金平糖(全編)

文字数 25,074文字


 ながらく連絡の途絶えていた旧友から、ふいの電話が入ったのは、ふたつきばかり前だったか。
 仕事人間で通した俺も、いよいよ退職するよと言った。
 同じく身に覚えのある相手を選んでこぼすのは、口ぶりよりずっと、心に寂しさを抱えていたのだろう。数年ぶりの会話であったのに、五分と持たなかったのは、選ばれたこちらにも、まだ所在なさがわだかまる所為(せい)かも知れない。
「それで、おまえは最近何をしてるんだ」
 の問いに、まともな返事ができず、言葉を濁しては結局
「また今度、飲もう」
 などと会話を結んでしまったのが、ずっと気に懸かっていた。
 その友が旅行をしたと、土産を送ってよこす。どうやら、気に病んでいたのはわたしばかりらしい。
 宅配便の中には、絵はがきが添えられており、友の懐かしい悪筆が踊る。それによると、東南アジアや台湾などを細君とふたり、のんびり回ってきたというのだ。
「へぇ、やるなぁ」
 独りごち包みを開けると、凍頂(とうちよう)烏龍茶の金色の缶と、梱包された壺のようなものがあった。緩衝材を取り除き、感嘆の声を漏らす。
 壺はごく淡い空色で、輪飾りのついた二つの取っ手と三つの小さな足、それに玉のついた重い蓋があり、そこに小さな龍が二匹彫りつけられていた。
 ────台北(たいぺい)で輝石を並べている店を見つけた。おまえが、石好きなのを思い出し、何か記念になるものを物色していたら、店主に勧められた。体裁は香炉らしいが、材質は羊脂玉(ヤンシーユ)もどきらしい。最高級の白ほどの価値はないそうだが、青は珍しいだろう。
 そう手紙にあるが、わたしが鉱物を標本にしていたのなど、もう三十年以上も前の話だ。
「あいつ、覚えててくれたんだ」
 友人の心遣いに嬉しく思い、石の壺をてのひらにのせ、その日は()めつ(すが)めつ過ごした。

 あれ以来、暇な午後には市立図書館へ出かけている。
 懐かしい石好きの気持ちが疼いて、図鑑を見に出かけたら、ロビーのところに、内外の姉妹都市から寄贈された鉱物標本が飾られていたのだ。
 今日は、その図書館と、さらに大きい標本があるという役所のほうにも足を伸ばすつもりである。
 パートの休日で家にいた妻が、珍しく帽子とサングラスに手を伸ばしたわたしに目をみはったが、
「図書館に行くよ」
 の言葉にはそっけなく、あらそう、で済ませた。
 外はよく晴れている。バスで十五分ばかりの道を、往路は散歩がてら徒歩でいく。途中、川沿いで少し立ち止まり、そういえば昔このあたりでも、川流れの瑪瑙(めのう)や黒曜石が採れたんじゃなかったかと思い出した。
 図書館の陳列にも、握ったように丸い瑪瑙があったのは、そのせいか。
 半年前まで、数十年間毎日、バスで通っていたときは思いもしなかったことだ。河原へ下りて、つれづれに辺りを見渡すが、堤防工事で砂利を敷き直した公園に、それらしきものはない。
「ここら辺りも、すっかり変わったなぁ」
 ひとしきり景色ばかり眺めて、気持ちを収めた。
 そこからは寄り道せず図書館へ向かう。ロビーでは、気の済むまで持ってきた拡大鏡(ルーペ)をガラスケース越しに翳した。瑪瑙にもさまざまな形がある。鉱物的にはケイ素化合物である水晶と同種だが、結晶化、形、層のなりたちで分類されるのだ。
 ちょうど国産の翡翠も出ていたので、それも眺め、あとは図鑑を片手に閲覧室へ向かう。
 そこで、若い女性に声をかけられた。
「石がお好きなんですね」
 驚いて顔を上げると、三十がらみの細面が微笑みかけている。わたしは、些か面食らった。
「はぁ。ええと」どなた様でしたか。
 そう続けるつもりだった。
 だが、その言葉を待たず女性は破顔し、物怖じなく返す。
「すみません。見ず知らずの方に、突然声をかけてしまって。ここで何度かお見かけしたものですから」彼女は帆布製のセカンドバッグに手を入れた。
「わたしも先週から、こちらの標本を見せてもらっていたんです。水入り瑪瑙を、店で磨かせて頂いた関係で」
 わたしは反射的に、差し出された名刺を受け取る。これは常識というより、長年のサラリーマン生活で身についた癖だ。だが、代わりに渡すものなど、もう胸ポケットに入っていない。
 Garden(ガーデン)と流麗な筆記体で書かれたお店の、こちらはオーナーでいらっしゃるらしい。
「────パワー? ストーン?」
 だが、わたしの首を傾げたイントネーションに、彼女はひとくくりの言葉で発音し返す。
「パワーストーンですよ。お守りのような意味ですが、若い方には、鉱物という言葉より、こちらのほうが馴染み安いようで」
 当たり前のように返され、あなたも十分お若いじゃないですかという言葉は、胸に納めた。
「うちの店は、本通り沿いに東へいらっしゃればすぐです。奥には鉱物標本もございますので、一度お寄りください」
 そこで、うちは先代まで、都内で輸入卸業を営んでいたのだと女性は付け加える。
「わたしが受け継いで、小売りも始めたんです」
 はぁ。わたしはまた、煮え切らない言葉を漏らした。
 名刺を渡すシチュエーションというのは、たとえ退職した者が相手でも、営業行為に違いない。
 本通りを東といえば、市役所へ行く通り道だ。図書館を出て、公園のベンチで缶コーヒーを飲んでから、道すがらに『パワーストーンショップ』へ寄ってみたが、はたして、そのウィンドウに飾られていたのは、色とりどりのアクセサリーや、開運風水、幸せを呼ぶとまじないのような商品説明のついた、おはじきのような握り石(タンブル)ばかりであった。
 あれでは、店の奥に飾られた、子供の背丈ほどもある南米産の紫水晶の晶洞(ジオード)や、数キログラムは下らない緑泥岩つきのヒマラヤ群晶が泣きそうだ。
 石の世界も変わったか。
 わたしは、ほんの少し足を止めただけで、その店を通り過ぎた。あの女性はまだ戻っていないのか。アルバイトらしき若い店員は、ショーウィンドウ越しのわたしの視線に気づくこともなく、客のいない店内で、携帯電話を覗き込んでいた。
 どこかそら寒い心地で部屋に戻り、かつて大切にしていたコレクションの写真を引っ張り出し、眺めてみたが、やがてそれにも飽いた。
 机に鎮座する淡い空の色に目を移す。
 たしかに、もどきとは言えこの青は珍しい。
 翡翠は、鉱物として硬玉(ジェダイド)軟玉(ネフライト)の二種類に分かれる。輝石として有名な硬玉に対し、軟玉のほうは工芸品などの細工に使われることが多いが、そうした軟玉の中でも、より透明感のある高品質なものは羊脂玉(ヤンシーユ)と呼ばれ、主に中国で珍重された。
 こればかりは硬玉より価値も高く、友人の手紙にもある通り、肉の脂身のような透き通る白を最高級とし、状態の良い骨董ともなれば、ほんの小さな置物に驚くような()がつくことも珍しくない。
 そういや、糸魚川(いといがわ)翡翠の原石や、清代の羊脂玉文鎮も、祖父から譲り受けたコレクションには含まれていたはず。
「うーん。ひとつくらい手元に置けばよかった」
 残せば、未練になると当時は思ったのだ。
 心の中で祖父に手を合わせる。子供の頃から、小遣いや食費を切り詰めて集めた数は、おそらく千を下らなかったろう。娘が生まれ、転勤で引っ越し、置き場所に困ると、多くは人に譲ってしまった。
 今から同じものを集め直そうとしても、なかなか難しい。
 輝石には旬がある。鉱床は常に有限で、すでに掘り尽くされたり、採掘場所や方法が変わったりすることで、鉱物としての価値も変動する。
 手放しても未練はあったか。友人がくれたのが、原石でなくてよかった。
 そんなことを考えていたら、妻が仕事から戻った。
 たちまち家中、せわしない空気が流れ出す。わたしは、香炉を机に戻した。
「いんげん豆の筋取りと、海老のから剥きを手伝って」
夕食(こんや)はなに?」
「天ぷらよ。食べたいって言ってたから」
「そうだっけ」
「そうよ。手を洗って」
 早く早くと急かされながら、はいはいと立ち上がる。
 その夜はずっとその調子で、妻の世間話に付き合いながら、夕食をすませ、日付が変わる前にはぐっすり眠ってしまった。

