憑かれつかれて

文字数 3,139文字

 このごろ、思い出すことがある。
「風呂場で幽霊が『いる』と思ったときは、本当にいる」
 という噂だ。いや、そのことにまつわる顛末(てんまつ)といってもいい。

「ごきげんよう。ちょっとよろしい?」

 かつてオレは、どうやらその噂は本当のことだということを身をもって知った。

「あなたに『憑いた』名もなき幽霊よ。これからしばらくよろしくね」

 不躾(ぶしつけ)な挨拶をしてきたその幽霊は、現れたタイミングも不躾だった。
 そいつはオレが一日の楽しみとしている、風呂の最中に「憑いて」きたのだから。

「ノックぐらいしてほしいもんだな。幽霊だろうと、風呂場に入ってくるときぐらいは」
「入ったんじゃないわ。元々ここにいたの」
 シャンプーをなじませている、頭の中に直接声が響いてくるからタチが悪い。土足で踏み入られた気分がして、オレは声に大にして抗議する。
「何もオレに憑かなくてもいいだろう。邪魔だから出てってくれ」
「お生憎(あいにく)。私は生きてる人の身体を借りなきゃ、この狭苦しい風呂場から一歩も動けないの」
「ちゃんと会話をしてほしいもんだ。出てけと言ってるんだが」
 髪をかき分け、頭皮を洗っている指に力が入る。
「あなたこそちゃんと話を聞いて。あなたの身体を借りなきゃ動けないって言ってるの」
 前頭部から側頭部へ。後頭部にいたるまで一日の汚れを念入りにそそぎ落す。
「仮に一歩譲って、話を聞くとしよう。それで、大事な風呂の時間を楽しんでいる一般市民の身体を捕まえてどうするんだ? 祟《たた》るのか? 呪うのか?」
 シャワーを手にすると、蛇口を最大までひねる。
余所(よそ)の幽霊は知らないけど、私にはそんなことする力も権限も無いわ」
「じゃあなんで」
 洗うときと同様、頭全体をなでるようにシャワーを当てていく。
「お願いごとを聞いてほしいの」
「願いごと?」
「そう、お願いごと。それはあなたの身体を借りなければ果たすことができない」
 ため息をついて蛇口を切る。手桶を取り、風呂から湯をすくう。
「要するに、あんたは人の風呂を邪魔しただけじゃなく、オレがあんたの望みに応えなきゃ、出ていかないってことか」
 手桶に満載した湯を打ち払い、抜けた髪や隅に寄ったシャンプーを排水溝に流す。
「要するにそういうこと。よくできました」

 膝を折りまげ、身体を深々と湯船に沈めると自然と吐息が漏れる。一日の労苦、しがらみが吐き出されるこの瞬間は、何物にも替えがたい。不意の来訪者によるイライラも次第に失せ、思考は整然となっていく。その愉悦に同調しているのか、幽霊も不思議と何も語りかけてはこない。
「いつ死んだ?」
「いきなり失礼ね。女性にそれを訊ねるときはもっと丁寧に聞いてほしいわ」
「いつ死んだのかも聞くのも失礼なのか?」
「言ったら今日までの歳がわかるでしょ」
「幽霊も歳を重ねるんだな」
「みんなそうとは限らないわ。歳を重ねたと思うかどうか、時間を感じるかどうかは、人それぞれ」
「そういうもんか……」
 吐き出される息が浴槽の水面に小さな波紋を作り出す。
「……未練なの。私の場合は」
「……なんだって?」
「未練がある限り、私は時間を重ね続けなければならない」
 波紋はゆっくりと浴槽の淵まで行き、消えていく。ほどなくして幽霊はまた言葉を継ぐ。
「……この近所に立ってる桜の木は知ってる?」
「ああ、あのちょっと高台にある……」
「その桜の木の下。そこには何が眠ってると思う?」
「幽霊が言うと穏やかじゃないな」
「……タイムカプセルが眠ってるの」
「タイムカプセル?」
「そう。私の生前、大事な人と一緒に埋めたの。お互いへのプレゼントを入れて数十年後、中を確かめることを約束したけど、結局それは果たされることなく私は逝ってしまった。どうしても、あの人が何を残してくれたのかを、せめて私は知りたい……」
「なら、そんなまどろっこしいことしないでその大事な人に会いに行けばいいじゃないか」
「無理よそんなこと。もう、会いに行く体も無いんだから」
「……」
「あなたにお願いしたいことは、桜の木の下のタイムカプセルを掘り出してもらうこと。頼める?」
「まさかの肉体労働じゃないか」
「そうよ。そのために肉体を借りてるんだから」
「そのためにオレはこうしてさっぱりした後、また外へ行かなきゃいけないわけか」
「そこをなんとか。一生のお願いよ」
「もう一生は終えてるだろ?」
「殺生なこと言わないで」
 浴槽が大きく波立つ。今までとはうって変わって淑やかな声で幽霊がささやいた。
「……それこそ、一生を捧げた人なんだから」
 幽霊はまたそれきり語りかけてこなくなる。オレは黙って浴槽から重い腰を上げた。

