いもほり藤五郎

文字数 5,000文字

 時は八世紀、都がまだ奈良に置かれていた時代。
 加賀の国にある地頭、つまりは領主がいた。
 昔から「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉があるように、地頭には租税徴収や軍役など絶大な権力があったが、この地頭は生来無欲の人だったため、その地に住む人々は彼のことを敬いこそすれ、恨みを持つことはなかったという。
 地頭は今日も屋敷の縁側で、老妻の和子と茶を飲みながら、のんびりと日向ぼっこを楽しんでいた。そして、なんとなしに呟いた。
「まさかこのわしが、地頭にまでなろうとはのう」

 話は遡ること数十年前、その地頭は粗衣粗食の貧乏暮らしをしていた。当時は地頭でないどころか、自分の田畑を持つ自作農ですらなかった。遠い先祖は加賀国司・藤原吉信だったともいわれているが、自分の家系は嫡流などではなく、枝葉も枝葉の分家筋だったため、何代前かで帰農した百姓暮らし。しかも、自身は家を継ぐ権利のある長男ではなく、出枯らしの五男坊だったので、自分の食い扶持は自分で稼がなければならないというありさまだった。
 いま自身にあるものといえば、先祖が京の山科を想って名付けた、ここ加賀の山科村……の片隅にある小さな手製の小屋。それから藤原氏の末裔の五男坊を物語る「藤五郎」という名前。そして、健康頑健な身体ぐらいのものだった。
 しかし、昔から欲のない藤五郎は、日々、山芋を取っては市で売って生計を立てるというその日暮らしにも、決して腐ることはなかった。
「毎日、健康で食うていければ、それで十分」
 幸い芋掘りの腕前はなかなかのものだったので、贅沢をしなければ、食うには困らなかった。
 だが、さすがにその日暮らしでは、嫁の来手もない。なので、嫁の世話をする人もなければ、藤五郎自身も家庭を持つこと自体、半ば諦めていた。
 と、そんなある日、いつものように芋掘りへと出かけていた藤五郎は、これまで見たこともないほどの立派な嫁入り行列とすれ違った。そして、その中にいたお嫁さんについ見惚れてしまった。
「は~、あんなきれいな人がいるもんなんやなぁ。まるで天女様や……」
 しばし夢うつつの心持でその行列を見送っていた藤五郎だったが、行列が過ぎようという時分になって、ようやく我に返った。
「ほうや、わしには縁のないもんやった。……しかし、どこに嫁がれるお人なんやろうなぁ」
 気になりはしたものの、それを知ったところでどうしようもないこと。
 そう自分に言い聞かせ、さっき掘ったばかりの芋を市へと売りに行ったのだった。