 トイレに起きたのは、午前二時過ぎだったか。
 寝室から下り、用を足して、台所へ水を飲みに回ると、わたしの書き物机の置かれた居間で、何かがチカッと光ったように思った。
 いや、光ったというか。跳ねたというか。
 寝ぼけているのかも知れない。だが漏電であっては怖いので、明かりをつけぬまま居間のあちこちを確かめる。コンセントのさしぬきを見ようと、TVや家電の裏側を、伸び上がったり屈み込んだりしながら、覗き込む。
 ────ぽちゃん。
 頭上で音がした。わたしは、とっさに持ち上げた頭を、潜り込んでいた机の天板でしたたかぶつけてしまった。痛みに顔を歪めたまま、机を見る。
 ────きらり。
 今度は音でなく、閃光がまぶたを射した。光源は空色の壺。あの香炉の中である。
 とって返し、わたしは明かりをつけて眼鏡を拭くと、壺を翳し、中に虫か何かが潜んでいやしないか覗き込む。
「うん?」
 虫ではない。だが、なにかある。
 小首を傾げ、懐中電灯を取りにいった。蛍光灯の作る影かと、別方向から照らして見る。さらに引き出しから拡大鏡を出し、右手に明かり、左手に拡大鏡と、壺を傾けつつ唸っていると
「なぁに?」妻の声で我に返った。
「いやねぇ、ゴソゴソ。泥棒かと思うじゃない」
「ゴソゴソって」
 口ごもる。こんなこと、まともに話すだけ馬鹿をみそうだ。
「なにやってんの」
「夢を、みたんだ」
 プフッと、まるで漫画の吹き出しのような音を立てて、妻は笑い出した。わたしが退職して以来、彼女がこんな風に笑ったのは初めてのような気がして、わたしは照れくさく、懐中電灯を消し拡大鏡を置いて、香炉に蓋をする。
「────あ」
 その途端、とある事に気が付いた。
「なに?」
 こんどこそ、わかったぞ。
 わたしのそんな顔に、妻はたちまち笑みをかき消す。
「いつまで、そうしてるのよ」

 翌日、妻が出かけるのを待ちかねて、わたしは香炉を抱え庭へ出た。猫の額のような小さな庭だが、裏手が空き地なので、見晴らしもよく、よく日が射すと妻が小さな菜園を作っていた。
 本日もよく晴れている。
 わたしは満を持して、それを翳す。昼日中の太陽の下で、香炉壺の青に薄く白く、魚影が浮かび上がる。
「あれ」
 金魚鉢をさかさに見たようで、思わず感嘆の声を上げた。
 見つけたときよりぼんやりしているが、魚で間違いない。背びれのしなりや尾っぽは、ちょうど夜店ですくった和金といった風情だ。
 直裁に、これを昨夜寝ぼけて見た光や水音と結びつけるほど、わたしもロマンチストでないが、面白い形の()には、石好きの心が躍った。
「触った感じも違う。土壌にあるとき石英が入り込んだかなぁ」
 石英はガラスの原料である。それが暗がりで何かの光を透過したのだとしたら、あのキラキラも説明がつくだろう。
 なおも光に翳していたら、垣根の隙間から潜り込んだらしいどこかの猫が、わたしに向かって毛を逆立て、ひとしきり唸って逃げていった。
 おまえも魚を見たのか。
 なにかおかしくて、ひとりでほくそ笑んでいたら、頃よく、香炉を送ってくれた友人から電話がはいる。近くまで来たから、昼飯でもどうかと誘われた。土産の礼をまだきちんと返せていなかったから、一も二もなく快諾して、出かける準備をする。
 台所に妻が用意してくれた昼食があったが、夜食べることにしようと、片手を立てるようにして、出がけに冷蔵庫へ片付けた。

 寿司はどうだと誘ったら、まだ日が高いうちに飲むなら、酒よりコーヒーがいいと言われ、結局ファミリーレストランを選択し、いい年をした男ふたりが連れだって、席を取る。
 こういう場所は、久しぶりだ。娘夫婦と孫が遊びに来たときぐらいしか、立ち寄ることもない。
 もう少し居心地の悪いものと思っていたわたしは、なんとなく恐縮していたが、席について注文を済ませると、周囲の無関心にすぐ馴染んでしまった。ひとり客が多い。こういう場所ほど、昼と夜で客層も違うようだ。
 友人は、旅行の写真などを見せながら、すっかり薄くなった頭を掻き、実は台湾へ移り住むことになったのだと打ち明けてきた。
「そりゃ、また」わたしは、ちょっと身を乗り出す。「何かツテでもあったか」
「いや、娘がもう十年ほどあっちで暮らしていてね。婿も孫もすっかり落ち着いてるし、いっそ、夫婦で来ないかと言うんだ」
 そういうことだったのかとわたしは思った。
「じゃ、一緒に暮らすんだ?」
「そこまでは。一応、むこうで不動産物件も見てきたよ」
 へぇ。改めて感嘆の声を上げる。
 昔から、根回しのいいやつだったが、そこまで決めたのなら、もう口を挟む余地はない。なるほど、それで連絡をしてきたわけかと納得もする。
 うちも友人のところ同様、ひとり娘が関西に嫁いで五年になるが、いっそ離れているのもきっぱりしていいなんて、ようやく夫婦で言い合えるようになったばかりだ。十年離れたあとの事なら、条件さえ整えば、それはそれでいいことかも知れないと思った。
 そんなことを口にすると、やはり友人も、こちらの事情を思い浮かべていたらしく、それで話をしたかったのだ。そう笑う。
「俺が仕事の引き継ぎだなんだって、ゴタゴタしてるうちに、うちの嫁さんが話を進めちまって」
 ああ、なるほど。
「奥さん、入り婿さんとはうまくやってんの?」
「どうだろうな。こんなものじゃないのか。俺のほうは、娘をやったぐらいに思って付き合ってるからアッサリしたもんだ。ただ、仕事のきちんとできる男だから、そこは安心してる」
 話が進むうち、彼の細君は数年前から準備し、こっそり言葉も習っていたと言うから恐れ入った。一枚うわてである。
 苦笑が微笑みに代わり、孫の写真を見せ合う頃には歓談になった。
 別れ際、また面白い石があったら送ると言う友に、わたしは昨夜のことを切り出す。もちろん、オチの付いた笑い話のつもりだった。
 ところが、
「そういや、その香炉を買ったとき、つまんないこと言われたなぁ」
 逆に切り替えされ、いったん浮いた腰を、ふたたび席へ落ち着けることになった。
「いわくでも、くっついてたか」
「という程でもないが」そう前置きした彼は、香炉が置かれていた店の様子を説明したあと、付け加える。
「店主が、俺を日本人と知って念押ししたんだろう。使い方は自由だが、くれぐれも蓋を開けたままにするなって、そう言うのよ」
「開けたままにするな────蓋はちゃんと閉めとけってこと?」
 うん。彼は頷く。
「まぁ、繊細な装飾だし、扱いとしてはもっともだけど。やたら真剣な顔して、縁起物だから気をつけるようにってさ。一緒に行った娘が通訳してくれたから、間違いないと思うよ」
 縁起物ねぇ。わたしも唸る。
「そんな験担ぎ、向こうにあったかなぁ」
 さぁなぁ。友人は返す。
「ただ、店主曰く。こういうものは蓋が開いてると()が強すぎて、色んなものを呼んじまうらしいんだな。運とか、縁とか、目に見えないような、さ。────で、思い出した。おまえ、もしかして香炉の蓋を開けっぱなしにしなかったか」
 蓋を。そういえば。でも
「気が強すぎるって?」
「気さ。気功(きこう)や、運気なんかの、気」
「気なぁ……」
 何かが、少しひっかかる。
 いや、話としては面白い。天然の石を彫りあげた香炉には、工業製品にない鉱物独特の佇まいがある。それを気と呼ぶのなら、わたしがまた石にひかれ始めたのも、呼び覚まされてのことなんだろう。
「石の気配なら、なんとなくわかるけど」
「そういうのも、きっと縁起物なんだろ」
 友人は微笑み、席を立つ。
 伝票を取られ、わたしはあとを追いかけた。

