。楽しいこと、嫌なこと、耐えられること、耐えられないこと。同じように見えても、少しずつ違って、ぴったり重なり合うことはない。

 金曜の朝、出勤したら、社内が浮足立っていた。いつもなら出社の遅いベテランの男性イラストレーターが、社長のデスクの前で営業の人と難しい顔で話し込んでいて、他の人たちは、コソコソとそちらを伺い見ている。私がデスクに着くやいなや、畑中さんがさっと体を寄せ、「炎上したんだって、黒岩さんが描いたやつ」と耳打ちしてきた。
 驚く私に、彼女はスマホを差し出す。ニュースサイトのトレンドワードに、人気少年漫画のタイトルがあって、それを畑中さんがクリックすると、いろんな人のポストが表示される。みんな今日発売のコンビニくじについて話していた。この間、黒岩さんが言っていたやつだ。一人の女性キャラのイラストが、槍玉にあげられているようだった。
「少年漫画の女キャラ、いい加減過剰に露出させるのやめてほしい」
「まーた男に都合の良い女像を強化するのか。しかも、少年が対象の漫画で」
「何でわざわざ胸を強調するポーズ取らせるの?ポルノじゃん」
 今回のコンビニくじでは、キャラたちはオリエンタル風のオリジナル衣装を身につけていて、件の女性キャラの、特に上半身はほとんど水着に近いスタイルだった。確かに通常の衣装よりは露出が高いのかもしれないが、燃えるほどか?というのが私の正直な感想だった。このキャラは確か勝気な女王様タイプの性格で、胸を張った堂々としたポージングにも、そんなに違和感は無い。
 自分のスマホを取り出して、エックスを開く。しばらく眺めていると、みんなが引用しているポストがあることに気づいた。ことの発端となったポストは、女性キャラのアクリルスタンドの画像と共に、こう呟いていた。
「家の人が取って来た。また飾るのかな。こういうの見る度、痩せて胸の大きい女が正しく綺麗って言われてる気がして、落ち込む。太っている自分は欠陥品」
 かわいそうに。
このポストをした人に対して、端的にそう思った。これを発信せずにはいられない程、この人が日々感じている不快感や不自由さ。そうしたものを想像すると、胸が苦しくなった。だけどやっぱり、黒岩さんの「絵」が著しく悪いとは思えなかった。きっとこの人には、この絵を見ただけで劣等感を駆り立てられてしまうくらい、日常的な圧迫感があったのだろう。私たちが怒るべきは「それ」なのではないか。この絵を一つ取り出して、批判を続けても、私たちを苦しめる根本の「それ」には届かない気がする。モヤモヤしながら画面をスクロールすると、やはり私みたいな意見の人もチラホラいる。チラホラはいるものの、そういう人の声よりも、怒りを持った人の声の方が強く、大きい。怒りの炎は渦のようにとぐろを巻いて、また新たな怒りを呼び込む。
「いるよね、私は平気でーすって、男サイドで寄って、身を守ろうとする女」
「この絵の異常さが分からない女は、女じゃない。男性優位の社会に染まった、女の敵」
 私は困惑した。私は、彼女たちの炎を、遠巻きにしか見ることができない。その炎の中で怒り、傷ついている人に寄り添えない私は、この絵に心から怒れない私は、感性が死んでいて、古い価値観に凝り固まり、男性社会に迎合していて、二重に彼女たちを傷つけているのだろうか。
 私も確かに、傷ついたことがあるはずなのに。
 困惑しているうちに、黒岩さんが出社してきた。気まずそうな私たちをよそに、黒岩さんは、「何か、燃えてますねー」と軽い調子で言った。
 社長が「黒岩さん、ちょっと」とデスクから呼びつける。社長は小声で何か話し、その横で男性イラストレーターと営業の人が、うんうんと頷いている。とりあえずあっちで話そう、と社長が会議室の方を指し示すのだけど、黒岩さんは動くそぶりを見せない。
「え?うちに問題無くないですか?衣装とかは当たり前に向こうの指定だし、最終稿だってちゃんとオーケー貰ってますし」
「いや、それでもね、製作サイドとして一応謝罪が必要になるかもしれない……」
「だから何でっすか。別にあの絵、変なとこないでしょ」
「黒岩さんの気持ちは分かるよ。でも、結構この絵、胸とか強調したポーズじゃない?やっぱり不快に思う人はいるわけ。いま、そういうの厳しいでしょ?それを提供してしまったっていう点では、こちらも謝罪の余地がさ。ほら、黒岩さんが描いていたっていうのも」
 黒岩さんが語気を強めて、「意味がわかりません」と言い返すと、社長は大げさにため息をつく。
「いや、だからね?少なくともうちのチームには、女性はあなただけだったのに、不快感持つ女性もいるかもって、どうして出す前にあなたが気づかないわけ?女性の視点ってものがあるじゃない」
 黒岩さんは、しばらく、身じろぎひとつしなかった。重い沈黙がオフィスを包んだまま、時間が過ぎる。
「ちょっと、睨みつけてないで、何とか言いなさいよ」
「私は」
 声は震えていた。すうっと息を吸い、吐いて、無理やり整えた声で、黒岩さんは言った。
「私は、美しいと思って描きました。あのポーズも、あの表情も、あのキャラの性格と、美しさをよく表すために選びました。私は、自分の仕事に間違いはなかったと思います。謝罪はしません。私を処分するなら、どうぞ」
 そう言って踵を返し、黒岩さんはデスクに戻った。
 止まっていた時が動き始める。営業の人が、とりあえず先方にもう一度連絡取ります、と会議室の方へ向かう。社長も続く。他の人たちも、自分の仕事に取り掛かる。
 会議室に入る直前、社長が「すぐ感情的になるんだからなぁ」と、小声のふりして言い放った。
 どうしてこんな思いをしなければならないんだ。
私は思う。黒岩さんの代わりに、私が叫んでやりたかった。女ってだけで一括りにされてたまるかって。叫んでやればよかった。
「あんたの方が感情的だったでしょーがっ」
 会議室のドアが閉まってから、会議室に届かない程度の声で畑中さんが言ってデスクを叩き、黒岩さんが笑った。
 
