第1話

文字数 1,995文字

「ねえ、私とピクニックしない?」
「ピクニックだって!」
 男は思わず、声を張りあげました。もっとも声は、巨大なカタツムリの粘液にゆっくりと溶け込んでいきます。それからカタツムリが大きな欠伸をすると、足元の河床で蠟みたいなイソギンチャクが、思い思いに歓声を上げるのでした。
「そんな時間があるものか!すぐに元の世界に帰らせてもらう!なんて言ったって、僕は国に選ばれた特攻隊の一員なのだからな!」
「でも、お国はこのままでは負けちゃうでしょう」
 その言葉に男は少しギョッとしました。
 女は、男の反応など、お構いなしに河床から星の形をしている貝を見つけだすと、指でキシキシとさせます。こう擦ると硝子の笛みたい、と愉快に笑う女を横目に男は、このおかしなトンネル内の全体を見まわしたのでした。
 巨大なカタツムリ。足にまとわりついてくるイソギンチャクに、金剛石や朝露のきれいなところだけを集めた河の水。頬をかすめていく糸のような旋律。頭上で点滅する星々と、全身をごうごうと燃やしながらも空を飛ぶ鳥たち。飴細工みたいな樹木。粘土とみかんと火薬を混ぜたような独特の香り。
 それは、はるか昔、理数科で習った耳の中の構造にそっくりなのでした。
「綺麗だと思わない?」
 女は、ぐっと男に近づくと、耳元でそう囁きます。
「ねえ、知ってる?星と星を繋ぐと絵が浮かびあがってくるのよ」
「そんなことをやっている余裕はないと言っているだろう!」
 男は、河床をどしゃどしゃ歩みを進めていきます。河の波にさらされた靴は、黄と青じろのまだらが、広がったり、狭まったりしています。ふと男の足が、ぬかるみにはまりました。
「おい!どんどん沈んでいくぞ!どうなっているんだ!」
 叫べば、叫ぶほど、男は泥の中に吸い込まれていきます。
「あなた変な人ね。元の世界に戻りたいんじゃあないの?」
「早く助けてくれ!死ぬ!死ぬ!」

 気が付くと、男は舟に横たわっていました。大丈夫?と女は、男の顔を覗きこみます。男は、ああ、大丈夫だ、と言うと、身体をゆったり起こしました。不思議な羽をしたトンボが横切っていきます。
 あたりはマングローブがうっそうと茂っています。トンボが、その幹に止まると、ぺかぺかと明滅するのでした。
「靴は、あなたのポッケの中に押しこんでおいたわ。ポッケが膨れると気持ちいいでしょう?」
 それから、二人は河の上をただひたすらに漂いました。星のかけらを掬おうと水面に何度も手を伸ばしては、すぐに飽きて仰向けに寝転びました。
「さあ、ここから先は、耳小骨よ」
 浅瀬に舟を止めると、はだしのまま、女の後についていきます。
 しばらくすると、ころんころんと骨と骨が、合唱する音が聞こえてきました。
「アブミ骨さん、ちょっと上を失礼するわね」
 女は、骨の上をコチコチと歩きます。その骨の破片が下に落ちるたびに、下にいる小魚が、虹色の水面から顔を出すのでした。
「耳神様よ!」
「耳神様?」
「そうよ」
 骨に乗った男は、耳神様が、ゆらゆら泳いでいるのが見えました。戯れていた数多の魚は、耳神様に道を開けます。ふと、耳神様は、男に気づきました。耳神様は、こちらに顔を向けると、やあ!と音を繰り出しました。
 その刹那、男は、顔のすべての曲線が固くなっていることを自覚しました。なぜなら、耳神様だと思っていたものは、戦死したはずの上官だったのです。よく見ると取り巻きの魚たちの顔も死んだはずの同僚にそっくりなのでした。
 女は、逃げて!と叫びました。耳神様の姿が、どんどんと変わっていきます。男は、その場から駆け出しました。骨の上を走って、走って。ぺこぺこと凹んでいる鼓膜を突き破ります。耳神様は、男を追いかけてきます。
 ポッケよ!靴に空気を入れるの!早く!女に言われるがまま、男は靴に空気を入れます。すると、みるみるうちに靴は戦闘機になりました。
 男は戦闘機に飛び乗ると、出口めがけて離陸します。絡みつく耳神様の腕は、プロペラで粉々になりました。耳神様が見えなくなると、二人は声を上げて笑いました。
 ふと女の手が男の耳に触れます。
「じゃあね、その手、放しちゃあダメよ」
 女は、そう言うと、操縦席をすり抜けて、戦闘機の尻を片手でそっと押しました。バルバルバルというけたたましい音とともに戦闘機はずんずんトンネルを突き進んでいきます。   

 バルバルバル。トンネルを抜けたと同時に男は意識を取り戻しました。まさに今、男は、戦闘機で、敵国の空母に突っ込んでいくところでした。ふいと、耳元から硝子の笛の音が響きます。それは、あの世界で見た星型の貝柄でした。男がそれに触れると、何億もの蛍烏賊は空中に放たれて、操縦席の中を鮮やかにしたのです。
―その手、放しちゃあダメよ
 思わず、男は両の手の感触を確かめます。すると、右手には、さっきまではなかった脱出装置のバーが握られていたのでした。
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