 夕食のあと、またぞろ斑の入った香炉を眺めていたら、妻に笑われた。
「よっぽど、それが気に入ったのねぇ」
「今日、野木沢(のぎさわ)にあったんだよ」
 へぇと妻は相槌を打ち、お返しがまだだったと、やはりわたしと同じく、つまらない大人の礼儀を、先に口にした。
「うん、そのことはいいんだ」
 帰り際に、彼の好きな練り物の手土産を渡しておいた。
「お元気だった?」
「まぁな」
 そういや、少し痩せて精悍になっていた。仕事をやめてから酒も断ち、健康的な生活を送っているらしい。
「奥さんもお変わりなく? そういえば、あそこの静香ちゃん。結婚してからあちこち飛び回って、ずっと日本にいないのよね?」
「うん。台湾に移るらしいよ」
 妻の声が高くなった。台所から、せわしなく戻ってくる。
「移るって、どういうこと? ご夫婦で、台湾に? 旅行じゃなくて?」
「静香ちゃん一家が、むこうに落ち着いたんだよ。それで、こんどは野木沢たちが呼ばれたらしい」
 妻が奇声を発している。奇、いや喜か。あるいは、羨か。これも、気か。
「永住するのかしら。きっと、そうよね。お孫さんもいるんだもの。それに食べ物もおいしいでしょうし、暖かいし」
 おまけに、面白い石もたくさんある。
 俺もなにか趣味を持とうかなぁ────そう笑った友に、わたしは、かつての鉱物標本を手放したことを、最後まで言えずにいた。
「台湾かぁ、住んでみたいわねぇ。いいわねぇ」
 来ると思った。
 だけど、うちの娘は関西にいるんだよ。琵琶湖の見えるところで暮らす娘を置いて、老夫婦が海外移住もないだろうに。
 そんな揚げ足取りも思い浮かべつつ、妻がうらやましがっているのは、そういうことでないぐらい、わかっている。
「おまえはすぐ、何にでもそう言うからなぁ」
「だって、どこにも行ったことないんだもの」
 ハイハイ、はいはい。
 為す術もなくわたしは、テレビのリモコンを探すふりをする。

 友人の様子があまりに素のままだったので、わたしはそれを真に受けたくなったのかも知れない。あるいは、妻でないが、見知らぬ場所の神秘性を、勝手に思い描きたくなったのか。
 とにかく────
 その夜わたしは、わざと香炉の蓋を開けたまま就寝した。そして、夜半過ぎを待って、様子を見に行った。
 だが、香炉には何の変化もない。
 二度ばかり見ても同じことで、翌朝、妻に頻尿の疑惑をかけられるオマケまでついてきた。
 それでも、なお開けっぱなしに何かを期待して待ってみたが、昼も夜も、香炉に何も起きる気配はなかった。
 つまらん。
 当たり前といえば当たり前の結果に、わたしは香炉を放り出し、鉱物写真のアルバムも机の引き出しに放り込むと、退屈しのぎに飽いた子供のように、怠惰な日々を取り戻した。
 野球、テレビ、庭の草引き、その繰り返し。
 図書館通いも飽きた。パワーストーンと名を変えた鉱物標本を、見に行く気も起こらない。
 この現実感の無さは、どうだ。
 わたしの人生は、なんと安上がりでくだらないのだろう。時間を浪費するようなものだ。拡大鏡を翳し、無価値に価値を見いだすほどの深みもない。
 一週間が過ぎ、やがて二週間。毎日が夏休みのごとく過ぎていく。
 季節が梅雨を迎える頃、野木沢から葉書が一枚、届いた。台北に移ったとのことだった。



「────やっちゃった」
 雨上がりの湿度に、玉の汗を滴らせながら草むしりの手を休め、庭越しに居間を見上げると、妻の決まりの悪い目がわたしを振り返り、スイッチを切った掃除機を片手に何かを翳す。
 それが香炉の蓋であるのは、すぐにわかった。
「落としたのか」
 網戸を開け放ち、すぐに受け取る。龍の繊細な細工が、コロリと手の中へ落ちてきた。
 ごめんなさい。言葉とは裏腹、怒ったように言い放つ妻の態度に、ムッときた。
「おまえは────なんで、そういつも粗雑なんだ」
「直すわよ」
「直す? おまえが、か? どうやって」
「そんな言い方しなくたって。直せばいいんでしょ。接着剤か何かで、直せるわよ」
「ばか」つい、言葉を荒らげる。「それは直すんじゃない。くっつけるって言うんだ」
「馬鹿はソッチでしょ。くっつけたら、直るじゃないの!」
 売り言葉に買い言葉で掃除機を放り出し、真っ赤になって、わたしから香炉の蓋をひったくった妻の形相を、呆れて見つめ返す。
 接着剤だって?
「何を言ってるんだ」
「そっちこそ、何よ」
 こぼした水を盆に返せないように、割れた石が元通りになることなどないのだと説明しようか。
 いや無駄だ。妻は、ただの嫌味だと思うだろう。
 だが接着剤で何もかも戻るなら、石の切り出しや工芸にわざはいらない。粉ガラスを錬り固めたものと、天然ガラスの区別などない。
「もういい」
 そう睨むと、妻は腹立たしげに、それをわたしに押し返す。首に巻いたタオルで汗を拭い、わたしはもう一度、折れた箇所を眺めながら、これを直すのは無理だろうと諦める。
 だが、放置するには忍びない。修繕するなら、せめてプロに見せよう。
 シャツを着替えて、市役所通りの『パワーストーン』ショップへ、香炉を持ち込むことにした。
 先日覗いたときには留守だった女店主が、今日は店番をしていて、持ち込みを一瞥するなり、少し難しい顔をして見せたが、しばらく矯めつ眇めつしたあと、
「もったいない。いい細工ですよねぇ」と唸った。「羊脂玉としては弱めですが、石として透明度もありますし、色も自然です」
「ええ。普通の翡翠は、硬度こそ弱めでも、みっちりと靭性(ねばり)があるでしょう。だから落としたぐらいで壊れるとも思えないんですが、これは石英が混ざり込んだか、中に()が見えるんです。その分もろいのかも知れません」
 大きく頷いた店主は、
「でしたらなおのこと、磨きや彫りで手を入れるのは……」
 と、言葉尻を濁した。
「そうですか」
 溜め息混じりに、肩が落ちる。そんなわたしを気の毒に思ってくれたのか、店主はデスクから、ビーズ工芸用の接着剤を出してきた。
「見た目の修復だけでも、なさいます?」
 やはり、それしかないか。
「お願いします」
 店主は拡大鏡つきの眼鏡を出し、石の肌理(きめ)を読みながら、一分の狂いなくはずれた箇所同士を合わせた。
「幸い、欠け落ちはないようですね。これならぴったりくっつきますよ」
 そして、器用な手つきで、接着剤を注射器のような容器から少しずつ垂らすと、一つ、二つと、破損した細工部分の亀裂を合わせるようにつけていく。
「さすがに、慣れてらっしゃる」
 わたしが感心すると、店主は微笑んだ。
「────ええ、まぁ。仕事柄、色々と」
 わずか五分ばかりで、破損と傷はきれいに隠れる。
 くっつけられた場所には、粘液のはみ出しや、パーツのずれもなく、ちょっと見には、傷があるのもわからないくらいだ。
 接着剤が完全に乾くまで、半時ほどかかると言われ、わたしは広くない店内を物色した。修理代もいらないと言われては、少し気も引け、また改めて見渡せば、表のウィンドウよりずっと、面白い品揃えで、アクセサリーからキャビネットタイプの隕石標本までが、ところ狭しと並んでいたからだ。
 どうせなら、これまで絶対に食指の動かなかったものを見よう。
 そんなことを思いつつ、珍しいヒマラヤ産の水晶ビーズに目を留める。小さな丸みの中に、繊細なダイアモンド針が見事に貫通している。
「これは切り出しですか。昔は水晶の数珠玉といえば、ガラス同然の錬り物と相場が決まってたが」
 わたしが、思わずそう漏らすと店主は頷く。
「ええ、加工や研磨の技術が進んだので、今はこういう内包物や、亀裂の多いタイプの原石でも、砕かず穴を通せるようになったんですよ。形の整った錬り水晶よりお値段も張りますが、天然物として人気があります」
 なるほどなぁ。
 石の中に、泥や原油、別の鉱物の一部が混ざり込んだまま、小さな星のかけらのように磨かれたビーズに、わたしは目をみはった。
 見た目は決して整っていないが、おもちゃのような色ガラスに比べ、ずっと石らしく、また、ずらりと並んだ姿には、原石に勝るとも劣らない威厳がある。
「こういうの、二十年前にはなかったなぁ」
 どうですかと勧められ、わたしは小さく頷いていた。
「お数珠にして? どうかねぇ」
「今は若い人の中にも、ブレスレットのようにして、着ける人が増えてますよ」
「こんな渋い石を?」
 店主は笑った。
「そこがいいんです。お客様の手に合わせて、組んで差し上げますよ」
 見た目だけは整った香炉を、丁寧に乾かし、梱包してもらい、左手には買ったばかりの緑泥岩いりの水晶ブレスレットをつけて、意気揚々と家に戻ると、ふて腐れた妻がそっぽを向いた。
「おい」
 呼びかけにも応じず、二階の寝室へと逃げていく。
「俺の晩飯(めし)はどうした」
 ホンキで臍を曲げたか。無言のまま、カチャンと鍵の掛かる音だけがする。
 仕方ない。
 こんなことなら、娘が年頃になったとき、おのおのの部屋にプライバシーとかいって、鍵を取り付けるんじゃなかった。