 すでに季節は冬から春に差しかかっていた。肌寒いが、真冬に着るような上着では、歩くだけで汗ばむような時期だ。重労働に備えて、薄着で出ることにした。
「夜中、シャベルを担いで歩く姿。どこか猟奇的ね」
「もし家にシャベルがなかったら、どうするつもりだったんだ?」
「シャベルが無ければ買えばいいじゃない」
「幽霊になると金銭感覚も浮くようになるんだな」
「幽霊になれば好きなだけ金持ち気分を謳歌できるわ。……ほら、そこよ」
 話しているうち、目的地に着く。裏山のようにちょっとした坂道を登った先にある桜の木。都市部の輝きを一望しながら小さな花見も楽しめるそこは知る人ぞ知る隠れた名所だ。図らずも桜の木は満開まであと数日、といった様相を呈していた。
「ここに来るのも久々だな。……こんな綺麗だったなんて」
「よかったわね。素敵な景色を見れて」
「誰のせいでここへ来るハメになったと思ってんだ」
 早速シャベルを地に打ちたてる。その感触はこちらを歓迎しているとはとても思えない。
「……これは骨が折れるな」
「仕事終わりのひと風呂が楽しみね」
「誰のせいでまた風呂を楽しむハメになったと思ってんだ」
 愚痴っていても目的を果たさなくては帰ることは出来ない。黙々とシャベルで地面を掘っていく。思いのほか汗が吹き出てくると、暖かい季節がもう来ているんだと改めて実感する。顔へ飛んできた泥が広がることもいとわず、汗を腕で雑に拭う。
「なんでこんなことしてるんだって思ってる?」
「人生なんて、こんなことの繰り返しだ」
 深く掘り進めば進むほど、土は硬くなって立ちはだかってくる。
「こんなことしようとしまいと、人は生きて、死んでくんだよ」
 ますます流れる汗を振り払いつつ、がむしゃらにシャベルを地に突きたてていった。

 どれくらいの時間が経ったかはわからない。それまでとは異質な手ごたえを感じ、オレは動きを止めた。その手ごたえを頼りに周りを掘っていくと、四角い箱が地中から姿を現す。土や泥が無尽にこびりついているが、元は真っ白な箱だったことが見て取れる。桜の淡い紅色とは対照的に、無垢な色を輝かせている。それは、なんだかとても懐かしいものに感じられた。

「これでいいのか?」
 そう問いかけるが、返事は帰ってこなかった。
「……?」
 もう、頭の中で声が響くこともない。
 後には散りはじめた花びらと街のきらめきだけが残された。
 風が、火照(ほて)って汗だくの身体に沁みわたる。
「……これで、よかったのか……?」
 もう一度、オレはそう問いかけた。

 それからあの日はそのまま家に戻った。オレと幽霊との関わりもあれきりだ。今思えば人をこき使うだけこき使って、お礼も無しにいなくなるとは、現金なやつとしか言えない。
 オレには時の感覚は薄いのかもしれない。どんな仕事に従事していようと、あらゆる葛藤が発生しようと、風呂に入ればすべては清算される。四十三度の湯船に浸かるごとに、それまでの自己と社会からは解放される。

 それはきっと幽霊にしても同じことだろう。
 たとえ肉体が無くとも、憑けば、浸かることができる。
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