「今日もちゃんと売れてよかったわ」
 山芋掘りは、その山芋を傷つけず、大きいままで掘り出すというのがむずかしいところ。だが、芋掘り名人の異名を取る藤五郎にとっては、朝飯前のことだった。おかげで藤五郎の山芋は、いつも比較的売れるほうではあった。ただ、今日はそれにも輪をかけて、早く売れた。おかげでいつもより早く、家路に着くことができた。
「これも出がけに天女様を拝んだおかげやな。ありがたいことや」
 と、そんなことを思いながら、ほくほく顔で歩いていた藤五郎だったが、自分の家までたどり着くや、その笑顔を思わず凍り付かせないではいられなかった。なにしろ出がけに見たあの花嫁行列、それが自分の家の前に陣取って、藤五郎の帰りを今や遅しと待ち構えていたからだった。
「こ、これは、どういうことや!」
 言いながら、その行列を掻き分け掻き分け、自宅へと入った藤五郎。
 と、その藤五郎を出迎えたのは、穏やかそうな白髪交じりの初老の男性と、昼間見た天女の如き花嫁さんだった。
「あなたが藤五郎さんですか。私は大和の生玉方信(いくたまほうしん)と申します。そして、こちらが娘の和子。実はあなたにうちの娘を嫁にもらっていただきたいのです」
「はぁ!?
 藤五郎が驚くのも無理はない。それこそ狐が化かしにきたのかとすら思った。しかし、狐をいじめた覚えもなければ、狐を助けた覚えもない藤五郎は、つい聞き返さないではいられなかった。
「どうして、わしのところへ?」
「いやいや、驚かれるのも已む無きこと。しかし、これにはわけがあるのですよ」
「わけ?」
 方信という初老の男性が語ったのは、かくの如きことだった。
 方信は大和の商人で、生活は裕福なれど、なかなか子に恵まれなかった。それこそ子作りの妙薬、祈祷、願掛け、さまざまなものを試した。が、それでも子宝を授かることがなかった。「もう、子作りは無理なのか……」と諦めかけた方信だったが、最後の頼みに大和の長谷寺にある観音様に願掛けをした。すると、どうだろう。その日のうちに観音様が夢枕に立ち、子を授けてくれるというではないか。方信夫妻は半信半疑だったが、それから十月十日、玉のような女の子が生まれたということだった。
「それが、その……?」
「さよう。娘の和子です」
「しかし、その和子さんが、どうしてうちなんかに?」
「実はまた観音様のお告げがありましてな」
 というのも、娘も妙齢となり、ぜひ嫁に迎えたいという話もあちらこちらからくるようになった。「さすがにそろそろ嫁ぎ先を決めねば……」と思い悩んでいたところに、再び観音様が夢枕に立ったのだという。しかし、嫁ぎ先として提示してきたのは、縁もゆかりもない「加州の山科に住む藤五郎」だというではないか。さすがに方信も悩んだ。三日三晩、考えに考え続けた。
 だが、ふと娘が言った一言で、その悩みは氷解することとなった。
「観音様のお告げで生まれることができた私が、観音様のお告げで嫁ぐことになるのは、これはもう道理のこと。いったいなにを悩むことがありましょうや?」
 たしかに!
 ゆえに、こうなれば善は急げとばかり、早々と輿入れをしてきたということだった。
 思い切りが良すぎる……。
 さすがの藤五郎とて、呆れかえることしきり。
やくちゃもない(とんでもない)ことを言いなさる。だいたいわしは自分の生活だけで精いっぱい。嫁を満足に食わしていけるかどうか……!」
 しかし、藤五郎がいくら拒んでも、二人には一向に引く気配がない。それどころか、いきなりの嫁入りが無理ならまずは召使いとして使ってみてくれだとか、生活に自信がないのが問題なら仕送りをするから、とかまでいう始末。
 これにはほとほと参った藤五郎。ついには断る理由も見つけかねて、首肯するほかなかったという。
「ほうまで言われるなら、娶ろまいか。そやけど、仕送りはいらん。観音様のお告げがあったちゅうことは、自分には十分養っていけるいうお墨付きをもらったようなものや。なんとかやっていけるやろうて」
 藤五郎のこの言葉に、方信も和子も大いに喜んだ。それこそ藤五郎の気持ちが変わる前にとばかり、持参していた嫁入り道具や宴会道具を一気に運びこませ、そのまま祝言まで始めてしまったではないか。
 だが、覚悟が決まれば、自然と腹も座った藤五郎。生来のあまりこだわらない性格もあいまって、自ら率先して村人を呼び込むと、「祝い事や! やれ、めでたや」と酒やごちそうをみなにふるまった。
 そして、呑み慣れていない酒に上機嫌となってか、天女のような嫁にのぼせ上がってか、しまいには嫁入り道具まで引き出物代わりにふるまいだしたのだが、方信も和子も急な嫁入りが上々首尾となったこともあってか、それをとがめだてすることもなく、ただ満面の笑みで見守っていたのだった。