 冷蔵庫の中のものを肴に、缶ビールを二本ばかり。
 窓を開けたまま、わたしはすっかり寝入っていたらしい。宵の風が背中にひやひやするようで、このままじゃ風邪を引くと、夢見心地に思ったときだった。
 ────体裁だけは、なんとか整ったようですな。
 ────わかったような、わかっていないような。
 奇妙な話し声が聞こえる。
 テレビをつけたままにしていたかと思った。あるいは、妻が起きてきて、だれかに電話でもしているのか。
 ソファから体を起こすと、まず窓を閉め、わたしは辺りを見渡す。テレビはついていなかった。明かりも消えているから、トイレにでも下りてきた妻が、節電したらしい。
 寒気の這い上がる背中を震わせて、床に脱ぎ捨てていた部屋着のトレーナーを被る。
 梅雨寒というやつか。
 番茶でもいれようと、立ち上がると、また
 ────われわれも、一服しましょう。
 テレビを振り返る。携帯電話を確かめる。そのとき、視界の端を直したばかりの香炉がかすめた。蓋が開け放しになっている。
 その開いた壺に、小さな何かが、うじゃっと動いたような気がした。思わず手を伸ばす。
 すると飛び移り、手の上を駆け回った。蟻の這うような感触であったが、実体は見えない。そのまま指先から香炉の壺の中へ、ぼとり、ぼとりと、しずくのように消えていく。
「うわぁっ」
 今度はこっちが香炉を落としそうになって、慌てて、ふたたび宙で受け止める。その拍子に背中をひねり、壺を額に押し戴くような形で、わたしは床に這い蹲っていた。
「あいたたた」
 じんと脇腹から、痛みがずり上がるのを、しばし堪える。これは残るぞ。そう顔をしかめていると
 ────わたしに住まう小さな者らが、たびたび驚かせてすまないね。
 ふいに香炉の壺が、そう謝ってきた気がして、わたしは床に落とす。
 蓋に比べると細工の少ないそれに、幸い損傷はなかったが、痛みと驚きで、しばらく顔が上げられない。
 たった缶ビール二本で、どうやら、酔ってしまったらしかった。

 翌日、送別の御礼にと、マンゴーを送ってくれた野木沢に国際電話をかけた。
 あの香炉のせいで、またおかしな夢をみたと訴えると、彼は電話の向こうで盛大に吹き出す。
「わかったわかった。俺が悪かったよ。もう勘弁してくれ」
 それは、こっちの台詞じゃないか。そう言い返すと
「からかって、すまん。縁起物なのは確かだけど、蓋とか、開けるなとか、店主は何も言ってないよ。あれはほんの冗談。まさか、真に受けちゃいないだろ」
 真に受けるも、何も。わたしは口ごもる。香炉は話しかけてきたんだが。
「酔ってたんだと、思うけどね」
「決まってるさ。酔ってたんだって。俺も年のせいか、めっきり酒に弱くなったよ」
 こいつが笑い出すと止まらないのは、昔からだ。野木沢のよく通る声のせいで、会話が筒抜けなんだろう。甘い香りをたてるマンゴーを剥きながら、妻が聞き耳を立てている。
「それなら、それでいいけど」
「それ以外の何があるんだよ」
 たしかに。わたしも失笑を浮かべ、電話を切った。
 台所の妻に声を投げる。
「さっそく剥いてるのか。いい匂いだな」
 だが、返事はない。いつまでも、そうつんけんするなと言いたい。
「むこうの暮らしは、気楽らしいよ。こんど遊びに来いって」
「あ、そう」
 聞き耳は立てる癖に、妻は、まだ昨日のことを根に持っているのだ。
 わたしは、懐柔策に出た。
「夏は蒸し暑いらしいから、秋にでも行ってみるか。なんでも、静香ちゃんのご主人が料理のプロで、うまい飲茶(やむちや)や、中華薬膳をご馳走してくれるらしいよ」
 食い物の効果は絶大である。妻は久しぶりに、顔をほころばせた。
「行くなら、お孫さんにもお土産持って行かないとね」
 うんうんと、わたしは頷く。濃厚なマンゴーの一切れに舌鼓を打った。
 食べながら考える。それならそれでいい、か。そう答えはしたけど。
 じゃあ、香炉は、なぜうちに来たのだろう。
 野木沢と話すうち、亡くなった祖父の言葉を思い出していたのだ。
 ────圭祐(けいすけ)、石ってものはな、魂が宿る。昔の人はそう考えて、そこに仏様を彫りつけたり、きれいなものを磨いて、魔よけの飾りと身につけたりしたんだ。
 祖父は、社会を教える教師で、もとは民俗学を研究する学者でもあった。わたしよりもずっと石好きで、ただ買い集めるのでなく、地層の読み、掘り方や見分け方、保存方法までを教えてくれた。
 石は、人や植物より、はるかに寿命が長い。土壌で生まれ、水に削られ、地球の歴史をその身に刻んでいる。
 ────だから、その土地にある石とどう対峙したかで、民族の文化や歴史もわかるんだ。黙っているからといって、石が無言だと思ってはいけない。うちに来た石も劈開(へきかい)や結晶に、それぞれ言葉を持っている。
 石を迎えた者は、皆それを聞き、見るのだ。
 わたしをからかって大笑いしていた野木沢も、縁起物という言葉だけは否定しなかった。
 妻が婦人会のカラオケに出かけてしまうと、手が自然とまた香炉へ伸びた。
 日はとっぷりと暮れなずんでいたが、できるだけ部屋の明かりに近いところへ翳す。美しい青色に浮かぶ、白い魚影を確かめたくなった。
 ところが覗いてみて驚いた。
「増えてる!」
 魚影が増えているのだ。一匹どころの話ではない。ひとつふたつ、みっつよっつ……大小合わせ、全部で七匹。いや。
 石英の混じり合い、靭性(じんせい)肌理(きめ)、|缶ビール……。
「いや今日は酔ってない────まだ、一口も飲んでないぞ」
 ────ふむふむ。
 わたしの言葉に、手の中で香炉の壺がそう頷いたように思った。今度は幻聴か。馬鹿な。祖父が言ったのは、そういう意味じゃない。
 ────さぁて。
 香炉が、笑みをこぼしたか。
 ────ならば、おのれこそ幻であろうか。
 ついにはっきり聞こえた声に、わたしは香炉を取りこぼす。ぴしゃん、と魚影がひとつ大きく跳ねる。
 わたしは息を飲んだ。その瞬間、どうした具合か体が重力の縛りを失い、どこかへ転げ落ちていた。