 電車に乗る。スマホを手に取る。ピックアップされたニュースの見出しを読む。知り合いの名前がなくてホッとする。ホッとしたのも束の間、すぐに地元が同じだという新人女優の記事を発見し、未だに続いていたあの演劇ワークショップの出身者だと知り、胸が痛む。痛むことに自分でも驚く。
 電車がホームから滑り出し、繁華街の明るさが流れていく。看板を彩る赤、青、黄色、白、ピンク。大型ビジョンが放つ色の洪水。電車が走るにつれ、少しずつ落ち着いて行く色彩。
 光を見ながら、いろいろな女のことを考えた。私が関わったり、すれ違ったりした、いろいろな女。
 成功した女、夢破れた女、夢とうまく折り合いをつけた女、性を排除しようとする女、性を見せつけたい女、仕事に邁進したい女、家庭に入りたい女、美にこだわる女、何の頓着もない女、強い女、弱い女。仲良くしたい女も、憎むべき女もいた。
 それは禍々しいほど色とりどりで、秩序がない。孤独だから手を取り合いたいのに、括られると窮屈で、自分を見失う。みんなそれぞれ胸の傷を抱えているのに、全部を分かり合うことはできない。
 ため息が出るほど面倒くさい。面倒くさいのに、私はその色彩に、手を伸ばさずにはいられない。私が彼女たちのためにできることはあまりなく、有るとすれば、ささやかな拒否だ。「女」として括られることへの拒否。誰もが、自分の色を保ち続けるための拒否。
 電車は川を越える。夜の色をした景色の中、あの団地群が現れる。規則正しく並んだ四角い灯りを見ながら、やっぱり、あの灯りの一つになりたいと思う。
 窓から溢れるたくさんの白い光は、青白く輝く蛍光灯だったり、ご飯を美味しく見せる暖かさを持った白だったり、眩かったり、弱々しかったり、それぞれの色を持っている。その一つ一つの物語に思いを馳せる。
 私はこれからも、そんなに劇的には変わらないだろう。過去に囚われて不毛な胸の痛みを感じ、適度な難易度の仕事をして、程々に愚痴を言い合って、生きていく。
生き抜いた先、いつかあの灯りの一つのようになっていたい。ささやかでも確実に、自分の輪郭を持って輝く。そうなれたならきっと、目の眩む彩りの中にも、入っていける。
どこにでもいる、ここにしかいない女として。
 
 月曜日。黒岩さんの髪は、坊主になっていた。耳に無数に開いた穴の一つにはリングがはめ込まれ、煙草一本くらいなら通れそうなサイズに拡張されている。彼女を見た人は、一瞬ギョッとして、それから何事もなかった風に仕事に戻った。もちろん私も。
 次郎だけはいつも通りで、赤に白襟の、サンタっぽい衣装を身につけて、尻尾を振りながら黒岩さんの方へ駆けてくる。赤ん坊に話しかけるような甘い声で名前を呼びながら、黒岩さんは次郎を抱き上げる。
「あっ、次郎また新作の衣装ですね、クリスマスバージョン」
 くるっと社長の方に振り返って言う。社長はギョッとしたままだった顔を慌てて戻して、「えっ、ああ、次郎ね。そうそう、家内がさ」とぎこちなく答える。黒岩さんは次郎を抱きしめたまま、モニターに向き直る。
 私も自分のモニターの、作りかけの掃除分担表に目を戻す。さっきから、表に名前を埋めては消してを繰り返している。昼休みに、畑中さんと黒岩さんにも相談してみようか。きっと畑中さんは、いいわよぉって面倒がるだろうけど。
 電話の着信ランプが光る。ワンコール鳴るまで待ってから、受話器に手を伸ばした。
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