 かくして、なにもないその日暮らしを始めた二人。しかし、もともとなにもない暮らしをしていた藤五郎はともかくとして、和子は裕福な生活から一転、自分でなにもかもをしなければいけない生活になったにもかかわらず、愚痴一つこぼすことなく、まめまめしく働いた。おかげで、二人は貧乏ながらも、幸せな夫婦生活を送った。
 しかし、義父の方信は心配だった。むろん娘のことは信じている。婿のことも信じている。されど、貧乏暮らしのせいで、いつかギスギスしてしまうのではないかと気が気ではなかった。
 また、どちらかがふいに体を壊しでもしたら、その日暮らしが立ち行かなくなってしまうかもしれない。杞憂だろうが、富貴暮らしの方信としてはぬぐいきれない心配だった。
「そうだ! 万が一の備えであれば、否やもあるまいて」
 そこで方信は、娘の和子宛に仕送りとして、砂金を送ってやった。砂金袋はずしりと重い。銭に替えればかなりのものだった。
 いまの生活に不満のない和子だったが、この父の仕送りには喜んだ。やはり万一なにかがあってはと、和子も不安だったからだ。
 早速、和子は藤五郎にこの砂金袋を手渡した。
 が、藤五郎はあまり喜ばなかった。日々の生活の足しにというわけでなく、あくまで万が一の備えということなので、仕送りそのものを拒否こそしなかったが、
「ふ~ん。ほうか」
 と、さして興味も示さず、無造作に懐へとしまい込むだけだった。
 夫のあまりの無関心さに少々訝しんだ和子ではあったが、一度はいらぬと言った仕送りを一応は受け取ってくれたこともあって、その日はさして問題としなかった。
 が、問題はそのわずか数日後に起きることとなった。というのも、いつものように芋掘りに出掛けた藤五郎が、通りかかった田んぼに雁の群れがあるのを見つけ、それを捕まえようと懐の砂金袋を投げてしまったのだ。砂金袋が雁にうまく当たるか、もしくは当たらないまでも大外れしてくれればまだよかったのだが、雁のすぐそばに落ちた砂金袋が運悪く一羽の雁の脚に引っ掛かり、雁の群れとともにかなた遠くの空へと飛んで行ったのである。
 これを聞いた和子の悲しまないことか。せっかく父が二人の行く末を案じ、備えとして送ってくれたものなのに、あろうことかわずか数日で無に帰してしまうとは。しかも已む無くなにかの費用に充てたというならまだしも、半ば投げ捨てた形となったことには、憤りを通り越して、ただただ嘆き悲しまないではいられなかった。
「あれがあれば、なにかあっても十分食べていけるのに! あの砂金がいったいどれほどのお米に替えられると思っているのですか!?」
「ほうか。あれで米が()うてこれるんか。そやけど、それなら泣かんでもええ。あんなもんは山に行けばいくらでも出てくるんや。嘘やと思うたら、明日ついてきたらええ」
 藤五郎がなんのこだわりもなく、笑いながら言うので、和子は「そんなばかな!」と内心思いつつも、翌日、約束通り、山へとついていった。
 するとどうだろう。果たして藤五郎が言ったとおり、掘った山芋にはびっしりと砂金がついているではないか。藤五郎は山芋についた砂金を沢で洗い落とし、沢の底にたまった砂金をひとつかみもして、にっこり笑って言ってみせた。
「な? 嘘やなかったやろ?」
「ええ! 本当にありましたわね!」
 そして、和子から砂金の価値をとくとくと説かれた藤五郎は、以降、山芋と一緒に砂金もちゃんと持ち帰るようになったという。
 ただ、それでもやはり生来無欲な藤五郎。その砂金を独り占めすることなく、貧しい人に惜しげもなく分け与えた。おかげで山科村はおろか、近隣の村々からも広く慕われるようになり、ついにはその噂を聞きつけた都の役人から、村々の束ねとして地頭を務めるように命じられたのだった。
 もっとも、地頭を務めるようになっても、相変わらず山芋掘りだけはしっかり続けたという。
「まさか山芋掘りのわしが、地頭にまでなるとはのう。……ま、みんなが喜んでくれとるんで、これもええやろ」
 なお、この時、藤五郎が山芋を洗った沢は「(かね)洗いの沢」と呼ばれ、いつしかこの地域一帯が「金沢」と呼ばれるようになった。そして、この「金洗いの沢」は、「金城霊沢(きんじょうれいたく)」とも呼ばれ、兼六園の一角にあって、いまもこんこんと清水を湧き出している。

 また、この話は、江戸時代の寛政一〇(一七九八)年に加賀藩士の富田景周によって書かれた、金沢の史書『越登賀(えつとが)三州志(さんしゅうし)』に記載され、いまでも昔話などで『イモほり藤五郎』『芋ほり長者』として語り継がれている。
 地元・金沢の人口に膾炙している「金沢の由来」の一つである。
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