 茫洋としている。
 転げ込んだはずの場所に、わたしは立ちすくみ、ただ呆然とあたりを見渡していた。
 一面、青々と草の生い茂る野だ。
 遠目には灌木と木立、さわさわと草の海を乾いた風がそよぐ。
 体のどこも痛まないし、ぶつけた感じもない。衣服に砂の粒ひとつもついてなかった。どんと突き飛ばされたような感覚があったはずなのに、落ちたのでも転げたのでもなく、まるで気が付いたらここにいたという様子だ。
 どういうわけかと、自分自身に問いかける間に、人影に気が付いた。
 繁みをかきわける。一足ごとに草の匂いが立ち、その先は踏み固めた舗装しない道が延びて、釣り竿片手の老人が行きすぎるところだった。
「ああ、あの────」
 呼んだ声に、足を止めてくれる。その様子と服装に、わたしはためらったが、喉元にわだかまる言葉を吐き切った。
「ここはどこでしょうか」
 老人は、きょとんと目を剥いた。しぼんだように小柄で、向き合うと背丈もわたしの肩ほど。だが、泰然と微笑んだ。
「ええと、あの」依然、言葉がないままの相手に耳が遠いのかも知れないと、わたしは声の調子を上げ、一音節ごとに切って発音した。
「ここは、どこ、なん、でしょう、か?」
 ────アア。
 老人はまたにっこりした。聞こえていないのか、あるいは言葉がまったく通じないのか。
 この雰囲気。どうやら後者のようなんだよなあ。
 長く伸ばした髪を後ろでまとめ、作務衣のような身軽な服装をした老人と見つめ合いながら、わたしは首筋を掻く。
 ちょうど道の端から白い犬を連れた子供らがやってきたので、わたしは質問の相手を彼らに鞍替えすることにした。
「君たち。ちょっと聞きたいんだけど」
 子供たちは三人いたが、よく似た丸い顔をしていた。みな日に灼け、老人と同じ青っぽい作務衣を着ている。犬に首輪やリードはついていない。わたしが近くに寄ると、犬が警戒の唸りをあげたので、年長らしき子が、その首根っこを押さえた。待ての姿勢をとらせる。
 それを見守って、わたしはまた、さっきと同じ質問を繰り返した。
「ええと……ここは、どこ……かな」
 耳の遠い老人に尋ねたように、一語ずつ区切って聞いてみたが、こんどは音量ではなく言葉が通じるかどうかを、まず知りたい思いが立っていた。
 子供たちは、たがいに顔を寄せ合い。目配せし合い、笑みを噛み殺した。
 これは、もう。
「言葉が通じていない。じゃ、何を聞いても無駄か」
 それと同時に、おそらく現実の出来事でもないのだろうと、余計なことまで予感する。
「さて、どうしようかな」
 溜め息を漏らすと、それを見つめていた子供が、堪えきれず笑い声を立てた。
 ────カラカラコロコロ
 おおよその予想とは違う、高い金属音混じりの声に、わたしは、ぎょっと固まる。
 ────ン、ン。
 その顔つきに、犬を押さえ込んだ子が、笑った子をたしなめた。そして、わたしを睨み付け、ぐいっと天を指す。
「空?」
 わたしは、ぽかんとよく晴れた空を見上げた。
「空に何か……あるのかなぁ……」
 三人の子供らは、犬を連れて行ってしまった。少し離れた場所で、彼らもまた日常を取り戻したのか、さっき聞いた金属的な声で、カラランコロロンと笑い合う。
「────あ、ちょっと」
 まったく変な夢に、まぎれこんでしまった。
 そのときの、わたしの困惑というのはこんな感じだろうか。
 指された空は青く澄み渡り、風は心地よく、緑映える景色に、自分だけが置き去りにされ、現実感のなさに漂っている。そんな(ふう)────
「空?」
 もう一度、子供に指された天を仰いだが、そこにあるのは、細い流線型の雲と青空だ。
「それとも雲か」
 わたしは、その雲にどこか見覚えがあるような気がして、しばし首の後ろが痛くなるまで上を向いていたが、やがて間近に人の気配を感じ、視線を戻した。
 ────コロロン、ホロロン……。
 さきほどの釣り竿をもった老人である。子供らとのやり取りも、見ていたようで、熱心にわたしに話しかけてくる。その様子は、わたしのよく知る、親切なご年配と相違ない。
 何かお困りか。
 彼の目は、そう尋ねているようだった。
 ────コロロロン……ホロロ、ソロロロロン。
 子供らの甲高い声から漏れた金属質な響きが、老人のまろやかで落ち着いた声に置き変わっても、彼らの言葉には、やわらかい発音とは裏腹、ビー玉をぶつけ合ったときのような、カチンとした固い波長が混じり合っているように思えた。それが、わたしの鼓膜を震動させて、おおよそ人の声とは思えないものとして、伝わってくるのだ。
 ────カラコロロ。
 いや、そうですか。そう言われても。
「ええと……その、まいったな」
 ────エエホ。
 わたしの言葉を真似たらしい。だが、またすぐに最初と同じ穏やかな笑顔を浮かべ、肩に担いだ釣り竿の先を、老人は、二度三度ゆすって見せた。
「はい?」
 それは、カーボンやグラスファイバーといった現代的な釣り竿ではなく、リールもグリップもついていない、わたしの子供の時分によく使ったような、シンプルな竹竿のもので、糸もまたそれに見合ったものが付けられている。
 ────コロロ。
 ゆらゆら、ゆらゆら。老人は笑いながら、何度も肩をゆする。それから、ふいに背中を向けると、来たときと同じ、のんびりした歩調で歩き出した。
 ついてきなさい。
 そう言われたような気がして、所在ないまま、わたしは小柄な老人のあとへ付いていく。
 老人がわたしを連れて行ったのは、五、六メートル四方の小さな池であった。釣り竿を持っているから、ここが釣り場なのだろう。
 いつもの場所というように、草の刈りこまれた一角、平らな石の上へ、彼は腰を下ろすと、ひとつに見えた釣り竿を二つに取り分けて、わたしに手渡す。
「沼釣りですか」
 懐かしいなぁ……と、思わず呟く。子供の頃やったきりだ。竹竿の感触に、それを手の中で少し、しならせても見る。
「ええと、餌は?」
 尋ねると、老人は腰に下げていた何かの蓋を取った。虫ではなく、うどん粉をこねたような白い団子がびっしり入っている。これもまた、懐かしい。
 気前よく半分にして、老人はわたしに差し出した。
「ありがとうございます」
 それを頂戴し、わたしも釣り場を決める。場といっても、小さな池だから、ほとんど向かい合わせのような場所に、座るのに具合のいい石があるのを見つけただけだ
「なにが釣れます? ヘラブナとかナマズとか?」
 釣り糸を垂らす前に、斜め向かいから尋ねると、老人は嬉しそうに鼻をくんと鳴らして見せた。

「これは、夢なんですよね」
 しばらく無言で釣り糸を垂れていたが、あぶくも上がらぬ水面に飽いたのは、やはり、わたしだった。
 老人は答えず、ピンと皮の張った頬を少し弛ませて、にやりと視線をよこす。
「いえ、ここが夢というか。わたしが夢をみているというか」
 老人は、なおも無言のまま、釣り竿を持つ手を取り替えただけである。
 どうせ言葉は通じない。独り言になるのも、いいだろうと、わたしは続けた。
「そうだ。俺は夢をみてるんだ、うん」
 老人があくびをした。ここではあくびの声も、ホロコロロと転がりそうな音なのだった。もう搾りきれないと言うほどに、しかめた目からこぼれた涙のしずくも、ホロロと鳴いた。
 ついと、鼻先を蜉蝣が過ぎる。水草の影で、かえるが飛び込み波紋を拡げた。
 ふいに子供の頃、こことよく似た秘密の場所を釣り場にしていたことを思い出した。五十年以上も忘れていたことだった。
 いや、これは、ここは夢なんだ。
 夢の中で忘れたことを思い出したところで、詮無い。
 あめんぼうが水を掻いている。点々と丸い水草が揺れ動く。
 風に吹かれ、鼻腔いっぱい澱んだ水の匂いを嗅いでいると、なんだか、色々なことがどうでもよくなってきた。
年末(くれ)に、会社をクビになったんですよ」
 するりと言葉が口をついて出た。自分の中にわだかまるのは、リストラなんて体裁の良い言葉では、決してなかった。
 俺は仕事をクビになったんだ。社会からの戦力外通告だ。
 妻はそれを言い出せず、そのせいで機嫌が悪い。
 老人は、もう一度あくびをする。カワワと、ちょっと珍しい声が漏れ、搾れた涙はキロロと鳴いた。
「三十五年も働いて、あっさりクビになったんです。定年はないはずでした。なのに不況には勝てないと。年寄りから、人員削減だそうです……」
 老人はそこで頬を拭っていた指を持ち上げ、つと水面を指した。
「────あ!」引いてる。
 浮きの動きに、慌てて持ち上げた針はカラ。
 久しぶりの餌をつけかえに苦心していると、老人がこちらへやってきて、下手くそめと言わんばかりに直してくれた。
「どうも」
 わたしは、ちょっと頭を下げる。それを水面へ投げたが、そのあと変化はない。対して、老人は二度つづけて釣り上げた。見せてもらうと、小振りの(なまず)とだ。
 へぇ。わたしは唸る。ほんとうに釣れるのかという気分だった。
 夢だから無理かと思っていた。
 また引いてるぞ、老人が鼻先を動かす。わたしの餌はまた取られている。こんどは、先ほど老人に教わった通りの付け方を試した。
 そういえば、子供の頃、こんなふうに兄と競い合った。遊びとは言え真剣勝負で、餌はもちろん、針をつけるときの糸の結び方にも、自分なりの工夫とルールがあったのだ。
「よし」
 わたしはまた団子をつけた釣り針を水面へ投げた。
 ぽちょん、と小さな音がする。水が跳ねる音は、現実と変わらないらしい。右へ、左へ、揺れ動くウキを眺めながら、わたしはまた老人に声をかけた。
「もっと、大きいのがかかるといいですね」
 老人は答えない。いったん閉じかけたわたしの口は、それが惜しいというように、またぞろ弛んだ。
「わたしはヘタクソでした。今にして思えば、退職金が上乗せになるうちに、さっさと依願退職しておけばよかったのに。だいたい出向もせず、同じ会社に三十五年も勤めたなんてこと自体────そりゃ、昔は違いましたよ。バブル、いや高度成長期と言いますか」
 ────コロロホロロン?
 老人が、問い質したのがわかる。ええ。わたしは頷いた。
「当時は好景気でね。わたしは、大学を出て、すぐあの会社に就職したんです。コネはいりませんでした。景気が頭打ちになるまだずっと以前のことで、同じ世代には、世の中を変えるとか学生運動だとか、何かに夢中になってるのも居ましたが。たいていは、まだ人生のなんたるかもわからない────今の若いのと変わりませんよ。わたしなんか、所謂(いわゆる)ノンポリで、まぁ……自分で言うのもなんですが、決して苦労知らずの坊っちゃんじゃなかった。好きな相手もいた。だから、いつも迷ってました。ただ田舎の親が、生活費を切り詰めて学費を払ってくれているものを無下にできないと、その一心で学校を出たものですから」
 老人は小さな目をみはっていた。途中までは、何か言いたげにじっとわたしの顔を見やっていたが、途中で釣り糸に引きがあって、言葉も耳を素通りしたろう。
「おお、慣れてらっしゃる」
 彼が釣り上げたのは、最初より少し大きめの鯰だった。
 いつも、ここでこうして釣りをしているのか。わたしは自分の話をやめ、彼に問いかけたが、返事があるはずもない。
 カフフン。彼は三度目のあくびをし、とろろんと涙が流れるに任せた。
 結局、わたしは一匹も釣れぬまま、老人は数匹を釣り上げ、鯰の大きいのを三匹ばかり残して残りは全て池へ返す。
 夢とは言え、ほかに行くあてもないわたしは、釣り竿と空っぽになったえさ入れを老人に返し、歩き出した後ろについた。彼はいっこう気にしない様子で、わたしのするがままに任せる。
 最初にきた道は集落へ通じているのかも知れない。すれちがった子供に老人は鯰を一匹分けてやると、ふいにその道をはずれ、草の生い茂る小道へ分け入る。
 ぼんやりそれを見送っていると、小さな背中が振り返った。来ないのかと、無言で問われた気がして、わたしも同様に草を掻き、老人の住まいへと歩いて行った。

 住まいは、家と言うより、いっそ小屋と呼んだほうがいいほど簡素であった。板葺きの屋根に板塀。窓にガラスはなく、土間にかまど代わりの七輪があり、まるで時代劇に出てくる貧しい農家という風だが、中はこざっぱりと片付けられ、板間も土間も、掃き浄められている。
 わたしが(かまち)に腰を下ろし、にじむ汗を拭いている間に、老人は家の傍にある水瓶に二匹の鯰を放した。
 そして、もう先に放していた別の一匹をすくうと、慣れた手つきで捌き、半身を叩いてつみれに、もう半身は、茶色い油を熱した鍋で天ぷらにした。その手早かったこと。ぜひ、妻にも見せたいほどだ。
 ────ン。
 椀と皿を差し出され、夢なのにと思いつつ受け取る。かたじけないというのは、こういう感覚なのだろうか。古めかしい小屋にいるせいか、自分が一匹も釣れなかったせいか、おかしなことを思ったものだ。
 鯰は思った以上に癖がなく、塩だけで味付けをしたつみれ汁も天ぷらも美味かったが、残念なことに、膳に白い飯がない。
 せっかくのご馳走だ。米はないのかと内心尋ねたくもあったが、何も用意していないところを見ると、やはり、ないのだろう。
 食べながら、せめて会話ができたらいいのにとも思った。
 老人も、同じことを思ってくれたのか、ホロロコロロと何かを尋ねてくる。
「おいしいですよ」
 笑顔で頷くと、それはわかっているという風で、なにかしきりに促してくる。
「ええと」
 わたしは、所在なく自分の周りを見渡した。違う違うと、老人は自分の顔を指す。
 ────ホロロロロ……。
 何度聞いても、まるで何かの玉が、滑らかな斜面を転がっていくような言葉だ。耳障りも慣れてくると、朴訥な、それでいて高貴な響きにも感じる。
 理解できれば、もっといいのに。
 老人は、わたしの目をじっと見据え、同じ言葉を、ゆっくり何度も繰り返す。
 ホロロ。話せ、か。
 わたしは自分の解釈に、さらに勝手な肯定を付け加え、なんとなく頷いた。
 夢なのに。いや、夢だから。
「わかりました。話しましょう────ところで、わたしは、いったいどうしちゃったんでしょうねぇ。どうして、こんな場所に迷い込んだんだと思われます? たとえ夢だとしても、ですよ」
 わたしと似たような調子で、老人が返す。ちょっと手振りがついていた。
「ええ、まったくおかしな話です」
 分かりもしないのに、わたしは分かったような相槌を打ち、どうせ夢なんだと、また頭の中で付け加えた。
「記憶があやふやなのは、心筋梗塞か脳梗塞か何かで倒れでもしたんでしょうね。いや脳なら、どうなんだろう……昏睡中に夢なんかみるのかな。うん、でもまぁ、だいたいそんなところで。きっと目が覚めたら、病院のベッドの上とか、救急隊員の呼びかけとか────あっ」
 わたしが突然上げた素っ頓狂な声に、老人が目を剥いた。だが、発したわたし自身が、なにより驚いていたのだ。
 そうだったのか。
 ふいに絶望の淵に立たされたような、何もかもを失った気分で、箸とつみれ汁の椀を取りこぼす。
 膝頭が濡れていく。椀の汁はまだ温かく、転がったつみれは土間に落ちた。
 どうした。
 まるで諭すように、老人がわたしに何かを問う。わたしは、しばし呆然と、やさしげな彼の顔を見つめていた。あまりのことに、言葉が出なくなっていた。
 わたしは気づいた。
 どうしてもっと早く、気づかなかったのだろう。
 これは夢なんかじゃない。
 昏倒した意識の続きなどない。

 わたしは、死んだのだ。

 翌朝は、雨だった。老人は鯰を放した大瓶の世話をしに表へ出て行き、小一時間ほどして戻ってくると、ヨモギのような草をゆで、刻んですりつぶし始める。
 わたしは、ゆうべの食事のあとから、ずっと口をきかず、同じ姿勢のまま壁に向かって寝転がっていた。
 だが、だんだんそれにも飽きてきたので、時々、横目で老人のすることを覗き見している。
 絶望し、悲しみ、考え込むのにも疲れた。
 なにしろ、本人に死んだ覚えもなく、だれかに何かを聞きたくとも、ここで話の通じるものも誰一人としていないので、たちまち思考は袋小路へと入り込み、答えの出ぬまま、気持ちも一緒に、心の中を行ったり来たりする。
 わからない。何ひとつわからない。
 むしろ、なんでこうなったのか、わたしにここで一体どうしろというのかと、だれかに聞きたくさえある。
 感覚はある。飯も食えば、目も耳も口もきく。
 眠って覚めても、同じ場所だから、もう夢という言い訳すらきかない。
 わたしは、ずっとここに居なければならないのだろうか。
 もう妻や、娘や、孫にも会えないのだろうか。
 せめて、どんなふうに死んだのか知りたい。
 なぜ、ここに来たのか、教えて欲しい。
 そこで、とんとんと背中を叩かれた。起き上がると、老人が皿に鮮やかな草色の団子を山と盛り、食えと差し出している。わたしはそれを受け取ると、むしゃぶりつきながら、子供のように声を上げて泣いた。

 団子もまた、美味かった。
 わたしのその食べっぷりと、年甲斐もない醜態をさらした姿を、老人はいたって好意的に解釈してくれたのかも知れない。昼飯も、また夕飯も、その草団子が出てきた。
 しかし、死んだのに腹がへるというのは、団子や鯰の天ぷらが美味いと感じるのは、なぜだ。
 ────ン。
 わたしの食べっぷりに、満足そうに老人が頷いた。
 彼は、とことん平和な男であるようだ。
 わたしには、常にたっぷり食べ物を差し出してくれるが、自分は小柄な体に見合うような量しか口にしない。決して通じない会話に、ニコニコと耳を傾けている。雨の降った今日は一日、釣り道具やら、部屋の中の何かを手入れして過ごし、食事の支度も後片付けも、慣れた手つきでさっさと済ませて、わたしに何かを命じることもなければ、邪魔だとか、出ていけとかいう風に迫る素振りもなかった。
 わたしはそんな老人相手によく喋り、休み、よく食った。
 老人は、どんどん団子を捏ねた。
 残すと、もっと食えと進められ、食らうと椀に団子が増える。
 わたしは苦笑し、ついに手を立てた。
「すみません。もう食べられません」
 ホロロと老人は繰り返す。わたしは慣れた独り言のように、その言葉に同調し、やや出っ張った腹をさすって見せた。
「おなかがいっぱいです」
 そうか。やっと老人が、納得したように思った。
 はい。わたしも頷く。
 そうして、老人と言葉の通じない会話を交わすうち、いつの間にか眠ってしまった。

 翌日は、よく晴れていた。
 早くに目が覚めると、老人もとっくに起き出していて、すいとん汁のようなものをこしらえていたが、こねた粉の半分は、小さくちぎって丸め、例の餌箱へと収めていくから、釣りをするということなのだろう。
 食べなさいと、差し出された汁を腹に収めながら、わたしは言った。
「行きます、わたしも」老人が振り返る。「釣りに行くんでしょう?」
 尋ねると、目が頷いたように見えたが、その顔は、まだ子供を案じる親のようでもあったので、わたしは胸を叩いて見せた。
「大丈夫────というか、何もせずここでウジウジしていると、余計にくさっちゃいそうで。外に出たいんです」
 ────ホロロロ……。
 久しぶりに、その言葉を聞いた。わたしはなんだか嬉しくなった。最近ずっと愚痴り泣き通しだったので、嬉しい、そう思いたかったのかも知れない。
「釣り」
 手振りで、竿を振る。老人は頷き、わたしの口まねをした。
 ────ツリ。
「はい」今度こそ、わたしは嬉しかった。「連れてってください」
 いいよ。老人も微笑み返した。

 雨のあとでよく釣れた。
 同じ池が、一昨日より一回り大きくなったようで、わたしたちが釣り場にしていた石も水に浸かっていたが、老人は心得たもので、わたしに別の岩場を案内し、自分も別の足場に座り込んで、さっそく竿を振るう。
 餌を投げ入れて、ほどなく小さな魚が何匹も食いついてきたが、わたしも老人も、そういうのは相手にせず、ちゃんと食べられそうな大きさのものだけ釣り上げた。
 あまりにかかりが良いので、余計なことも考えずにすみ、餌があるだけ、どんどん釣り上げていく。
 昼前にはもう、持ってきた魚籠(びく)に、濡れて蠢く黒いものがみっちり詰まっていて、老人も満足げに自分の籠を見せると、小振りのものをより分け、池に放していく。
「何匹くらい残すんですか」
 そう尋ねると、すぐ伝わったようで、老人は指を三本立て、自分とわたしのほうへ向けて見せた。
 なるほど、各自三匹ね。そう頷くと、最後に同じく三本の指で天をさしたので、わたしは空を見上げた。
「空にも三匹」
 初めてここに来たときも、彼が同じことをしたような気がして、しばし、ぼうっとする。晴天に、流線型のちぎれ雲が浮かんでいるのを、ただ見上げる。
 そのとき、しかけたままの釣り竿がぐいとしなり、激しく水面を叩く音がした。
「あ、いけない。かかった!」
 わたしは慌てて釣り場へ戻る。老人もあとから付いてきた。
「大きいぞ」
 今日釣り上げたどの魚より、目立つ頭が、緑濃い水の中から見え隠れする。
「白っぽい。鮒や鯰じゃないですね」
 暴れる波紋で、ふたたび水面がざわめく。食いついた糸を振り切ろうと、右へ、左へ、引きまくるその鼻面が、ようやく水から顔を覗かせる。
「鯉だ!」
 わたしの声が興奮している。老人が短く、カロロ、コロロ────引け、待てと後ろから指示する。
 強い引きから大きさを思い浮かべたが、こんなに重いものだったか。このままじゃ、糸が切れそうだ。
「網────すくい網はないですか」
 老人はすぐに理解し、小屋へとって返すと、四角い枠に麻網をくくりつけたものを掲げて、格闘を続けるわたしのもとへ戻ってきたが、その瞬間、ぶつりとした感触で、竿は針と糸を奪われてしまった。
 その反動で、わたしはぬかるみへ投げ出され、腰から下を泥まみれにしてひっくり返る。
 ────コロロロ……。
 老人が手を差し伸べてきた。その顔つきはどちらかというと、転んだ心配でなく、惜しかったという労いのようで、わたしは自分で立ち上がる。
 真っ白な鯉だった。逃したものの、得意げにわたしは泥だらけの両手を拡げて見せる。
「デカかったなぁ。これくらいありましたね」
 ────カラコロ。
 老人も手を拡げた。もっと大きかった。
「もしかして、あれが池のヌシなんでしょうか」
 ふうむ。老人が、わたしの溜め息を真似するように唸って見せたので、おかしくて笑い出す。

 それから、十日ばかりが過ぎたろうか。
 白い鯉には、とんとお目に掛からなかったが、わたしは日がな一日、老人と共に釣りに興じ、釣り上げた三匹を生け簀にいれる。
 老人は、その中の十分泥を吐いたやつを、時々、里へ売りにいき、団子の材料にするうどん粉や、野菜や何かと取り替えて戻った。
 わたしの着ていた衣服は、草の汁や泥を吸い、洗ってもだんだんにみっともないことになって来たので、老人の出してくれた、つんつるてんの作務衣を着ることにする。
 老人には大きすぎるもののようだが、ひょろ長い手足を突き出したわたしの姿は、まるで畑の中に突っ立つかかしのようで、水面に映るたび、我ながらおかしかった。
 何日も寝起きを繰り返したので、夢をみているという感覚はさらに薄れ、死を受け入れる恐怖を心に抱えたまま、新しい生活に馴染もうとする。
 死を忘れようと努めれば、わたしはくたびれた迷子にすぎない。
 言葉は、相変わらず通じないままだ。
 だが、老人とは身振り手振りで、なんとなく意志の疎通ができるようになっていたし、ごくたまに相手の心が直接頭の中に伝わるような、そんな気がすることもある。
 ただ、茫洋とした、やたらにだだっ広い草の原だけは、いつまでも慣れない。そこにぽつりと立って居る柳の葉が風に鳴るのも。
 美しい景色がこんなに寂しいとは、ついぞ知らなかった。滂沱(ぼうだ)と涙の溢れるのを止められない。
 この現実感の無さは、どうだ。
 乗り物のないことや、コンビニエンスストアのないこと、言葉の通じないことには、さほどの不便を感じなくなっても、どこを見渡しても、ほとんど風景の変わらない、どこまでも続く緑色が怖かった。
 その青さが、所在ない広さが、わたしに自問を繰り返させる。
 わたしは、いったいどこにいるのだろう。生きているのか、死んでいるのか。
 そんなときは、丸い天空を見上げる。
 青い空には決まって、流線型のちぎれ雲が浮かんでいる。
 一足先に池から引き上げ、竿を持ったままぼんやりと空を見上げていたわたしの後ろから、そのとき老人が駆けてきた。
 ────ホロロロ!
 その様子に、ピンと来た。あの鯉だ。白い鯉が、またかかった。
 わたしはすくい網を持っていたので、すぐさま彼に従う。
 小屋と池の間には、わたしたちが踏み固めた道があり、ぬかるみには石が敷かれている。老人は早足に渡りながら、わたしは大きな足でそれを踏み固めながら急ぐ。
 池の水面は騒ぎ、竿は大きくしなっていた。
 鯉の勢いというのは凄いもので、鯰や鮒など比べものにならない。針や糸ばかりか、土に埋め、岩で固定した竿までも、すぐ持って行かれそうだ。
「あぶない」
 手を伸ばした老人が、竿ごと水へ引きずりこまれそうになったので、わたしは肩越しに竹竿を掴み、()りを強くした糸を頼みに足を踏ん張る。すぐに、踵は土へとめり込んだ。背中から腰へ、鯉の引きが、さらに加圧する。
 こらえろ。引け! 引け!
 老人が気ぜわしく、わたしと獲物に声をかける。
 ようし、来い。来い!
 水柱を立て、白い鯉が跳ねた。わたしの全身に、その反動が伝わる。今日こそ、針を取られてたまるか。糸をちぎられてたまるかと思った。
 水から飛び出した姿は、予想以上に大きい。
 跳ねた魚形は水を叩くようにして、さらに深くへ、竿を引きずりこもうと潜る。
 行かせまい。わたしは踏ん張った。
 これは闘いだった。
 夕食に口にする、つみれの団子や天ぷらのためではない。いや、団子や天ぷらを、さらに美味く食うためではあるが、その瞬間、わたしの全身はそういったことや、自分はどうなったのかということや、どこから来たのかということも全て忘れ、ただ無心に糸と竿を引く、機械のようになっていた。
 骨を軋ませ、筋肉を固く引き絞り、指先と目に全神経を集中させ、その一点に。
 ────ホロロロ!
 踏ん張れ。
 ────キロロロ!
 がんばれ。
 ようし、行ける。わたしは思った。
 鯉の引きが、軽くなる。相手が少し弱ってきたのかも知れない。一瞬の弛みを見計らい、背中と膝に力をこめて、一気呵成に竿を上げた。
 ザン、と水が持ち上がる。光る魚腹が宙に浮く。驚くほどの重みが、肩から腰へのし掛かり、わたしは笑った。
「やった、やった!」
 釣り上げた。
 老人の手が、わたしの腰を掴んだ。鯉を手繰り寄せようと網をのばした。その瞬間、宙に浮かんだ鯉の背が裂け、中から細長い生き物が飛び出す。
 わたしは息を飲む。
 水面に水しぶきと流線型の雲が立ち、その錐揉(きりも)みする勢いに、立っておられず手で顔を覆った。
 手首につけた水晶玉が弾ける。わたしはその瞬間まで、それをつけたまま自分がこちらへ来ていたことも忘れていた。飛び散った玉が、水面を打った。
 老人が叫ぶ。ぬかるみに根を下ろす葦の茎を掴んだが、遅かった。茎は音も立てずに節から抜ける。わたしは旋回する気の渦にのみ込まれ、たちまち天高く飛び上がっていた。



 ばたり、と左腕が床に落ちる感触で我に返る。
「────何してるの」
 妻の声に起き上がり、居間の床に、だらしなく伸びた自分のすねと向き直る。
「……ああ……」
「危ないわねぇ。転んじゃうじゃない」
 妻が見咎めるように、床に屈み込み、ひとつふたつと何かを拾い集めた。水晶玉のビーズだ。
「通したゴムが切れたんだな」
 寝ぼけて暴れたのか。周りに点々とそれが散るのを、眼鏡をかけ直し、わたしも拾い集める。床に手を伸ばして、尻の下に長く青々とした草の葉を敷いていたのに気づき、その青さに呆然とする。
「やめてよね、こういうの」
妻は眉間に皺を寄せ、ズボンのしみを睨みながら、切れたゴムを摘まんでゴミ箱に捨てた。
「すまん」
「そうそう────さっき、電話があって」
 妻が、そう切り出したときだった。玄関のインターホンが鳴り響き、それと同時にドアの押し開く音がすると、パタパタと小さな足音がこちらへ駆けてくる。
「おじいちゃーん、おばあちゃーん」
「ただいま、おかあさん」
 孫と娘だ。
 わたしは、自分のてのひらを見つめ、そこに残った竿だこの赤むけと、思い立ったように里帰りしてきた娘と孫の可愛い顔を見比べる。
 これはどっちだ。
「どうしたの、おとうさん」
 わたしより先に、その違和感に気づいたのは娘だ。
「昼寝して、まだ寝ぼけてるのよ」
 それを、蹴り飛ばすのは妻だ。
 拾い集めた水晶玉を、妻はリモコンスタンドの受け皿へザラザラとこぼしていった。
「……おい」
 咎める間もなく、側へ孫がやってきた。小さな温かい体が、わたしの背中にぶつかってくる。
 もう(まご)うことはない。
「おじいちゃん、お土産いっぱい買ってきたよ」
 その笑顔に、わたしの眉間の縦皺がゆるむ。
「そうか。ありがとうね」
 京都から新幹線で来たのだと孫が言い、娘が土産物の袋を拡げた。それをひとつひとつ確かめていた妻が、ふと嬉しそうに笑い声を立てる。
「あら、緑水堂の金平糖だわ。これ手作りで、おいしいのよね」
 わたしの好物じゃないか。
「おとうさん、食べるでしょ」
「うん」
 さっそく孫の相手をしていると、小さな砂糖菓子を器に移すいい音がして、わたしは耳を澄ませた。
 ────ホロロロロ……。
 はっと顔を上げる。
「どうしたの」
 孫が、丸い目を見開いて、じっとわたしの顔を覗き込んだ。その背中から、娘が金平糖を入れた器を、わたしに手渡す。さっそく自分も口の中に放り込んだらしく、行儀悪く立ったまま、顎をもぐもぐさせている。
「なあに?」
 青い壺を受け取ったわたしが、怪訝な顔をしているのに妻が気づいた。
「だめだめ、それはおじいちゃんの」
 慌てて別の皿を片手にやってくるが、このままでいいと、わたしは手を立てた。
「でも……」
「いいんだ」
 また心の中で繰り返す。
 手の中でもう一度、香炉が鳴いた。
 だが、それはもう、あの玉と玉をぶつけ合ったような、どこか不思議な声ではなかった。
 壊れた龍の飾りは良い案配にくっつき、目を凝らしても傷はない。
 薄青い壺の中、星形の菓子が甘い匂いを立てている。転がると、微かに音を立てる。
 わたしはそこに手を伸ばした。指先にふれた菓子の(つの)が爪をくすぐり、待ち構えた孫の、小さなてのひらに転がる。
 子供の頃からの、わたしの好物。
 噛み砕いた金平糖からは、ほんのり夏蜜柑の味がする。甘酸っぱさが喉を疼かせ、奥歯で芯を砕くと、ぷちりと芥子(けし)の実がはぜる。
 わたしは、それを孫と縁側に並んで食べた。いい天気だった。
「おいしいねぇ」
「おいしいなぁ」
 夏が近づいていた。
 梅雨の晴れ間の、丸い青空に、ちぎれ雲が流れていた。金平糖を食べながら、それがどんな形をしていたのかも、わたしはすぐに忘れた。

《金平糖 了》
2011年 著作 佑紀領一

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